いまジブリ映画を起点とした授業をしてるんで、「柳川堀割物語」も観てみた。柳川はかなり大規模で特殊な例だが、水路や溝の成立に関して似たような歴史が日本全国にあるに違いない。この映画でもあまり触れられていなかったが、なぜ高度成長に至る時代のなかで水路が汚れゴミためになったのか、そちらの歴史が気になるところだ。それは近代合理主義や共同体の崩壊のせいといって割り切れるものでもない。
小さい頃、溝掃除をやらされたものだが、巨大なミミズなどが発見され、面白かった。これが既に汚れた溝のせいなのかそうでないのか、それすら精確に知らないが、しかし、この溝さらいした土を肥料に使っていたのは確かで、映画で触れられていたとおりであった。
いま住んでいるところは、昔水で苦労したところで、鹿が来たのでそこを掘ってみたら水が出た、という伝説がある。いまでも水路が多く残っていて、それを一部みんなで掃除する。こういう習慣がどんな理由で残っているのかしらない。
わたくしの無知はさておき、我々の社会は、いろいろと忘れ去りすぎて、何が起きているのか分からなくなっている。この映画を観てもそう感じられる。
このまえ、論拠に学生憲章とか文科省のつくった文言とかを用いて証明を行っている論文集を見たので驚愕したが、論拠とボスへの言い訳の区別がつかない学者が本当にいるのだ。しかし、ここまで発狂していなくても、似たようなことを我々がやっている可能性はある。ちゃんと調べる習慣というのは、あまりに忘却が進むと結構難しいことになるという事態を示している気がするのである。