さて、では真芝についてなのだが、その前に前回能力者バトル物を「安易な」と書いたが無論そんな簡単な話では無い。少年漫画における能力者バトル物の利点を挙げておこう。
能力者バトル、と書いても更に範囲を広げると「連続勝負物の一部」と表現する事もできる。これはスポーツでも格闘物でもヤンキー物etcであっても適用できる広いカテゴリである。
連続勝負物の大部分は現実に根ざした物が大部分である。上記3つもそうであるし、ファンタジーであっても現実感の縛りが生まれる。(余りに浮世離れした世界観では読者が付いて行けない)魔法であっても「バスタード」「魔法先生ネギま!」のように結局は火力という結論であり”力”という観点では「バキ」であろうと「ドラゴンボール」であろうとファンタジーと大差は無い。
能力者バトルはそこに「なんでもあり」を付加した物、と言える訳だ。
単純な能力合戦から緻密な頭脳戦まで。
この「なんでもあり」が良くも悪くも荒唐無稽な展開へ作品を動かし、読者を引き込む。
勿論作品をまとめるのは作者の「腕力」にかかってくる(技術うんぬんより、腕力と表現した方が個人的にはしっくりくる)
この漫画という虚構にある種ゲーム的な能力という虚構を重ねる事で、作品中の現実、過酷、残酷な部分を和らげる(非現実であるという)「安心」を読者に与える訳である。HANTER×HANTERが明確に「ゲーム」を表現しているのに対し、「冒険」という非現実を表現しているのがONE PIECEである。
ここまで書いて察しの良い方は気が付かれると思うが、こわしや我聞の真芝の兵器とは、読者に現実感を意識させる物に他ならない。
「兵器」という物は、どうしてもその背後にある「戦争」「紛争」と言うものを読者に意識させざるを得ない。荒唐無稽よりも先にリアリズムが立ってしまうのだ。
そこに企業、商社、死の商人といった設定が付加されると、完全に荒唐無稽とは縁遠くなる。「無茶な兵器」といった物すら出せなくなる。
少年漫画とこわしや我聞の物語のカラー、それと兵器というリアリズム。
そこに相当に微妙なバランス感覚を要求されるのだが、やはり難しかったのか、というのが正直な感想である。
例えば、第3研での仙核により洗脳、仙術も使える兵士なのだが。
こういった「究極の兵士、戦士」といった発想は枚挙に暇が無く、相当に「異常な」物でないとエンタテイメントとしての「ウケ」は弱い。
ハリウッド映画の「ロボコップ」「ターミネーター」B級ではあるが「ユニバーサルソルジャー」小説で言えば菊地秀行「魔界行」夢枕獏「荒野に獣、慟哭す」、
最近の漫画で言えばヘルシングの「最後の大隊」、ベルセルクの「妖獣兵」etc……で、ある。
こわしや我聞のカラー、少年漫画の表現で考えれば正直これが限界であろうとは思う。人間を兵器化する、という事での倫理、道徳感を考えさせるというのも判る。
だが、エンタテイメントで考えるとインパクトに欠ける。弱い。
8巻、桃子編において我聞が桃子に
「人を血みどろにして命を奪う……お前がつくってるのはそういうモンだ」
と言っているのだが、それはそのまま
「少年漫画で兵器を扱う事の難しさ」
を表現している、とも言えるのである。
更に前回、作品の構造でバトルと日常の比率が我聞の場合、日常がとても高いと書いた。他のバトル物の作品が何故日常部分が少ないのだろうか。
それは、他の作品は敵側についても掘り下げて描写しているからである。
味方側だけではなく、敵側の内部事情、心理描写、そこから新たな展開へ、と描く事で闘争の深化、激化へと繋がってゆくのだ。それがそのまま「エピソードの長期化」へと繋がり、つまりは「日常へと戻って来れなくなる」のである。
こわしや我聞はここでもシビアなバランス感覚を要求される事になる。
作者が日常、学園の部分を大切にしている余り真芝側のキャラクターの掘り下げが浅く、言い方は悪いが「薄っぺらい」印象を与えているのだ。
最終段階で仲間となる十曲才蔵の過去などはもっと早い時点で描写されてもおかしくない。買収された家業を再建する為否応無しに従っている、このエピソードで十曲才蔵というキャラクターに広がりを持たせる事ができたはずなのだ。
桃子・A・ラインフォードのエピソードは日常とバトルを上手くブレンドさせる事に成功していて好感が持てたのだが、いかんせん、遅すぎた。
桃子は真芝の中にしか「自分の居場所が無い」と思い込んでいた少女である。
ある意味國生陽菜と似る。
もう少し早く登場する事で彼女の成長を描く、という方向もあったのではないか、とも思うのだ。
逆に凪原、七見、第3研所長などは揃って小物感しか感じられない。彼等に過去などは余り意味が無いのかもしれないが、「悪人としての凄み」「切れる悪党」等が欲しかったと思う。
だがこういった要素を考え始めると日常は遠くなってゆく。
やはり日常とバトルの両立は難しい。
こうして見るとこわしや我聞という作品は既存の方法論を否定し、新たな方向を模索したのだが実現には至らず、最終的に破綻した物語だった、と言える。
要素を詰め込み過ぎて消化しきれなかった、とも言えるのかもしれない。
だが初の週刊連載で2年の連載は伊達では無いと思う。
新たな連載ではまた意欲的な作品を見せてくれると思うし、期待したい。
俺はひたすらに期待して、待つ。
といった処で総括記事もひとまず終了です。最後まで読んでくださった方、全4回、1万字オーバーの長文にお付き合い頂き、ありがとうございます。
疑問、反論、批判などもコメント、ウェブ拍手、掲示板などで受け付けております。意見など聞かせて頂ければ幸いです。
さて、次はどうしようか?
