テキトウすぎな葛プリン

2017-06-29 04:25:03 | 日記
梅雨の低気圧のせいでしょうか。
今日はやけにだるく、とても眠いです。

頭がボンヤリしたまま、なんとなく、本葛を使って、葛プリンを大量に作りました。

実は、吉野の本葛を何キロも持っていて、キッチンのタッパーに大量に詰まっています。
すべて貰い物です。本葛なんて高いものを、ビンボーなわたしが買えるわけなく(笑

本葛を使う料理は、わたしには難しくて、メンドくさいものばかりなので、ぜんぜん使いこなせません。
ときおり、こうして葛プリンにして、チビチビと消費しています。



これは本葛を豆乳で溶かし、きび砂糖を混ぜ、冷やし固めたものです。
でも毎回、鍋でどうやって練ればいいのかイマイチわからず、ものすごくテキトーに作ります。
いつも粉っぽい味がします。
見た目もイマイチです。
せっかくの本葛なのに。笑

こないだ知ったのですが、胡麻豆腐って、本葛を使って作るんですね。
胡麻豆腐、かなり好きなくせに、まったく知りませんでした。
豆腐に胡麻を入れたものだと思ってましたよ!
ぜんぜん違いました。無知にもほどがある。
胡麻豆腐のレシピは簡単そうだったし、こんど、作ってみようと思います。


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伊勢神宮

2017-06-28 02:47:35 | 日記
ここのところ、伊勢神宮に行けていません。
できれば、一年に一度は参拝したいのですが、前回に参拝したのはいつだったか、たぶん一年半は経っていると思います。

精神的に落ち込みが強く、どうしても伊勢に参る気持ちになれません。
日常生活をまともに過ごせていないため、伊勢に参拝するのは畏れ多いという気持ちもあります。

伊勢の内宮に鎮まっておられるのは、ご皇室のご先祖さまと天照太御神で、この日本を護っておられる。
外宮におられるのは、日本という規模を超え、地球、宇宙に繋がるアメノミナカヌシ。

大神は全てお見通しでしょうから、ろくでもない日々を過ごしているわたしは、とても自分が恥ずかしく、参拝しても、自分を恥じ、自分を強く責めてしまう気がして。
より一層、落ち込んでしまう気がして。

行きたいと何度も思いながら、どうしても体が動かず、まもなく、夏になってしまいます。
伊勢に参拝すると、長い時間、外を歩きますので、夏は暑くて参拝に向きません。

初めて伊勢神宮を訪れたのは、数年前です。あれから何度、伊勢神宮に参ったか。ちゃんと記録を残さなかったので、回数がわからなくなりました。
生きている間に、幾度も伊勢神宮に参ることができる。
それも日本に生まれたおかげで、どれほど自分が幸運なのか、畏れ多い気持ちが湧いてきます。

伊勢神宮は、訪れる人によって、いろいろな気持ちを感じる不思議な場所でしょうね。
同じ人でも、訪れるたびに、感じるものが違うんだろうと思います。

わたしは、外宮にはいつも、おごそかな厳しさを感じます。わたしには畏れ多すぎて、近寄りにくさ、も感じます。
内宮は、外宮にくらべると雑味がありますが、日本を護ってくださることへの感謝を、いつも申し上げます。
それから、伊雑宮には、ふるさとに帰ったような懐かしさとあたたかさを感じます。
伊雑宮に参拝すると、いつも「鎮守の杜」ということばが、胸に浮かびます。
むかしは、日本の村には必ずひとつ、鎮守の杜がありました。こんもりと木々の緑が繁っていて、村の子供たちの良い遊び場で、身近で親しみ深いけれど、とても神聖なところ。村の人々が大切に掃除し、手入れをし、護ってきた場所。
その全ての原型が、この伊雑宮であるのだと、そう思います。



神の前に、ほんとうは、神社も必要ないのでしょう。
でも人間は忘れっぽくて、しようのないものです。
神はおられるとわかっていても、外側に、神社のようなわかりやすい建物がないと、決められた神事がないと、神のことを忘れてしまうのでしょう。
わたしは、伊雑宮に参拝すると、神社のように神の所在を示す場所がなくなったとしても、心のうちに伊雑宮のような場所を持ちたいと、そう思います。

わたしなどは、ほんとうに、この日本に生まれたことさえ、畏れ多い者です。
この歳になっても、いまだ、生まれる前の課題を全然こなせていません。むしろ、業を増やしてしまっていると思います。

