限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第342回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その185)』

2018-01-25 16:22:54 | 日記
前回

【284.左遷 】P.954、BC32年

『左遷』とは「高い官職から低い官職落とすこと」をいう。三国志の学者・韋昭は次のように説明する。「一般的に右が貴く、左が賤しい。これ故、俸禄やランクを落とすことを『左遷』という」(地道尊右、右貴左賤、故謂貶秩為「左遷」)

「左遷」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。初出は、史記であり、前秦時代には使われていなかった単語のようだ。かなり頻繁に使われているが、後漢書と陳書には見えない。解せないのは、後漢時代には「党錮の禁」があって、宦官と士大夫が激突し、政治が大混乱したにも拘わらず「左遷」が全く使われていない。私だけかもしれないが、なんだか妙な感じがする。



さて、資治通鑑で「左遷」が使われている場面を見てみよう。前漢の末期、元帝が音曲に耽溺し、宦官に政務を委ねたため、宦官が勢力を大きく伸長した。その筆頭が石顕であった。石顕の勢いを象徴するのが、太子太傅という高官の蕭望之をも自殺に追い込むことができたという一件だ。しかし、その絶頂も元帝が崩御し、成帝が即位すると、脆くも崩れさり、今度は一転して暗澹たる運命をたどることになる。

 +++++++++++++++++++++++++++
(成帝は)石顕を長信中太僕に転出させ、年棒を中二千石に落とした。石顕は帝の信任を失い権力の座を追われたので、丞相と御史大夫はここぞとばかり、石顕のかつての悪事を帝に暴露した。石顕の一派である牢梁や陳順はいづれも皆免職となった。石顕は妻子と共に故郷へと向かったが、前途を悲観して、絶食して旅の途上で死んだ。そこで、石顕の引きで官途に就いたものは全員免職となった。少府の五鹿充宗は玄菟太守に左遷させられ、御史中丞の伊嘉は鴈門の都尉に降格させられた。

司隷校尉で涿郡出身の王尊は次のような弾劾文を上奏した。「丞相の匡衡、御史大夫の張譚は、石顕らが権力を独占して、勝手なことをして人々が大いに困っていたことを知っていたにも拘わらず、適切な時期に告発して処罰しなかった。それどころか、阿諛追従して石顕と、ぐるになって皇帝を欺き、国政を誤らせた。大臣の職務を全うしなかったと言うべきだ。…」

激烈な上奏文に、匡衡は身の置き所がないぐらいに縮みあがって、冠を脱いで、自分の罪を認め、丞相と侯爵の印綬を返還したいと申し出た。成帝は、新たに即位したばかりなので、大臣を罰したくなかった。それで、逆に王尊を左遷して、高陵令に格下げした。しかし、官僚の多くは、それでも王尊を慕うものが多かった。

石顕遷長信中太僕、秩中二千石。顕既失倚、離権、於是丞相、御史条奏顕旧悪;及其党牢梁、陳順皆免官、顕与妻子徙帰故郡、憂懣不食、道死。諸所交結以顕為官者、皆廃罷;少府五鹿充宗左遷玄菟太守、御史中丞伊嘉為鴈門都尉。

司隷校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚、知顕等顓権勢、大作威福、為海内患害、不以時白奏行罰;而阿諛曲従、附下罔上、懐邪迷国、無大臣輔政之義、皆不道!…」

於是衡懼、免冠謝罪、上丞相、侯印綬。天子以新即位、重傷大臣、乃左遷尊為高陵令。然群下多是尊者。
 +++++++++++++++++++++++++++

上の文で分かることは次の2つだ

【1】権力は一連托生
顕官(この場合は、石顕)が失脚すると、関係者は善行/悪行や罪の有り/無しに関係なく、同時に失脚するということだ。つまり、派閥というのは文字通りの一蓮托生である。現在でも、先ごろ重慶の書紀であった孫政才が失脚したが、その際に、重慶市関係者も(一時的か恒久的かは分からないが)巻き添えを食った。詳細は下記の記事参照。

