限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

出口治明氏特別講義:『中国の歴史と思想(2)』

2010-06-02 00:06:12 | 日記
前回に続いて、ライフネット生命保険株式会社の出口治明社長の京大での特別講義の内容を紹介したい。

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中国史の中で、戦国時代と同様の大きな転換期は、宋の時代です。宋の300年は、一言で言えば、中国で複数国家が併存した時代でした。北方遊牧民のキタイ、大夏、金と宋が、壇淵(壇は本当はさんずい偏)システムという知恵によって、概ね、平和共存していたのです。976年、宋を開いた太祖の弟、趙匡義が即位しました(太宗~997)。息子ではなく弟が継いだことにより、この皇位継承は千載不決の議と呼ばれ、一抹の疑惑を後世に残しましたが、太宗は優れた資質に恵まれており、979年、中国の再統一に成功しました(但し、キタイが領有していた燕雲16州には手がつけられませんでした。キタイの軍事力は、宋を凌いでいたからです)。慎重で実務能力に長けた太宗は、中央集権国家の確立を目指して遮二無二働きました(中国皇帝のワーク・ホリック3傑は、始皇帝、宋の太宗、清の擁正帝と云われています)。

太宗は、選挙を改革し、皇帝自ら最終試験を行う殿試を加えて、いわゆる科挙制度を確立しました。人材の登用は科挙制1本に集約されたのです。宋以降の科挙は、隋唐帝国の選挙とは、別物になったと言ってもよいでしょう。これによって、漢、六朝以来の名門貴族は最終的に姿を消し、全国から登用された優秀な官僚が皇帝に直属する文治主義、皇帝独裁制が完成しました。彼等は理想に燃えて活発な議論を行い、国政をリードしたのです。宋以降、男系を重んじる儒教倫理が社会の末端にまで浸透したこともあって、これまでのような外戚(女系)の跳梁跋扈は見られなくなります。また、群雄割拠の時代にも終止符が打たれました。節度使にも文人官僚が任命され、中央のシビリアンコントロールが徹底されるようになったからです。



科挙の合格者を輩出する地方の新進の有力階層(大土地所有者など)は、士大夫と呼ばれました。受験勉強にはお金と時間(15年から20年)がかかります。書院と呼ばれた私塾(受験予備校)に通って科挙に挑戦することが出来たのは、一部の特権階級でした。科挙は3年に1回行われ、300~400人の合格者を出しました。ところで、科挙のような先進的な人材登用制度が確立したのは、太宗が、例えば同時代のオットー大帝(936 ~ 973)より優れた資質を有していたからでしょうか。それも若干はあるかも知れませんが、科挙を実現するためには、まず、勉学に供する教材が広く全国に行き渡っていなければなりません(勿論、一般の個人が大量の書籍を購入することは不可能でした。科挙に必要とされる経典類は、各地の役所―官立図書館としての廟学や書院に常備され、受験生が、それを筆写したのです)。即ち、その国の印刷、出版産業のレベルが問題となるのです。宋は、このような社会のインフラ部分でも、当時の世界の最先進国でした。

版木(横幅)の制約は、今で云うA4やB5を片面とする胡蝶綴じを生み出しましたが、これは、読書に革命をもたらしました。巻物とは異なり、(栞で)いつでも必要な箇所を参照出来るようになったからです。ヨーロッパで、仮に、科挙を実施しようと思えば、最低、500年は待たなくてはならなかったでしょう。唐末の印刷術の発明による情報革命が、新たな時代を現出したのです。これは、中国史上、紙の発明に次ぐ、大きな時代の転機でした。始皇帝のグランドデザインによる中華帝国は、宋の太宗によって、より近代的に再構成されたのです。

この宋の時代に、南の経済力が圧倒的となり、華北は江南の食料に依存するようになりました。江南では、ユーラシアの気候の温暖化を受け、ベトナムからもたらされた早稲(長粒の占城米)によって、米と麦の2毛作が可能となり、埋め立てなどによる新田開発も進んで、農業革命が生じました(以前の短粒米は駆逐されました)。漢や隋唐の盛期に5~6千万人で推移していた中国の人口は、1億人近くまで膨れ上がりました。また、飲茶の習慣が広まり、それに伴って陶磁器産業も飛躍的な発展を遂げました。中国では古くから磁州で磁器が生まれ、景徳鎮では既に漢代から窯が開かれていましたが、景徳鎮の名が冠せられたのは、宋初の時代からのことです( 1004~1007年の元号が景徳)。宋の白磁や青磁は、輸出品としても珍重されることになりました(なお、農業革命や陶磁器産業の発展の陰には、石炭とコークスを活用する火力革命があり、製鉄業の発展がありました)。