能力者バトル、と書いても更に範囲を広げると「連続勝負物の一部」と表現する事もできる。これはスポーツでも格闘物でもヤンキー物etcであっても適用できる広いカテゴリである。
連続勝負物の大部分は現実に根ざした物が大部分である。上記3つもそうであるし、ファンタジーであっても現実感の縛りが生まれる。(余りに浮世離れした世界観では読者が付いて行けない)魔法であっても「バスタード」「魔法先生ネギま!」のように結局は火力という結論であり”力”という観点では「バキ」であろうと「ドラゴンボール」であろうとファンタジーと大差は無い。
能力者バトルはそこに「なんでもあり」を付加した物、と言える訳だ。
単純な能力合戦から緻密な頭脳戦まで。
この「なんでもあり」が良くも悪くも荒唐無稽な展開へ作品を動かし、読者を引き込む。
勿論作品をまとめるのは作者の「腕力」にかかってくる(技術うんぬんより、腕力と表現した方が個人的にはしっくりくる)
この漫画という虚構にある種ゲーム的な能力という虚構を重ねる事で、作品中の現実、過酷、残酷な部分を和らげる(非現実であるという)「安心」を読者に与える訳である。HANTER×HANTERが明確に「ゲーム」を表現しているのに対し、「冒険」という非現実を表現しているのがONE PIECEである。
ここまで書いて察しの良い方は気が付かれると思うが、こわしや我聞の真芝の兵器とは、読者に現実感を意識させる物に他ならない。
「兵器」という物は、どうしてもその背後にある「戦争」「紛争」と言うものを読者に意識させざるを得ない。荒唐無稽よりも先にリアリズムが立ってしまうのだ。
そこに企業、商社、死の商人といった設定が付加されると、完全に荒唐無稽とは縁遠くなる。「無茶な兵器」といった物すら出せなくなる。
少年漫画とこわしや我聞の物語のカラー、それと兵器というリアリズム。
そこに相当に微妙なバランス感覚を要求されるのだが、やはり難しかったのか、というのが正直な感想である。
例えば、第3研での仙核により洗脳、仙術も使える兵士なのだが。
こういった「究極の兵士、戦士」といった発想は枚挙に暇が無く、相当に「異常な」物でないとエンタテイメントとしての「ウケ」は弱い。
ハリウッド映画の「ロボコップ」「ターミネーター」B級ではあるが「ユニバーサルソルジャー」小説で言えば菊地秀行「魔界行」夢枕獏「荒野に獣、慟哭す」、
最近の漫画で言えばヘルシングの「最後の大隊」、ベルセルクの「妖獣兵」etc……で、ある。
こわしや我聞のカラー、少年漫画の表現で考えれば正直これが限界であろうとは思う。人間を兵器化する、という事での倫理、道徳感を考えさせるというのも判る。
だが、エンタテイメントで考えるとインパクトに欠ける。弱い。
8巻、桃子編において我聞が桃子に
「人を血みどろにして命を奪う……お前がつくってるのはそういうモンだ」
と言っているのだが、それはそのまま
「少年漫画で兵器を扱う事の難しさ」
を表現している、とも言えるのである。
更に前回、作品の構造でバトルと日常の比率が我聞の場合、日常がとても高いと書いた。他のバトル物の作品が何故日常部分が少ないのだろうか。
それは、他の作品は敵側についても掘り下げて描写しているからである。
味方側だけではなく、敵側の内部事情、心理描写、そこから新たな展開へ、と描く事で闘争の深化、激化へと繋がってゆくのだ。それがそのまま「エピソードの長期化」へと繋がり、つまりは「日常へと戻って来れなくなる」のである。
こわしや我聞はここでもシビアなバランス感覚を要求される事になる。
作者が日常、学園の部分を大切にしている余り真芝側のキャラクターの掘り下げが浅く、言い方は悪いが「薄っぺらい」印象を与えているのだ。
最終段階で仲間となる十曲才蔵の過去などはもっと早い時点で描写されてもおかしくない。買収された家業を再建する為否応無しに従っている、このエピソードで十曲才蔵というキャラクターに広がりを持たせる事ができたはずなのだ。
桃子・A・ラインフォードのエピソードは日常とバトルを上手くブレンドさせる事に成功していて好感が持てたのだが、いかんせん、遅すぎた。
桃子は真芝の中にしか「自分の居場所が無い」と思い込んでいた少女である。