それでも、いのちあるあいだは、伊勢神宮に参ることができます。ありがたいことです。














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旧軍の足跡

2017-06-26 04:44:11 | 戦争
太平洋戦争の痕跡は、どなたでも、その気なれば、ごく身近にたくさん眠っているもの。
昨日そう書きまして、これはほんとにたまたまなのですが。

どなたでもそうなのかな、とおもうのですが、実家に置いてある子ども時代の写真や卒業アルバムやらって、けっこう量があるんですよね。
わたしの場合、ダンボール二箱ぶんくらいあり。
卒業証書や、小学生の時に書いた文集や、クラスメイトからもらった寄せ書きなどなど、セピア色の思い出のかたまりたち。
特に卒業アルバム。あれは1冊がやたら重いし、取っておくにはかさばるし。でも捨てにくい! 扱いに困るものの代表じゃないでしょうか。

でもわたしも良い年齢で(笑)、いい加減捨ててもいいかと思うし、なにより邪魔!だし。
思い切って残したいものを選り分け、バッサリ処分しちゃおう、と腰をあげました。

そしたら、紙束や写真の中から、高校の「卒業者名簿」という、めちゃ分厚い冊子(五センチ以上ありそう)が出てきました。
中を見てビックリ。
わたしの卒業した高校の、創立以来の全卒業者の名前、卒業後の進学先、今の勤務先、住所、電話番号を記載したものでした。
創立以来の「すべての」卒業生全員の、です。一万人以上ありそうでした。
驚きの個人情報のカタマリ。
かつては、こういうものが、ごく当たり前に生徒に配布されていたんですよねえ。
いまこんなもん作ったら事件です。今やとっくに廃止されてるでしょう。

驚きつつ中を見ていると、最初の卒業生の卒業年度は、明治末期でした。
その卒業後の進路に、さまざまな大学名に混ざって「陸士」「海兵」という言葉が。

これは・・・言わずもがな、陸軍士官学校、海軍兵学校、ですよね。

おお、と思わずページをめくっていくと、明治末期の最初の卒業生のあとも、毎年、陸士、海兵、の言葉があります。
ときには、陸経理(陸軍経理学校)なども。

わたしの出身校は、もとは旧制中学校で、当時は地元の進学校でして。
(ただ、いまはそんな面影は薄れておりますのです・・・笑)。

戦前は、旧制中学の首席は東大でなく、陸軍士官学校か海軍兵学校に行くものだったそうですね。
陸士も海兵もなにしろ大人気で、合格するのが東大よりも難関だったと。
制服を着て街を歩けば、女子の憧れの的、モテモテどころか爆モテ。

なので、考えてみればあたりまえなのですけど、私は、自分の出身校の先輩に、陸軍士官学校、海軍兵学校に行った人がいるなど、考えてみたことさえなかったです。

私にとって、陸士・海兵は、映画や本の中の存在でした。
古い戦争映画では、真っ白の制服を誇らしげに着ている海軍兵学校の若者が出てきて、最後は戦場で死んでしまうわけです。
そこで語られる海軍兵学校は、失われた栄光や強い郷愁に包まれた、そんな存在です。

思いもよらないところで、陸軍士官学校、海軍兵学校の名前を発見して。
当時は、進学先の選択肢として陸士・海兵があるっていうのが、あたりまえだったんだなあ、とリアルに想像できまして、突然に身近に感じました。

それから、昭和17-20年の期間には、卒業先に「予科練」の言葉も見つけ、複雑な気持ちになりました。
この人たちのうち、何人かは戦場で亡くなったでしょうし、もしかしたら、それは特攻であった可能性も、十分にあるんですよね。

ほんとうに、旧日本軍の痕跡や、先の大戦が現実だった時代の痕跡は、身近にポロポロとあるものですね。

それにしても、広島の江田島にある海軍兵学校のまなびや。
あれはすごい建物ですよねえ(と、小学生並みの感想)。





あの壮麗な建物をご存知の方は、今の日本にどれくらいいるのでしょうか?

