★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

権利のための美

2017-05-20 23:41:48 | 思想


わたくしは文学の教員なので国語国文学研究室に属しており、他の研究室のことはよく知らない。例えば、社会科ならマックスウェーバーやイェーリング、教育学ならルソーとかペスタロッチを当然学生にガリガリ読ませているのであろう。わたくしが、『破戒』や『人間失格』を強制しているように……。

しかし当然、国語の学生でもマックス・ウェーバーの何かぐらいは読んでおくべきで、もし読んでいない人間が小学校で教壇に立っているとしたら非常にまずいと思う。しかし、こういう危惧に対して「勉強だけ出来てもコミュ力がないと教師をつとまらない」とか、まだその「勉強」とやらをやってそれを言うならましなのだが、忖度服従と口先だけで出世してきたような輩がどの業界でも若者たちを脅迫している。問題は、口先の輩がだいたいにおいて「自ら虫けらになるもの」(カント)であるにもかかわらず、その自覚がないので、他人を虫けら並にあつかうことである。

久しぶりにイェーリングをめくってみたら、イェーリングがそのカントの言葉を引いていたので、思わずここにかいてしまったが……。確かに、奴隷にも虫けらにも自由があるではないかとか、イェーリングは自分の闘争趣味を他人に押しつけているとか、いろいろ意見はあるのであろうが、――彼の「権利のための闘争は、品格の雅歌である」と言うせりふを自覚する精神は、ただ役職について喜んじゃうような精神よりも、確かに虫ではない。後者には雅歌がない、つまり心がないのである。イェーリングは、権利を主張しない人間の「心の消滅」を指摘したいのであろう。

例の「二分の一成人式」が、ようやく議論になってきたようだ。親との関係が良好でなかったり、親がとんでもない性悪だったり、逆に子どもが性悪だったり(案外言われてないか…)といろいろあるから一律に感謝を強制するのは最低、という意見はもっともだ。しかし少数派を無視しても多数の「感動」で子どもとの関係を調整したい学校の教員は、勉学を強いていることと同様に多少のことには目をつぶり、親への感謝という大目標をとるべき、と本気で考えるであろう。それを、「思春期」の前に一旦子育てに満足したい親のエゴがあと押しする。マイノリティからの意見は、この現実に太刀打ちできるのであろうか。

問題はそもそも「二分の一成人式」――これをセンスがいいと思ってしまったセンスが、絶望的に腐っていることにあると思うのである。成人式に価値があることを前提にしているところも、イデオロギー的に偏向しすぎてて話にならない。どうせJPOPより劣悪な歌詞を歌わせ、空疎な作文を読ませて、子どもの心を殺しているだけだ。よくこんなことができるものである。親への感謝とやらを「母の日」や「父の日」のプレゼントなどで代替するようになったら、親子関係が危機に瀕しているかもしれないというのは、それこそ大人(成人)の常識のような気がするんだが……。子どもの頃から、行動ではなく口先(物)で感謝を表すことを覚えさせてどうするのであろう。しかもそれを集団でやる訳であるから、てめえの意志とは関係がない訳で……、将軍様マンセーとどこが違うのだ。

昔はわたしも、イェーリングが権利のための闘争をしない者は美を解しない、と述べているのを読んで、そんなもんかなあ、闘争的なやつらには下品な奴も多いけど……、と思ったものである。いまはイェーリングの言いたいことが分かる気もがする。権利ための闘争には、美のための闘争が絡んでいることが確かな気がするからである。子どもだって、密かに権利のための闘争を日々行っている。しかしそれは食欲とか暴力衝動を満たしたいだけでなく、心のための、美のための闘争である側面が必ずあるはずである。私は、それを信じたい気がするが、というのも、「二分の一成人式」が合唱などを伴うように、美の抹殺のためには、違う「美」を以て上書きする必要があると、学校においても自覚されているからである。我々が、こういう話題に必要以上に不快感、あるいは快感を覚えたりするのは、美が絡んでいるからだ。

La Liberté guidant le peuple の女神が胸を出しているのは、母性を現しているとはわたくしはあまり思わないのである。やはり、彼女(自由)はエロチックに美しくなければならなかったのではなかろうか。プラトンを引くまでもなく、正義はエロティックなものである。

とはいえ、親になるとそんな事情を忘れてしまうのは、我々が生まれてからかなり長い間、汚い液体を吐きだしたり垂れ流したりする恐ろしい物体にすぎないことを目の当たりにするからかもしれない。無論、戦争も同じような効果を持つに違いないし、学校の教員が、児童や生徒、親たちから受けている暴力もそのような効果を持つ。明らかに、教員は心を殺されたのである。――そんなことを時々思い出すために、「勉強」が――、当事者ではない人間、例えばカントやイェーリングからの啓蒙が必要である。


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