限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第114回目)『私の語学学習(その48)』

2010-12-04 21:43:36 | 日記

前回から続く。。。

私が学生の時(昭和50年ころ)は、京大の工学部では第二外国語と言えば、ドイツ語、フランス語、ロシア語の3つの西洋語の中から選択するしかなかった。ちなみに現在ではこれ以外に、イタリア語、スペイン語、アラビア語、中国語、朝鮮語、の中から選択することが可能である。

私に英語以外の外国語に関心を抱かせたのは、実は高校の時の同級生の一言であった。それは、『ぼくの塾の先生は英語、ドイツ語、フランス語の三ヶ国語ができるんだ。』 受験英文法にうんざりしていた私は、『この英語ですらできずに苦しんでいるのに他の言語など自分には無理だ。しかし、三ヶ国語できるというのは頭の中がどうなっているんだろう?』と、独り言をつぶやいた。しかし、この時の同級生のたわいもない自慢話が私に多言語への興味を植えつけたのであった。

しかし三ヶ国語どころか、大学では早速、第二外国語のドイツ語にてこずった。『不可能を可能に!英語の短期習得術』に述べたように、授業中に『鬼の高木』に簡単な格変化が言えず、怒鳴られてしまった。しかし、それをきっかけとしてドイツ語に身を入れるようになり、最終的にはドイツ留学もできたお陰で、その後の私の知的視野(intellectual horizon)が大きく拡大した。

更には、『私の語学学習(その10)』で述べたように 3年生の時にフランス語に1年間、かなりまじめに取り組んだ。このお陰で曲がりなりにも『三ヶ国語できる』状態がどういうものなのか理解できるようになっていた。当初、高校の時に友達が塾の先生を自慢していたのを聞いた時には、三ヶ国語を理解するのには、英語の苦労の3倍以上の労力がかかるものだと考えていたが、実際にしてみると、初級レベルをマスターするには、ほんの数ヶ月で可能なことが分かった。これは、私にとっては大いなる発見であったし、その後、多言語を学ぶことへの恐怖感が完全に払拭された。(当然のことながら、外国語を完全に理解でき、話せるような上級レベルに至るにはずっと多くの時間と労力を要するのは言うまでもない。)

その後、『私の語学学習(その6)』に述べたようにドイツ語に熱中し、ドイツ留学を最大の目標に定めてドイツ語の猛勉強を開始したので、他の言語への関心が薄れてしまった。そしてドイツ語で、ギリシャ・ラテンのものを読み出してからは、語学というより内容(コンテンツ)そのものに関心の重点がシフトした。但し、印欧語の語源への関心は途切れることはなかった。そして、ギリシャ語とラテン語をひととおり学習して、これら古典語の仕組みを知りたいという好奇心が一通り満足された後は、他のヨーロッパ言語に対する関心は完全に消えてしまった。

このプロセスを自分なりに分析すると、私が語学をしたいというモティベーションは言語的な興味もさることながら、原典で読みたい本があるかどうか、と言う点が非常に大きく関係している。この点で、漢文やギリシャ語・ラテン語などの古典語はこの両方の欲求を完全に満たしてくれる。しかし、私もギリシャ語やラテン語で読みたい本が存在しているなどというのは、 20歳になるまでは思っても見なかった。それが大転換したのは『私の語学学習(その13)』で述べたように、モンテーニュの『エセー』(河出書房新社)を読み、寸鉄人を刺す警句がそれこそ『應接不暇』(応接に暇ない)ぐらい数多く出てくるのを見てからであった。『エセー』を読み終えてからは、これらの表現を是非とも原文で理解してみたいと強く願うようになった。それが最終的に20数年経って、ギリシャ語・ラテン語に取り組むことにつながっていった。

これに反し、現在のヨーロッパ言語(スペイン語、イタリア語、など)は私にとっては、とりたてて原文で読みたい本も思いあたらない。そして決定的なのは、これらに言語的好奇心が全く刺激されないことである。スペイン語、イタリア語などのロマンス語の綴りは元のラテン語から随分とかけ離れている。例えば、日(ひ)というのは、元のラテン語では、dies と言うが、イタリア語では giorno と言う。文語のラテン語からだんだんと変化した口語の話し方をそのままアルファベットで表記したのが現代イタリア語であり、私には語源的に興味をもたらす要素に欠ける。

一方、スペイン語は、いつの時代からかは分からないが、綴りがまったく発音通りになっている。例えば、シンフォニーは、sinfonia と表記する。この言葉は元来はギリシャ語の symphonia という単語で、syn(一緒に)+ phone(音)という合成語である。綴りも syn の後に ph が来ているので韻音変化の規則どおり、sym と変化しているのだ。しかし、発音そのものは『シンフォニー』なのでスペイン人たちは、耳に聞こえたとおりに綴ることにしたようだ。そうして出来た単語、sinfonia では単語の元来の意味が全く分からなくなってしまっている。語源に関心のある、私にとってはこの点が不満である。

これとの対比で日本語のことを考えてみよう。日本語の新漢字で、『からだ』を『体』と書くが、元来は『體』と書く、つまり骨が豊かにあるのが、『からだ』であるという原義である。新漢字では、この原義が全く分からなくなってしまっている。まるで、sinfonia がギリシャ語の原義を想起させないのと相似だ。

このように洋の東西を問わず、過去の文化遺産との連携を断ち切る簡略化が進んでいるが、私はこれは一種のソフト的な文明破壊だと考えている。

続く。。。

コメント
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