ある意味國生陽菜と似る。
もう少し早く登場する事で彼女の成長を描く、という方向もあったのではないか、とも思うのだ。
逆に凪原、七見、第3研所長などは揃って小物感しか感じられない。彼等に過去などは余り意味が無いのかもしれないが、「悪人としての凄み」「切れる悪党」等が欲しかったと思う。
だがこういった要素を考え始めると日常は遠くなってゆく。
やはり日常とバトルの両立は難しい。
こうして見るとこわしや我聞という作品は既存の方法論を否定し、新たな方向を模索したのだが実現には至らず、最終的に破綻した物語だった、と言える。
要素を詰め込み過ぎて消化しきれなかった、とも言えるのかもしれない。
だが初の週刊連載で2年の連載は伊達では無いと思う。
新たな連載ではまた意欲的な作品を見せてくれると思うし、期待したい。
俺はひたすらに期待して、待つ。
といった処で総括記事もひとまず終了です。最後まで読んでくださった方、全4回、1万字オーバーの長文にお付き合い頂き、ありがとうございます。
疑問、反論、批判などもコメント、ウェブ拍手、掲示板などで受け付けております。意見など聞かせて頂ければ幸いです。
さて、次はどうしようか?
ふい~。お疲れ様です。只今、読了致しました。
やっぱり「こわしや我聞」はチャレンジングな作品でしたね。
商業性を追求して考察すれば「メル」は凄いと思います。が、
個人的には「こわしや我聞」に流れている空気が好きでした。
作品が終わってからも作品の事を
深く考える事で新たな発見があったりしますよね。
今回はしるこさんの考察をお読みして色々な発見がありました。
考察記事は好きなので萌え抜きで楽しめました。
素晴らしい記事をありがとうございました!
>MAR
そうですね。小学生辺りのウケをまともに考えるとあのアプローチはある意味正解なんですよね。遊戯王もそうだったし……。ただ作者の「クリエーター」の部分、「作家」の部分としてはどうなのかな、なんて思ったりもしますね。
>萌え抜き
うーん、そうですね……やっぱりそういった要素は排除しないと一歩引いて客観的に観るように努める、といった事はできないですね。
ではではコメントありがとうございました!
どちらも日常の部分が結構重要視されている上に主人公がある意味完成している熱血系のキャラだからかもしれません(あくまで主観ですが)。
もし、どちらもこけた理由が日常部分が関係しているのであれば現実性がまったく求められていないということになるかもしれません。
こわしや我聞全体のテーマとして「心無き力は悪」というのが最後の牙王と中之井さんから浮かんできますが、このテーマこそが悪役の矮小化をエスカレートさせた原因かもしれません。訓練こそが力の使い方を覚える唯一の方法であり、力を急に手に入れた人物の間違いを正してあげるのがこわしやと呼ばれる人たちなのでしょう。
ある意味水戸黄門のような編成といえる漫画だったのではないでしょうか、この漫画は。
乱文散文失礼しました
武装錬金については、エントリ執筆時点で頭にはあったのですが、熟読したとはいえず、それについては言及するには弱いかなと書きませんでした。ただ、我聞との比較でいえば、その指摘は当たらないかと思います。我聞が、
「本業と日常が完全に分けられている」のに対し、
「日常と闘争が地続きになっている」のが錬金だと思います。学校を舞台とした「バタフライ編」での級友達とカズキのやりとりなどはまさに「和月節」とでも表現できるようなさわやかな物でした。錬金についてははるかに深く考察されているテキストも多いですので、そちらに譲りたいと思います。
>心無き力は悪
これは少年漫画のみならず、ジャンル、年代を超えた普遍的なテーマの一つだと思います。ただ問われるべきは力を手に入れる手段よりも、手に入れた力で何を成すかだと思います。その力は仙術であっても真芝の兵器であっても本質的には変わりません。
自分の意志とは関係なく力を手に入れるのは武装錬金もそうですし、古くは「仮面ライダー」もそうでしょう(今は村枝賢一先生が見事に描いていらっしゃいますが)
真芝側は、兵器でもって「何をするか」という大きな目的といったものが見えてきませんでした。「目的無き力」でもあったわけですね。そういった意味でも我聞は敵側も「弱かった」と言えると思います。
>水戸黄門
俺は「必殺仕事人」をイメージしてました(笑)
ご意見ありがとうございました~。
仙術の考察について気になったことがあります
理を得ることによって自然現象を操るようになるとなっていますが、むしろ自然現象を真似ているというべきだと思います。というのも仙術とは究極の肉体コントロールなのは作品中で語られていますし基本技は主に自己の肉体と接触を起こす他人の肉体の一部に影響を及ぼします。で、何故自然現象を操っているんではなく、自然現象を真似ているだけだというのは理を得た仙術使いの使う技は肉体コントロールの延長だと考えられるからです(ほとんどは)
炎は体熱の上昇、雷は神経ネットワークによる放電、樹はフェロモンによる樹木の異常成長、鉄は体内の鉄分を一箇所に集中、水は体内の水分コントロール(人体の半分以上は水分なので基本かと思われる)の延長
というふうにです
つまり、理を得るというのは一段階深い肉体コントロールの仕方を理解するということなのではないでしょうか?
で、こわしやの敗因の一つとして「感じるより考えろ」と言っておきながら仙術を説明するのに感覚以上のものを作中で出せなかったのもあるのではないかと思ったり
仙術の解釈については悩んだのですよ。特に「気」の解釈について。ただ、「真似る」というのはあくまで人間の身体能力や生理現象、生体反応以上のものが説明できないのですよね……。爆発を説明しようとすると、恐らくは
「空気中の水分を酸素と水素に分解、何らかの触媒によって水素と反応、爆発させる」
と説明できるかな、と思うのですが、更にその爆発という「物理現象」を気でもって「収束」させる、という段階になると、ちょっと無理が出てきます。
更にややこしいのが「光」。光速で動く光の分子を人間の視覚に影響を与えるレベルで操る、となるとこれは完全に人間の範疇を超えます。これも空気中の水分の乱反射や屈折、とは思ったのですが、影まで操り、分身の術よろしく分身がてんでバラバラに動き回る、となるともう「超能力」としか言いようが無いのかな、と思いまして(超スピード、なんかではないのなら、術の影響下にある生き物の時間感覚に刹那の影響を与えて誤錯覚させるとか)
>「感じるより考えろ」
これは同意です。格闘技の歴史は感覚よりむしろとことん考えつくされた「理論」の歴史だと思います。
ブルース・リーの「考えるな、感じろ」はその理論を完全に修めた者が辿りつく境地ですから、その上を行く「理論」を出そうというのはそうそうできる事ではないでしょう。
ではではご意見ありがとうございました~。
>「考えるな、感じろ」
確かに格闘技は「理論」の歴史でしょうしブルース・リーが完全に極めた(または天才)からこその言葉なのは確かです。
ですが、「感じるより考えろ」がその上を行く理論である必要があったとするのには同意しかねます。むしろこの考え方は戦いにおけるのではなく習得にこそ意味を持つ「考えるな、感じろ」と対を成す理論足りえると思います。で、作品中でそのことを出し切れなかったのがいけなかったのかと思われます。バランスが崩れてしまいますが、斗馬が仙術を覚えようとすればそこらの詳細が明らかになったとは思われます。(我聞は感覚で覚えていくタイプだと思われる為。)
>仙術
爆発は考え方を変えると説明しやすくなります。ぶっちゃけると爆発とは熱を伴う風で表せるでしょう。(当然高温の風ですが)
ということは高エネルギーが分子に与えられれば爆発を起こせるわけです。で、くぐらの仙術を考えると物体に直接エネルギーを与えるタイプという考えが立てられます。ここで問題になってくるのはやはり収束爆裂ですがこれはレーザーみたいなものと考えるのが正しいかと思われます。つまり力の方向が一方向のみに定められた爆発、一方向のみの力を与えられた分子となります。
「光」これは確かに複雑で問題だらけです。で一番説明がつくのは「光」の仙術使いは人間投射機になるという考えです。ある生物は光を発光できますよね。それと同じように体の一部から光を投射しているのではないかと思われます。
どうもありがとうございました