なんつうか、わたしは海軍兵学校の、きらびやかで気合の入った建物を見ますと、日本軍が国民の憧れ、尊敬の対象だった時代を、とてもよく表しているもののように思います。

その建物が、今は国民の目から隠されるように、ひっそりと海上自衛隊に使われていることに、また、今の日本での軍隊の扱いを、よく表しているな、と思います。























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太平洋戦争の戦跡

2017-06-25 04:18:35 | 戦争
太平洋戦争の戦跡として有名どころは、日本国内では、まず広島、長崎、それから沖縄でしょうね。

わたしは東日本に生まれ育ち、働く場所も首都圏。西日本より西側に、ほとんど縁がないです。
関西、ましてや九州、沖縄は、わたしにはとても遠い場所。
実を言うと、広島の原爆ドームも、長崎もわたしは一度も行ったことがないです。(おお、非難の声が聞こえる気が致しますが・・・。)
西日本で育つ方は、社会科見学や修学旅行で、広島や長崎に一度は行くものなんでしょうね。

太平洋戦争のことを、少しづつ調べていると、いろいろな戦跡に行ってみたい気持ちになります。
また、広島、長崎、沖縄ほど有名ではないけれど、日本国内には、太平洋戦争のことを偲ぶ場所が、数多くというか、ほとんど無数にあることも知りました。

考えてみれば、あたりまえなんですよね。
あれはたった72年前のことですし。
あの当時、戦争と無縁でいられた日本人はいなかったし、被害は日本全国にわたったのだから、戦争に関係した場所や痕跡が日本に無数にあるのは。

そもそもわたしは都心で働いているのですから、そこは東京大空襲で焼け野原になった場所なわけです。
いまや、どこにもその名残は残っておりませんが。

またわたしの故郷も、日本の多くの市と同じように、空襲で9割を焼かれています。
空襲された理由を調べてみると、軍需工場と海軍工廠があったためのようです。

日本ではどなたでも、太平洋戦争の痕跡を探せば、身近なところで簡単に見つかると思います。
その多くは、風化して、ほとんど忘れさられていると思いますが・・・。

わたしの地元でも、空襲があったことは、さすがに、たいていの市民は知っている(と思いたい)ですが、そのことに言及する人も、あまりというか、ほとんど見たことがないです。
わたしは子どもの頃、親や親戚の大人たちが何かの話のついでに、この町は空襲で焼けたんだよ、と幾度か聞いた記憶があるだけです。
この町に昔の建物や遺跡がなにもないのは、そのせいなんだよ。この町の道路はどれも広くてまっすぐだろう、焼けた後に作った新しい道路だからなんだ、と聞きました。
空襲で建物が何もなくなったから、郊外に位置する実家から、町の中心部にある港が見えた(10キロくらい離れている)、と聞いて、そいつはスゲーや、と思ったのはよく覚えています。

空襲さえそんなら扱いなので、かつてこの町の中心部に、大きな軍需工場があったことを知っている人は、ものすごく少ないんじゃないか、と思います。
わたしは、みずから空襲の理由を調べるまで、地元に軍需工場や海軍工廠があったなんて、これっぽっちも知りませんでした。
まさかそんなものがあったなんて、というくらい驚きました。
跡地に小さな石碑が残されているようですが、見たことがありません。

もっと学校で、地元が戦争にどう関わったかを教えればいいのに、とは思います。
教科書に載るような空襲や戦地以外は、地元民くらいしか興味ないでしょうし、その地元で語り継がれない場合、どんどん忘れられちゃいますもん。

ところで、日本国内の戦跡では、広島・長崎・沖縄ほどではなくても、そこそこ知られているのは、知覧の特攻平和記念館ではないでしょうか?
それとも、戦艦好きの方であれば、呉の大和記念ミュージアムなんでしょうかね?

わたしは、やはり特攻のことはとても切なく。
鹿児島の知覧と鹿屋には、いつか行ってみたいです。
特攻基地としては、知覧ばかりがなぜか有名なのですが、知覧は陸軍の基地なんですよね。
海軍所属の特攻隊員は、知覧の近くにある鹿屋基地から飛び立ちました。実は鹿屋から出撃した神風特攻隊員の数は、知覧より多いそうです。
「永遠の0」の主人公・宮部久蔵は、海軍の軍人でしたから、クライマックスの舞台は鹿屋基地なのです。

鹿屋基地は、今も海上自衛隊の基地として使われているのですが、敷地内に立派な資料館があり、知覧と同じく特攻隊員の遺書や遺品が多く展示されているのだそうです。
ただ知名度がなく、訪れる人は少ないようなのですが。

