口からホラ吹いて空を飛ぶ。

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無手勝流総括記事(複数回予定) キャラクターから見るこわしや我聞

2005-11-30 | 藤木俊関係

さて、こわしや我聞が終了した訳だが、それにあたって総括記事を書いてみたいと思う。
最終9巻に収録される真芝突入編の展開の速さ、ストーリーに「巻き」が入っている状況を見て、「打ち切り」といった言葉がよく囁かれていた、事実終了したのだが、それは実際には正しい表現では無い。
「打ち切り」とは文字通り「突然終了させられる」事を指す。ジャンプシステムを事実上指すのだが、サンデーについては当てはまらない。
サンデーはおそらく、ある程度(おそらく単行本一巻分)の猶予を持って、その作家にストーリーのまとめをさせる方法をとっていると思われる。
勿論、その時点で「異常な事態」である事は当然な訳で、作者は伏線の回収、ストーリーの終結に追われる事になる。
「こわしや我聞」はそういった異常な状況下にありながら奇跡的に、美しい、大団円を迎える事ができたレアなケースであろう。
そうした事を踏まえると、異常な状況なのは誰の目にも明らかではあるが、オフィシャルな声明・・・・・・「出版社」も「作者」も打ち切りとは発言すまい。
それが詭弁であろうとも。

それではあくまで俺個人の解釈で恐縮ではあるが、「キャラクターの視点」「世界観、物語構造の視点」の2部、数回に分けてこわしや我聞の長所、短所を考察してみたいと思う。

連載期間中の話ではあるが、ネット上においてこわしや我聞を「國生さんの為の漫画」と揶揄する発言が見受けられた。それの意味する処はネガティブな意味でもある為置いておくが、その言葉の本来の意味する処を無視し、言葉のみを捉えるならば、実はその表現は正しい。
その事に触れる前に、ヒロイン、國生陽菜を取り巻く人々について言及しなければならない。

最初に本来の主人公である工具楽我聞である。
過去のエントリにおいて俺は我聞を「人格が完成されている」と書いた。
我聞のモデルとなったのが「Gガンダム」における”ドモン・カッシュ”であるのは単行本のおまけや、作者のGガン好きと相まって疑う余地は無いのだが、劇中の我聞の過去、周囲の人物によってもその人格形成の原因を見る事ができる。
我聞は9、ないし10歳の時に母親と死別している。その時点で、母親の真の死因を知り得ていたかは定かでは無い。だがその時の、墓地での母の墓前での言葉を読む限りでは、その頃既に仙術を知っていた事がうかがえる。
昔から家を空け気味であったろう父、我也、まだ自分よりも幼い妹、弟を支えなければいけない、という責任感、母の死を契機にしてそういったものが我聞の中で
「強烈な目的意識」
に変化したであろうと思われる。
そして後に出会う飄々としながらも厳しさも併せ持つ兄貴分、辻原螢司、
豪放磊落をそのまま表現したような父にして師、工具楽我也、
さらには身体能力、技術もさることながら、精神修養を大きく重視される「仙術使い」と「こわしや」の称号。とりわけ仙術については、究極の肉体コントロールと表現されるにあたり、わずか7年でその地平に到達するには想像を絶する修行があったであろう事は想像に難くない。
こういった環境で我聞の人格は完成を見る。連載当初から我聞の思想、行動は一貫して貫かれており、ぶれが生じる事は無い。


と、我聞についてはこの辺にして、次は学友、特に卓球部の面々についても触れておこう。俺はこの「学園編」とも言うべきパートにおいて、最初は単純に面白がっていたのだが、話が進むにつれ、ある作品との共通する感覚を憶えた。
それは、それなりの年齢の漫画読みの方でないと判らない話で恐縮なのだが、
ゆうきまさみの「究極超人あ~る」である。
断っておくがこれは我聞、あ~るの両作品を貶める訳ではない。
両作品における作者の空気感、立ち位置、集団生活の場での思想、理想が近しい、と思うのだ。
基本的に我聞の中では楽しいイベントを中心に語られ、笑いを呼ぶエピソードが満載なのだが、注視すべきはその中でも本当になんでもない話にある。
あ~るにも共通しているのだが、彼等には「異邦人」、外部の人間にたいしても差別をする事が無い。
あ~るにおける主人公「R・田中一郎」はアンドロイドである。本人もそう明言し、時折首がもげたり(こう表現するとグロテスクなイメージをする方もいると思うが、実際は違う。ぜひ購読をお奨めする)もするが、周囲の、特にあ~るの所属する光画部の面々はまったく意にかえさない。むしろ、
おもしろい、ならばよし。アンドロイド?だからなんだ。
といった感じであ~るの周りでは騒ぎが絶える事は無い。
我聞のなかにおいては、桃子が学校に来た時のエピソードを見て俺は”あ、なるほど”と思ったのだ。
それ以前のエピソードを見るに、國生陽菜の初期の描写は、現実には相当に「とっつきにくい、トゲがある」キャラクターとして描かれている。
現実であれば誰しもが「引く」であろう表現も作者、藤木俊の独特の表現でもってその毒気を抜いている事に成功している。
最近の漫画、少年漫画においても、実はこういった漫画は少ない。いや、むしろ無いのかもしれない。こういったキャラクター、サブキャラに至るまで丁寧に表現されているのは作者、藤木俊の際立つ長所である。


と、ここまで書いたところで思いのほか長くなってしまった。本題の國生陽菜については次回に回す。この調子だと下手すると全4回位になりそうな気もするが、さて?





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2 コメント

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たとえ連載が終わっても。 (秋月らせん)
2005-12-04 14:56:26
こんにちは、しるこさん。

サンデーで幾ら探しても「こわしや我聞」が載っていない昨今。

しるこさんの記事に大勢のファンが救われる事でしょう。

一歩離れてた視点で見る事でより深く作品が理解出来ると思います。

(ある意味、毎回そのスタンスをとって感想を書くのがマーです。)



個人的には媚びずに作者がテーマを貫いた作品、

それが「こわしや我聞」だと思います。

連載終了の遠因ではあるかもしれませんが、

根強いファンが生まれた理由ではないかと。



おっと、素人考えを述べるよりしるこさんの記事を

お待ちした方がよさそうですね。



それではまた。
恐縮です。 (汁粉善哉(しるこ))
2005-12-04 20:09:18
いや、この記事にトラバして頂けるとは思っておりませんでした(汗)

多分に勝手な解釈で論を進めていたりもしますので……。

でもただ単純に「面白かったのになんで?」とか、ファンだから全てをOKとする、のもまた違うのかな、と。ファンだからこそきちんと自分なりに冷静に批評してみようかな、と思って書き初めてみました。

秋月さんの指摘、実は鋭いかもしれませんよ(ニヤリ)

それでは週1で論は進めたいと思っております。

楽しんで頂ければ幸いです。

それでは、また。

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