限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第261回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その104)』

2016-06-23 22:58:33 | 日記
前回

【203.遊戯 】P.785、BC74年

『遊戯』とは現在では、主として「幼稚園や小学校で行う遊び」を指す。しかし、元来は「遊び、戯(たわむ)れる」という意味である。現代語でいうと「レクレーションや、おふざけ」に該当する概念だ。

単語としては、戦国時代の楚の詩人、屈原の『楚辞』にしばしば登場するので、二千数百年もの歴史ある古い単語であることが分かる。



しかし、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索すると、史記から始まって、旧唐書までは見えるが、その後、宋史から元史までは全く使われていない。その後、明史では皇帝の低落ぶりを非難する場面に7回使われている。最後の史書である、膨大な清史稿には「遊戯」はわずか1回しか使われていない。これから、どうやら近年になって「遊戯」は別の単語に置き換わったものと推測される。



さて、資治通鑑での「遊戯」の初出は、前漢の昭帝が崩御したため、実力者の霍光が劉賀(昌邑王)を帝位に就けたところに見える。王から帝になった劉賀(昌邑王)は何かと不行跡が多かったので、上官皇太后に呼び出された。自分の目の前で臣下たちが皇太后に廃位する理由を縷々陳述するのを冷や汗を流しながら聞かされた劉賀(昌邑王)であった。

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……劉賀(昌邑王)は、昭帝の遺体がまだ宮殿にあるにもかかわらず、お構いなしに宮殿の楽府から勝手に楽器を取り出し、お抱えの楽人を引き入れ、太鼓を打ち鳴らし、歌い、ダンスをした。それだけでなく、宮廷楽団の楽器奏者も無理やり引き入れて大合奏をした。帝専用の乗り物(法駕)に乗って、北宮や桂宮を駆け巡り、ブタとじゃれたり、虎を同士を闘かわせたりしていた。また、皇太后の小馬車を無断で借用し、官奴を御者にして宮廷内で遊戯をした。さらに、亡帝の女官の蒙たちと淫乱を恣にした。そして『告げ口をした者は、腰斬りの罪に処すぞ!』と脅した。そこまで聞いて、太后は「もうよい!人の子として、ここまでの悖乱の行いをするものか!」と怒りをあらわにした。劉賀(昌邑王)は、椅子から降りて、突っ伏した。

……大行在前殿、発楽府楽器、引内昌邑楽人撃鼓、歌吹、作俳倡;召内泰壱、宗廟楽人、悉奏衆楽。駕法駕駆馳北宮、桂宮、弄彘、鬬虎。召皇太后御小馬車、使官奴騎乗、遊戯掖庭中。与孝昭皇帝宮人蒙等淫乱、詔掖庭令:『敢泄言、要斬!』--」太后曰:「止!為人臣子、当悖乱如是邪!」王離席伏。
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まだ20歳にもならない、劉賀(昌邑王)は王から帝になったうれしさに舞い上がってしまい、歓楽を極め尽くすことができると錯覚したようだ。それで、昭帝の喪(当時は大体1ヶ月程度)が明けていないにも拘らず、楽人を呼んで音楽会をしたり、猛獣同士の闘いを見学したり、はては先帝の女官たちとセックスをしたりと、思う存分青春を謳歌した。このような乱行のために僅か一ヶ月満たずに帝位を追放されてしまった。

なにやら、最近、某知事が贅沢三昧の末、詭弁や涙の懇願も甲斐なく、あっけなく知事の座を追い出されたのとどこか似ているような。。。

続く。。。
コメント
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