鹿屋基地航空資料館 公式サイト
http://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/toukatu/18siryoukann.html

※ググっても上位に出てきません。
それってどうなんでしょう・・・(´-`)



また、特攻兵器「桜花」の神雷部隊が駐留していた野里小学校も、鹿屋基地のすぐそばにあります。
こちらは知名度は全くなく、地元の方もあまり知らないみたいです。

桜花の記念碑
http://www.kagoshima-kankou.com/s/spot/51633/



とはいえ、しがない勤め人のわたしには、鹿児島はそうとうに遠い・・・。

さらには、海外の戦地は、まあ、いつか機会があれば・・・となってしまいますね。
海外の日本軍玉砕の地は、どこも僻地といいますか。
へんぴといってはなんですが、行きにくい離島だったり、ジャングルの奥地だったり。

国内の戦跡も海外も、いつかどれかに行けると良いのですが。
それまでは靖国神社に地道に参拝、となりますね。



















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沖縄戦終結の日

2017-06-23 00:37:11 | 戦争
今日は沖縄慰霊の日。

1945年6月23日、三ヶ月に及んだ沖縄戦で、日本軍の司令官・牛島中将が自決し、組織的戦闘は終わった。

実際には、その後も沖縄各地に潜んだ日本兵は、個別に戦い続けたけれども。

沖縄戦の日本人の死者は約20万人。
そのうち10万人は日本各地の出身者からなる日本軍人。
残りの10万人は沖縄に住む民間人。そこにはむろん、赤ちゃんも子供も老人も、たくさん含まれている。

天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下は、今日、皇居で一緒に黙祷され、お昼に沖縄料理を召し上がったとニュースで流れていた。

けれど一般的には、沖縄県以外では、沖縄戦のことは知っていても、6月23日の沖縄戦終結の日のことは、あまり知らないと思う。
わたしも、沖縄風に言うなら本土人。わたしは本土で、沖縄慰霊の日のことを知っている人、この日を悼む人を見たことがない。

沖縄戦について何かを言うのは、端的に言えば、「とてもめんどうくさい」状況になってしまっている。
在沖米軍基地の問題のせいで。
基地に反対する理由の大きな一つとして、沖縄戦のことは、必ず言われるから。

沖縄戦で、味方のはずの日本軍は、沖縄県民を守らなかった。
日本軍は沖縄県民に自決を強要したり、中には殺した奴もいた。
本土人は、沖縄を時間稼ぎのための捨て石にした。
そういう主張が、必ずされる。

わたしは、沖縄県民が沖縄戦で、言葉に尽くせない目に遭ったことを、ずっと語りつがれてほしいと思う。
風化せずに、たくさんの日本人が覚えていてほしい、と思う。
でもそれは、太平洋戦争で起きたたくさんの激戦、それから本土空襲といった悲しい歴史と、同じ扱いであるべきだと思う。

太平洋戦争の日本人の死者は約310万人。
そのうち、沖縄県民の死者数は約10万人。
悲劇を死者数で計るようで、こんな言い方はどうかとは思うけれど、つまり300万人は、本土の日本人や、海外に移民していた日本人なのだから。
沖縄戦は確かに、言語を絶する悲劇だけれど、沖縄戦だけが特別な悲劇であるように主張するのは、政治的な意図のあるプロパガンダだと思う。

沖縄戦のこと、在沖米軍基地の問題。
これらについて、わたしの思うことを述べるには、長い文章が必要になる。
たとえば、沖縄戦のために、戦艦大和が特攻命令を下され、撃沈したこと。
たとえば、特攻による戦死者の大多数は、沖縄戦防衛のためだったこと。
だからこそ「永遠の0」の主人公は、沖縄戦の時に、鹿児島の鹿屋基地から沖縄へ向けて特攻出撃し死んでいる。
それから、亡くなる間際まで、沖縄のことを気にかけていらした昭和天皇のこと。

いまはそれらについては述べない。

今日は、沖縄戦で亡くなった日本軍人と民間人のすべてに、そして、アメリカ軍人のすべてに、悲しみと悼みを。

わたしは、今もとても悲しんでいる。
あの戦争で亡くなった無数の日本人のこと。
日本人が殺してしまった、いろんな国の人のこと。

みたまやすからんことを願い。
かみさま、あなたの御手が、その人たちにすべからく届いたことを。
どうか。








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