けふのBGM
私がこの曲を知ったのは、小学生の頃ではなかったか。
以来、その郷愁を誘うような旋律は心に残り、これまで幾多の演奏を耳にしてきた。
作者不詳と言われるこのイングランド民謡は、恐らくこの世のある限り愛される
名曲の中の一つになるだろうと思っている。
Greensleeves - best version
もう読了して二月(ふたつき)近くになる。
「歪笑」という単語は存在しない。
音だけでいくなら「矮小」となるが、それではない。
歪曲の歪と笑うを造語したもの、すなわち、故意に歪(ゆが)めて笑いにしてみた小説!
ということになろうか?
そも、私は概して推理小説の類いは好まない。
それは、エンターテイメントとしては面白いかも知れないけど、後に残る物が少ないように
思えるからだ。
もう少し突っ込んで言えば、書き手自体がトリックや場面展開のテンポ辺りを重視して
構想するだろうから、文章や文体の美しさの追求は二の次になるんじゃないかと
想像するからである。
別に事件や殺人がなくてもいいのである。
それよりも生きることへのヒントやエッセンスが欲しい。
そしてその筋立てが、悲劇だろうが喜劇だろうが、はたまた淡々とした私小説だろうがとんと構わない。
そんなことから、松本清張が今も読まれたりドラマになったりするのは、彼の作品が
単なる推理小説の枠を超えているからに他ならないと解釈している。
まあざっとそんな訳でこの作者である東野圭吾の作品も一度も読みたいとは思わなかった。
ただ、それを原作としたテレビドラマは数本見た。
その結果、私の思いは間違ってないと思ったのだ。
一言で言うと、ひねりすぎ。
そうそうタイミングよくそういうことにはならないだろう?
という事象の連続でトリックが構築されているように思え、白けてくるのである。
それが、ひょんなことから「文壇の裏側をパロった」面白小説なる宣伝を目にし、
文庫書き下ろしなるのも手伝って、「読みたい」となったのである。
amazonのレビューによれば、既刊の「黒笑小説」からの連作でもあるので、そちらから
読むべきとある。
折角のアドバイスなので、それに従って、そちらから読んでみた。
するとそれは、たしか小説誌の連載をまとめたもので、文壇ものはそのうちの数編に
とどまっている。
そして、その文壇ものが実に面白い。
どうせならそれだけに絞ればいいのにと思ったものだが、この「歪笑小説」が
正しくそうした作品だった。
そもそも、小説家というものには誰でも成れる。
勿論、それで食っていけるかどうかという点は丸っきり別物だ。
紙と鉛筆さえあれば誰でも小説は書けるのだ。
特段、資金も学歴も必要ない。
自宅でちゃぶ台に向かってシコシコ書けばいいだけのハナシ。
だからこそ、凄い職業だと思っている。
誰でもやれる、今すぐにでも始められる・・・
そんな職業はそうそうない。
そんな超門戸開放型の世界で報酬を得る、それも継続して。
これが如何に大変なことか。
私だって、出来ることなら小説家に成りたい。
でもそれは不可能だと思っている。
そう、一番必要な「才能」というやつがないからである。
ちょっと文章をいじることが好きな程度で首を突っ込める世界ではない。
まあ、そんなことを、様々な登場人物が繰り広げる切ないストーリーでもって
婉曲に示唆している。
そういう意味では「婉笑小説」と呼んでもいいかも知れない。
しかし、その自然な文体と読者を引き込む文章力は流石と言わざるを得ない。
流石当代きっての売れっ子作家だ。
ただパロって笑わせるだけにとどまらず、ジンとさせる件(くだり)も散りばめられていて、
あっという間に読了してしまった。
小説誌と書き下ろしの背景も実に参考になった。
よし、私も小説家に成ろう
なわけないがな

・・・
今日のWoodyBarチュー太郎(僕)
こっちでは「僕」と語ってるし、「ですます体」で書いている。
使い分けにとまどうこともしばしばだが、愉しくもある。
因みに、mixiとtwitterでは「俺」と名乗って、方言バリバリ(笑)・・・