日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

鎮魂 広島核大虐殺~アメリカの戦争犯罪を絶対に許さない

2015年08月06日 22時25分10秒 | その他・未区分
本日、8月6日はアメリカが広島に原爆を投下した日です。



犠牲となった方に謹んで哀悼の意を表します。


原爆投下の経緯(「リトルボーイ」Wikipediaより)

1945年 - 太平洋戦争中にアメリカが立ち上げたマンハッタン計画に基づき、アメリカ国内で製造。
7月16日 - サンフランシスコにて重巡洋艦インディアナポリスに積載され、日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島へ向け出港。
7月25日 - トルーマン大統領、日本への原爆投下を決定。
7月26日 - テニアン島到着。
7月31日 - リトルボーイ組み立て完了。
8月5日 - 爆撃機への搭載完了。投下に用いられた爆撃機はB-29であり、機名はエノラ・ゲイと名付けられた。
8月6日午前8時15分(日本時間) - 広島県広島市の上空高度9,600mから投下され、細工町(現:広島市中区大手町)の島病院上空約600mで爆発した。

焼失面積13,200,000m²、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。爆心地の近くにあった広島県産業奨励館は、現在原爆ドームとして世界遺産に登録されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

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原爆によって多くの広島市民が自分の身に何が起きたのかも分からずに亡くなりました。

アメリカは「原爆投下によってアメリカ人100万人が救われた。」「戦争終結が早まった。」と言い訳していますが、100万人という数字には何の根拠もありませんし、敗北寸前に日本に投下する必要性は感じられません。

当然、当時のアメリカ国内でも原爆投下に反対する声はありました。

ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている。

1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。

さらに1945年7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書 (Szilard petition) を提出したが、原爆投下前に大統領に届けられることはなかった。

軍人では、アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的でロタ島への爆撃を示唆している。また政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することには反対する者もいた。

しかし、トルーマンは、ニューメキシコ州での核実験(トリニティ実験)成功により、日本への原子爆弾投下を命令し、ここに全ての原子爆弾投下阻止の試みは潰えた。


日本への原子爆弾投下 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B#.E3.83.AB.E3.83.BC.E3.82.BA.E3.83.99.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E6.B1.BA.E6.96.AD

アメリカが原爆使用にこだわった理由はいくつかありますが、大きく二つあります。

「ソ連の牽制」と「人体実験」です。



既にソ連共産主義とヨーロッパを二分したアメリカはアジアへのソ連進出を食い止めたいと思っていました。



そして、アメリカは終戦後すぐに広島・長崎に調査員を派遣して原爆の威力や人体への影響を調べています。

芝田進午・広島大学名誉教授「被爆者援護法-もうひとつの法理」
(『毎日新聞』1994年9月6日付き)より抜粋

広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。

一つには戦後世界でのアメリカの覇権確立であり、二つには「原爆の効果」を知るための無数の人間への「人体実験」だった。

だからこそ、占領直後に米軍が行ったことは、第一に、原爆の惨状についての報道を禁止し「人体実験」についての情報を独占することだった。

第二に、史上前例のない恐ろしい火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第三に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。

たしかに「実験動物」を治療するのでは「実験」にならない。そこで、米軍は全力を尽くして被爆者の治療を妨害したのである。

第四に、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように「観察」するABCC(「原爆傷害調査委員会」と訳された米軍施設)を広島・長崎に設置することだった。加害者が被害者を「調査」するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。


第二次世界大戦後をにらんだ外交戦略と新兵器の人体実験のために日本は犠牲にされたのです。

このアメリカの戦争犯罪を絶対に許してはいけません。

私は反米を主張しています。しかし、サヨク陣営のように支那・北鮮を利するための反米ではなく、日本のための反米です。

遺憾ながら現在の日本は自力で国を守ることができません。

日米同盟なくして日本を守ることはできません。

だからといってアメリカに媚びへつらう必要はどこにもないと思います。

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赤尾敏先生の大日本愛国党はソ連・支那に対抗するために親米を訴えていました。(現在も愛国党の基本スタンスは親米反共です。)

しかし、冷戦終結頃にはアメリカ批判も行っています。

それは日本の立場を守るための行いでした。

29 :右や左の名無し様:2009/08/04(火) 06:08:13 ID:6QDwlttn
赤尾氏も最晩年の頃は、反共を優先するあまり対米批判を封じたため、
今日(その当時) の対米従属・親米売国(反共のためなら日本の国益を米国に平然と売り渡す)風潮を作ることに加担してしまったことを、後悔しておられたな。

そのせいか、’80年代終わり頃から、8月9日のことをそれまでの「反ソデー」から「長崎核虐殺記念日」と街宣ポスターの内容を変えたからな。


(反露ポスター)


(反米ポスター)


98 :右や左の名無し様:2010/02/01(月) 14:19:44 ID:iBm+yW8P
『日本が完全独立するまでは、アメリカを利用せねばならない』赤尾先生談


日本はアメリカの植民地でも支那の朝貢国でもロシアの勢力圏でもありません!

そして、改めてアメリカの戦争犯罪を絶対に許さないという決意を表します。

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最後に、鎮魂の精神が理解できない土民たちの紹介です。

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