 +++++++++++++++++++++++++++
…中国には「川に落ちた犬は徹底的に叩け」との常套句があるが、孫氏の場合もその例に漏れておらず、重慶市幹部10数人が取り調べを受けているほか、党大会への出席資格がある重慶市代表団43人のうち、3分の 1の14人が代表団のリストから外されていることも分かった。…
 +++++++++++++++++++++++++++

【2】正しい指摘でも逆に左遷

王尊の指摘は正統ではあったが、皇帝の気に入らなかったので、無実にも拘わらず逆に左遷させられる破目となった。ちょうど、司馬遷が李陵をかばったために不当にも武帝に宮刑に処せられたのと状況は似ている。そこで、司馬遷は筆の力を借りて『伯夷叔斉伝』では、恨みをこめて「天道は是か非か」(天道、是邪非邪)と暗に武帝の所行を糾弾した。中国の歴史をずっと眺めると中国では「非」のケースが日本よりかなり多いと私には思える。

この意味で、中国では最高権力者とそれ以外は、大きな差があるということが分かる。つまり、最高権力者というのは、孫政才と毛沢東とを比較しても分かるが、悪事をしていても我が身が安全に保てるのが最高権力者で、罪を問われるのが最高権力者でない人、ということだ。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*

ところで、本論の主旨とは関係のない話だが、資治通鑑全文に句点を打ち、書き下し文にした公田連太郎という人がいる。辻双明の『禅骨の人々』には公田連太郎先生の話が載っているが、非常な勉強家でかつ仕事熱心な人で常人には真似できない程、膨大な仕事量をこなした人だった、との記述がある(ように記憶している。)また、他人の漢文力をめったに誉めない吉川幸次郎も公田連太郎だけは、「先生」と呼び、公田の漢文解釈力については「自分が見た限り、間違いは一つもない」と敬意を表している。

ところで、以前のブログ
 百論簇出:(第149回目)『還暦おじさんの処女出版(その3)』
に書いたように私が角川の『本当に残酷な中国史』を出版する際、漢文の読み誤りがあっては読者に失礼だと思い、公田連太郎の続国訳漢文大成(全16巻)を購入した。

現在でも時たま参照するが、都度、新たに教えられる点が多々あり、感謝している。ところが、今回、上の部分を読んでいる時、図らずも公田の読み間違いを見つけた。


ここで、左側の文が公田の書き下し文で、右側の文が中華書局の文である。

公田の文では、司隸校尉の王尊が丞相の衡と御史大夫の譚を弾劾したと述べ、その弾劾内容が「知顯等顓權勢…」と解釈している。一方、中華書局の文(注釈を省略)では、
 司隸校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚、知顯等顓權擅勢…」
と区切って、弾劾内容の文が「丞相の衡と、御史大夫の譚は…」となっている。

この部分の、「丞相衡、御史大夫譚」という書き方は丞相の匡衡の姓である「匡」や御史大夫の張譚の姓である「張」を省略している。この全体の文はここに掲げたように「石顕遷長信中太僕…」から始まっている。つまり、丞相の匡衡の名前が初めてここで登場する訳だが、資治通鑑の書き方として、初出の人名は地の文では必ず姓をつけるのが通例だ。しかるにここでは、初出にも拘わらず「匡」が省略されているということは、これは地の文ではなく、中華書局のように王尊の上奏文の内容だと解釈するのが妥当だ。

史記に「智者千慮、必有一失。愚者千慮、必有一得」(智者も千慮に必ず一失あり。愚者も千慮に必ず一得あり)とあるが、まさしく公田のような智者にも些細なミスがあり、それが愚者に見つけられてしまったという次第。。。

続く。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 百論簇出:(第216回目)『コ... | トップ | 【座右之銘・110】『saepius ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事