★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

暑いですね3――「カルテット」

2017-07-17 22:09:43 | 日記


書き忘れたので、以前みた「カルテット」の感想…。

「それでも生きてゆく」の脚本家(坂元裕二)の作品で、かちかちっと終末に向かって話を詰めてゆく様が、さすがであった。満島ひかりの複雑な演技が、案外映画よりも連続ドラマでこそじっくり説得力を持つことを証明したのも、彼のここ数本のドラマであったと思う。

感心したのは、だれかを悪役だと視聴者が思いかけるところで次々とそれが覆され、通俗的な和解も離叛も制裁も拒否されていたところである。彼らを結びつけている音楽についてもそうで、彼らはプロでもアマチュアでもないグレーゾーンの実力で、実際聴衆をうならせるほどの演奏は出来ていないようだ。最後のホールでの演奏も、まあ演奏者のスキャンダルがらみでたちの悪い観客が多かったとは言え、たぶん「本当に下手だな」と思った人たちも多かったはずである。だから、藝術としての音楽が、人間関係を救う話では全くない。そのような映画はよくあるが、あれは多分に現実逃避的でありその意味で通俗的である。

面白いのは、嘘をつかなければ世間では生きてゆけないような過去の境遇をもつカルテットのメンバーに対し、お人好しそのものであるようなライブレストランの夫婦とか、そこで働く有朱のようなシニシズムに浸りきって「正直で真っ直ぐ」(主人公の真紀の言葉)みたいな人間たちの人生を崩壊させることに快感を覚えるような人物が、非常に面白く描かれていたことであった。特に有朱の場合、最後のホールでの演奏会の場面で、白人のイケメンとカップルで現れ「人生チョロかった!!」と大見得を切るところがいい。こういうタイプは、自分の人生がうまくいかない時には、たいがい善人を抑圧する側に立ってひどいことをするだけなのであるが、成功してしまうと案外もともと素直でカルテットのメンバーとは全く別種ではあるが「正直で真っ直ぐ」である性格が発揮されるものなのである。最後の場面ではそんなところが垣間見えた。ここで、有朱をドラマが悪人として葬ってしまうと、悪人は磔にせよ、みたいな通俗性に陥る。

で、結局メンバー達の紐帯を切れさせなかったのは、彼らの「正直で真っ直ぐ」な感じをお互いに認め合ったからというのもあるけれども、それは彼らがことごとくメンバー同士の片思いの愛を断念したことによるのも面白かった。このドラマで最初に問題になっていたようにみえたのは、嘘や偽善に対する真実とは何かという問題で、ドラマは恋愛感情や夫婦愛、親子の愛情、あるいはそれらの両立が真実性を持てなかった事態を次々に証明していった。その意味で、有朱のような空気の読めない人物が言った「みんな嘘つき」みたいな発言は表面的にはその通りだったのであり、しかし、有朱がリアリストとして嘘にまみれた人生をさしあたり選択するのに対し、嘘や偽善に対しては真実ではなく――なぜなら真実は彼らにとっては残酷すぎたから、「だいたいの真実」が分かったところであとは「正直で真っ直ぐ」という態度を選ばざるをえない事態にメンバー達はおいつめられ、――同時に救済されてゆくのである。確かに、心底の真実性が問題になってしまう恋愛や夫婦愛、親子の愛は彼らの得意分野とも相性が悪かった。彼らは中途半端な音楽家で、――音楽は、愛や真実というより、「正直で真っ直ぐ」にやるしかないものだからである。そこに結局は、落ちついたのである。

ただ、そんな顛末をむかえたのは、カルテットのメンバーのプライベートなトラブルがあまりにも多すぎたという背景を持っていたからに他ならない。普通は、もうちょっと「正直に真っ直ぐ」とか「偽善」とかをおりまぜつつ真実を偽造する努力をする、――誰かが我慢に我慢を重ねるものである。本当はこのドラマでもそうで、結局、かれらが共同性を守れたのは、ライブレストランの仲睦まじい夫婦と、別府司(別荘を貸し食事をつくりごみを出し……)という真面目な世話係がいたからに他ならぬ。調子こいた芸術家もどきや性悪娘に比べて彼らの評価が最後まで低すぎる。かれらが評価されるのはいつの日のことか……

あと、みんなもっと練習した方がいいんでない?
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