★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

御霊と祈り

2016-08-16 07:35:16 | 文学


毎年、この時期になると、御霊御霊と心ない生者がうるせえかぎりである。
普通に考えて、多くの戦死者が五体満足に御霊になってる余裕があったとは考えられない。死体として我々の世界に分解され散っていったのである。どちらかとか言えば、御霊は、元戦地でオタマジャクシになっている可能性が高い。これは冗談で言っているのではないのだ。

今上天皇が、昨日のお言葉で、「御霊」と一言も言っていないのはさすがである。責任を感じている人は空想の世界で遊ばないものである。そして言霊を最も恐れるものである。

戦後が平和だったなんてどうみても嘘である。朝鮮戦争、ベトナム戦争、最近の大量破壊兵器のあれとか、全部協力したではないか。本土決戦をやってない?沖縄で既にやっただろ。

祈りより前に近代史の勉強である。

――私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。(「異邦人」窪田啓作訳)

文学少年の例にもれず、わたくしも思春期にこれを読んでなんだか興奮したが、考えてみると、これはこれでムルソーがファシストみたいで嫌だ。やはり、思春期以降の勉強が圧倒的に日本人には足りない。


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