大運河と結びついた海の中国では、宋の時代に、ジャンク船と呼ばれる頑丈な大船(竜骨を持ち、防水横隔壁を持つ)が開発、改良されるなど海運技術が急速に向上し、海のシルクロードは飛躍的な発展を遂げました(966年、早くも宋は、南海貿易を管轄する広州市舶司を設置しています。当時は、広州、泉州、明州=寧波が3大貿易港でした。また、宋初の福建の漁師の娘が、媽祖として、船乗りの守護神となって行きます)。いわば、政治革命(前述した皇帝独裁制)、農業革命、火力革命、海運革命などが同時に生じたのです。これを唐宋変革と呼ぶ学者も多いのですが、京都大学の内藤湖南先生は、ずいぶん昔からこの点を鋭く指摘されていました。

このような大きな変化は、思想・宗教や人間精神の在り方にも深い影響を与えずにはいられませんでした。例えば、仏教は鎮護国家を目的とする首都の国家仏教から、庶民を巻き込んだ地元密着型の仏教へと変化を遂げて行きました。阿弥陀如来の救済、弥勒菩薩の来臨を期待する他力本願的な浄土信仰が庶民に喜ばれ、士大夫は禅で修身に励むようになります。また、華やかで写実的な唐三彩とシンプルで抽象的な宋磁器では、明らかに文化が異なるように思われます(わが国の侘び寂び文化の源流は、禅宗と共に宋からもたらされたものです)。なお、羅針盤が発明され、唐代から実用化されていた火薬や印刷(木版)術が、長足の進歩を遂げたのも宋初のことでした。油を使った加熱法が改良され、今日の中国料理の原型もほぼ出来上がりました。夜の長安(唐)は、市門が閉じられ、一部の歓楽街を除けば、全体としては薄暗い街でした。

これに対して、宋の開封(東の都という意味で、東京と呼ばれました。日本の東京の先駆です)は、茶館が立ち並び、講談や大道芸が市民の耳目を引く不夜城でした。娯楽が庶民にまで浸透し、劇場は50以上を数え、名裁判官の包拯(包待制)が活躍しました(大岡越前守忠相の政談は、その多くが包拯から採られています)。現在で言えば、ニューヨークのような街であったのでしょう。世界の最先端を行く開封には、国際ビジネスに従事するユダヤ人街もありました。春の清明節を描いた張択端の「清明上河図」(上海万博・中国館の目玉となっているようですが)や、孟元老の「東京夢華録」には、開封の夢のような繁栄振りが描かれています(もっとも、清明上河図は、開封城内ではなく郊外を描いたものらしいのですが)。経済の活況を反映して、唐代には、30万貫程度であった銅銭の鋳造額は宋代には 550万貫以上にも達しました。もっとも、女性にとっては、儒教の普及により社会での活躍の場が徐々に閉ざされていった時代でもありました。富裕階級の間で、纏足(要するに、女性は労働しなくていい)の習慣が広がるのも宋代のことでした。武則天のような女性が活躍する舞台はなくなりつつありました。

ところで、北方を支配するキタイでは、6代、名君聖宗(982~1031)が即位していました。1004年、聖宗が大軍を率いて南下すると、動揺した宋の宮廷では王欽若などの南遷論が主流を占めましたが、硬骨漢の名宰相、寇準は、黄河北岸での迎撃を断固主張しました。臆病な3代真宗(997~1022)は、寇準に押し込まれ、恐る恐る北に親征しました。寇準は、戦争に訴えるつもりはなく、講和を目論んでいましたが、そのためにも先ずは毅然とした態度を示す必要があると考えたのです。両皇帝の親征軍は睨みあいとなり、壇淵の盟(壇は本当はさんずい偏)と呼ばれる和約が結ばれました。これは、キタイを兄とし、宋は毎年、銀10万両、絹20万匹を贈るというものであり、一種のODAでした。キタイに渡った銀は、宋からの商品の買い付けに当てられたので、宋の産業も潤うことになりました。

なお、平和維持の最大の功労者、寇準は、後に、王欽若の讒言(城下の盟、だとあげつらったのです)によって失脚します。讒言を信じて中華帝国の権威を失ったと考えた真宗は、1008年、唐の玄宗皇帝以来、270年ぶりに(始皇帝が始めた)封禅を泰山で行って、権威を回復しようとしました(これが中国史上最後の封禅となります)。しかし、この優れた条約によって、両国の間には、ほぼ120年にわたって平和が保たれ、両国は共に最盛期を迎えることになりました。軍事の北と経済の南という南北分立システムは、それなりに安定したシステムとして、クビライによる統一まで約300年、続くことになるのです。

陸の世界と海の世界を統一したモンゴル帝国(大元ウルス)の時代、平和で活気に溢れたグローバリゼーションの時代については、京都大学の杉山正明先生が、これまでの常識(野蛮で好戦的なモンゴル)を、覆されました。どうして、歴史的事実とは異なったモンゴル像が植え付けられたのでしょう。英明なクビライ(1260 ~ 1294)は、世界帝国を維持するため、何人であれ優秀な人間を登用しました。要するに多くの外国人を重用したのです。その結果、中国の士大夫は高官のポストを失って不満分子化しました。生きるためには豊かな江南で家庭教師を務めるぐらいが関の山でした。

当時の儒教は、南宋の朱熹が大成した朱子学が大勢を占めつつありました。金に敗れて南遷した南宋で興った朱子学は、尊王攘夷のイデオロギーに色濃く染まった教学でした。すなわち、民族問題と正統王朝論を絡めて論じ、北宋が金に敗れた責任を王安石が始めた新法党に転嫁したのです。これにより、近代のヨーロッパで生じた合理的な富国強兵策によく似た新法で儒教を抜本改革しようとした王安石以来の新法党は息の根を止められてしまったのです(因みに、三国時代の蜀を正統としたのも朱熹であり、正統王朝を開いた曹操が逆に悪玉となり劉備が善玉となる歴史の歪曲が行われました)。気候の不順化によって大元ウルスが北方に退き、南方から興った明が南京を首都として中国を統一した時、明に集まった士大夫が、元史を大急ぎで纏めました。そこには、朱子学に鼓舞され、モンゴル政権に職を奪われた彼らの恨み骨髄が込められていたのです。杉山先生は、これまでの中国史家が依拠していた漢文資料とペルシア語など他言語の資料を対比させることによって、明の士大夫によって不当に貶められていたモンゴル帝国像を、より実像に近い形で再構成されたのです。

クビライ政権は、土地税ではなく専売(塩。「塩引」と呼ばれた塩の引換券=有価証券を政府が大商人に販売しました)と商業税に依拠した政権でした(80%が塩税、10~15%が商業税という試算もなされています)。世界初の重商主義国家といってもよいでしょう。大元ウルスは、イラーン系のムスリム商人やウイグル商人が運営する、銀を価値の基準とする経済システムによって支えられていたのです。銀で徴収された商業税(30分の1)は、クビライの下に集められ、ユーラシア各地の王族や支配層に贈与されました。その銀は、ユーラシア各地のムスリムの大商社(オルトク。いわば、特許会社であり、現代の国際的な投資銀行や株式会社の1つの祖形とも考えられます)に投資され、中国から絹や陶磁器を購入する資金に充当されました。こうして中国に還流した銀は、商業税の形で、再び、政府に吸い上げられます。中国はそれまでの自立したシステムから、ユーラシアの銀の大循環システムの中に組み込まれたのです。

各地の通過税は撤廃されました。クビライの政策は、いわば、ユーラシア全体を巻き込んだ楽市・楽座政策であったのです。モンゴルの王族は、巨大な資本家となり、モンゴル帝国は、銀とオルトクを通じたユーラシア大の経済・金融組織と化しました。グローバリゼーションは、ここに完全な実現を見たのです。そして、銀と塩引(などの紙幣)の流通によって、行き場を失った銅銭は、日本などに大量に輸出されました(経済規模に比べて、銀の絶対量が不足していたので、高額紙幣として、塩引が流通)。こうして、クビライの下で、ユーラシア循環交通路が完成し、世界の交易は飛躍的な高まりを見せました。アフマドのようなオルトク出身の財務長官が縦横無尽に活躍しました(ウォール街の出身者が財務長官になる現在のアメリカ合衆国のようです)。人、物、金、情報が自由に往来するグローバリゼーションの時代が実現したのです。人種や宗教、年齢に関らず、多言語を自由に操る有能な人材が続々と登用されました(科挙が、一時停止されたのは、試験科目である四書五経は中国人にしか理解できないからです。官職に就くためには、まず、何ヶ国語に通じているかを上申する必要がありました)。思想、信条や宗教によって、迫害を受けた人の数が、最も少ない稀にみる幸運な時代だったのです。

明の太祖、朱元璋(1368 ~ 1398)は、大元ウルスを憎んでいましたが、大元ウルスは実はグローバルでオープンな知識人と商人を何よりも大切にした政権でした。朱元璋は、文人と商人を憎み、農業に基軸を置いた古代的な帝国を樹立しようと画策しました。明は、退嬰的な暗黒政権としてスタートしたのです。中国の歴代皇帝の中で、朱元璋ほど臣下の殺戮に手を染めた皇帝はいないのではないでしょうか。明の3代、永楽帝(1402 ~ 1424)は、北京を根拠にして政権を簒奪しましたが、北京は、海に向かって開かれた大元ウルスの都、大都の跡地であり、永楽帝はクビライを強く意識していました。

クビライによって完成された海の中国の時代の最後を飾るもの、それが永楽帝によって組織された鄭和艦隊でした。1405年、永楽帝は、宦官、鄭和に、大航海を命じました。雲南生まれの鄭和は、ムスリムで、祖父や父はマッカに巡礼したことがありました。鄭和は、戦争捕虜として去勢されましたが、堂々とした体躯と将軍としての優れた資質を持っていました。そして、目前には、クビライが開いた海の道がどこまでも通じていたのです。鄭和は、1433年まで、7回に亘って、インド洋、アラビア海を往来し、マッカやアフリカのケニアまで到達しました。鄭和艦隊は、60隻以上、約2万8千名の乗組員を擁していたのです。当時としては、今日のアメリカ海軍以上のパワーを持つ無敵艦隊であったことは確実です。主力艦は少なくとも1200トン以上(発掘された船体の一部から推定)、中心を成す宝船の中には、長さ125m以上、幅50m以上という巨艦もあったと伝えられています(今日の船では1万トンクラスに相当。但し、当時の技術では、長さ50m程度が限界という学説もあります)。

約100年後のコロン(コロンブス)の艦隊が、全長25m、3隻、88人であったことを想起すれば、宋からモンゴルへと受け継がれてきた中国の造船技術や海運力の高さが、実感出来るでしょう。鄭和艦隊は、まさに海上に浮かぶ帝国であり、その威容に恐れをなした沿岸諸国は、揃って朝貢に応じました。鄭和艦隊によって、東シナ海~インド洋~アラビア海~東アフリカ沿岸に至る海の道の安全は、確実に保障され、平和な交易が可能となったのです。この後、明が鎖国政策を採らなければ、ポルトガルやスペインが、インド洋からアジアに進出することは全く不可能であったと思われます。何よりも、16世紀のヨーロッパの海外進出を支えたイノベーション(印刷術、大砲、火薬、磁石羅針盤、機械時計、鋳鉄、複帆航海術、数量的製図法など)は、全て、中国から移入したものであったからです。鄭和艦隊の記録は、(莫大な費用のかかる)航海の再開を恐れた明の官僚によって廃棄されてしまったので、詳細は判らないのですが、艦隊の一部がアメリカに達したという説も出されているほどです。

明の愚かな鎖国政策によって、それまで世界の文明を牽引してきた中国は下降線を辿り始めます。それでも、19世紀の初頭、中国のGD Pは世界の3割以上を占めていました。中国に決定的なダメージを与えたのはアヘン戦争(1840~1842)でした。インドを植民地とした大英帝国は、インド(東インド会社)に膨大な債権を有していました(軍隊の派遣費用など)。東インド会社は綿花の輸出で債務を弁済していたのですが、インドの綿花は新大陸の綿花に後れをとるようになったので、中国からお茶を輸入してそれを英国に輸出することで急場を凌ぐようになりました。しかし、大英帝国やインドから中国に輸出するものがありません。その結果、国際通貨である銀が中国に吸い上げられて行きます。進退極まった東インド会社が思いついたのがアヘンの密貿易でした。アヘン貿易によって、今度は中国から銀が流出し始めます。この後の経緯についてはよく知られている通りです。

中国の歴史を概観すれば、アヘン戦争以降の150年が異常で例外的な時代であったことがよく分かります。現在、中国の経済は著しい伸長を見せていますが、それは「台頭」ではなく「回復」であると見るべきでしょう。氷河期に、ユーラシア大陸は厚い氷に覆われました。ヨーロッパではほとんどの動植物が死滅しましたが、東アジアでは、インドやインドシナ半島が南に出っ張っていたため、お茶や蚕などの動植物が生き延びました。これが、豊かな東アジア、貧しいヨーロッパという構造をもたらした最大の要因です。乾隆帝(1735~1795)が、交易を求める英国の使節、マカートニーに「英国から輸入しなければならないものは何もない」と答えたことは、決してゆえなきことではなかったのです。

(完)
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