この世界の片隅に 追記

2017-03-07 18:58:09 | 映画、本
映画「この世界の片隅に」で、終戦の詔を聞いて、すずが強くいきどおるシーンに、モヤモヤして、ネットをググッてみまして。
宮台真司の評論を読み、理解・納得しました。
宮台真司は相変わらずさすがですね!と小学生並みの感想。
同時に、自分の頭の悪さにがっかり。そんくらい教えられなくてもわかれよ自分、、、(*_*)

宮台せんせいいわく、「この世界の片隅に」は、社会と世界を往復する物語なんですね。
すずは最初、ぼーっとした幼い少女として登場します。すずは昭和元年生まれなんです。幼いすずの周囲に戦場の気配は遠く、すずは何も考えずに、穏やかな日常を、おっとり楽しく生きてるわけです。
それが、すずが呉に嫁ぐ頃、昭和19年から戦争の気配がはっきりと迫ってきて、すずの日常は少しずつ壊れていきます。配給される食料が少しずつ乏しくなり、焼夷弾についての講習が行われ、やがて散発的に空襲が始まり、防空壕を掘らねばならなくなり、、、というふうにです。

私も大東亜戦争を調べて知ったことですが、本土の人々が戦況の悪化を身近に感じ、生きるか死ぬかの苦難を味わったのは、敗戦前の一年半ほどの間だけなんです。昭和19年に入ったあたりから、敗戦の昭和20年8月までです。
それまでは、日常生活はほとんど普通に営めていて、人々はまさか国家存亡の危機になるとは思っていなかったようです。

ともあれ、すずは戦争という非日常が、穏やかな日常をどんどん侵食するのを目の当たりにし、ついには、空襲で自分の右手とともに、六歳の姪が爆死してしまいます。

宮台せんせいいわく、秩序だった「終わりなき日常」を破って、混沌としたリアルな「世界」が姿を現わすわけです。
宮台せんせいの言う「世界」とは、非条理や不合理に満ち、人間には制御できない、理解もできない圧倒的な「外部」です。
人間はそんなところでは生きられないので、身の回りのスペースを切り取って世界から切り離し、秩序を作り、日常生活を営むわけです。虚構のものではあるのですが、それが社会です。
そして、人間は普段は社会に埋没し、それが虚構であることを忘れて生きています。

すずは、いとおしんでいた「社会」の破綻に打ちのめされるわけですが、「そんとな暴力に負けるものかね」と、日常生活を守ろうとすることで、つまり、破綻したとわかっている社会を維持しようとすることで、混沌の「世界」になんとか打ち勝とうとします。
何も考えなかった無邪気な少女が、否応なくものを考えざるを得なくなり、成長させられるシーンで、痛々しいです。

それが、終戦の詔であっさりと、その「世界」も終わってしまうのです。
すずが適応しようとした「暴力的な世界」も、実は「世界」のフリをした虚構の「社会」だったこと、大人達が都合良く作った「社会」に過ぎなかったことを、すずは悟ってしまうのですね。

この国から正義が飛び去っていく
そのために我慢しようとしたすべてが

と言うセリフに、それが現れています。
だからすずはいきどおり、慟哭するわけですね。
自分が信じていたものは、はかない言葉だけで終わる程度の社会であったのだと。
騙した大人達と、そんなものに騙されてしまった自分、両方への怒り。

何も知らないまま死にたかった

というセリフは、真実を知り、大人になってしまった瞬間のすずの言葉です。

そして占領軍という新しい「世界」が訪れる。
すずはもう抵抗せず、大人の眼差しで未知の世界を受け入れ、その中に、もはや虚構と知り抜いている日常生活という「社会」を再構築していく。
そこで映画は終わるわけです。

宮台せんせいいわく、
人は「社会」が変化なく続くときは、終わりなき日常に倦み「世界」を待ち望む。
けれど、本当に「世界」が訪れると、破壊と混沌にパニックになり、なぜこんなことになったのかと嘆き、秩序だった「社会」を望む。人間はその繰り返しである。ばかだねえ。

そういえば、昔からセンセイはそう言ってましたね。
わたしあほなので忘れてましたわー。今は思い出したけど、覚えていられる気がしませんが。

宮台センセイ的には、「この世界の片隅に」は、社会→偽の世界→マジの世界→再度社会に戻るという、往復を描いている映画で、そんな映画見たことない、素晴らしいと絶賛でした。
確かに、社会→世界、あるいは世界→社会という、一方通行の映画は陳腐で、死ぬほど溢れてますけど、往復する映画は見たことないかもしれません。

しかも、一度経験した世界が偽物で、そのあと本物のマジな世界が訪れる、そして主人公が諦めのような澄んだ目で、虚構と知り抜いてしまった社会に戻る、というのは、かなり高度なストーリーです。

というわけで、天皇陛下の終戦の言葉に、すず怒る!というシーンの謎は解けました。
宮台センセイありがとうございます。

でもさ、すずちゃん終戦までほとんどものを考えてるシーンがないじゃん、、、暗示的すぎないかね、わかりにくいよ、、、とは言いたい。

あと、わたしは、昭和天皇と戦前の日本が大好きな保守なので、納得いかん!と思うことはあります。
宮台センセイには、ウヨ豚と言われるかもしれませんが。
すずが、あっさりと戦前の日本を「騙された」「汚い大人の嘘だった、虚構だった」と捨ててしまうことです。

すずが、というより、原作者のこうのさんの考え方なのでしょう。
わたしは、戦前の日本の価値観の全てを捨てる前に、もっと葛藤してほしかったし、考えてほしかったです。
すずが間違いだったと捨てるものの中に、天皇陛下への敬意も、日本の育んだ道徳も、真の武士道も、日本民族の長い歴史も入っているのですよ。
それを捨てて良かったと、私には思えないです。

「そんな言葉で」と扱われてしまう、昭和天皇の終戦の詔を、昭和天皇が、どんなに苦労して発せられたか、どんなお気持ちだったか。

敗戦がどれほどショックだったか、想像に余りあります。当事者であれば、私は弱虫なので、ショックのあまり即座に投げ捨てた気がします。それはもう、見向きもせずに、、、。

でも後世に生まれた者として、あっさりと捨てないでくれ、頼むから、、、と言いたいです。
わたしは、それらが失われた時代に生まれました。私には、それらを復元する術がないのです。遠く思い描くだけで、思い描くものは、本物とはまるで違うかもしれないです。
少なくともわたしは、そのことを、自分の不幸だと感じます。

このことに、丁寧に向き合う映画があったらいいのにな、と思います。
これは私の個人的な命題として向き合ってはいくつもりですが、いかんせんわたしは浅学非才ですから、、、(゚ω゚)














ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« すめらみこと、すめらみくに | トップ | 自発性と内発性と救いをめぐって »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画、本」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL