伊勢神宮

2017-06-28 02:47:35 | 日記
ここのところ、伊勢神宮に行けていません。
できれば、一年に一度は参拝したいのですが、前回に参拝したのはいつだったか、たぶん一年半は経っていると思います。

精神的に落ち込みが強く、どうしても伊勢に参る気持ちになれません。
日常生活をまともに過ごせていないため、伊勢に参拝するのは畏れ多いという気持ちもあります。

伊勢の内宮に鎮まっておられるのは、ご皇室のご先祖さまと天照太御神で、この日本を護っておられる。
外宮におられるのは、日本という規模を超え、地球、宇宙に繋がるアメノミナカヌシ。

大神は全てお見通しでしょうから、ろくでもない日々を過ごしているわたしは、とても自分が恥ずかしく、参拝しても、自分を恥じ、自分を強く責めてしまう気がして。
より一層、落ち込んでしまう気がして。

行きたいと何度も思いながら、どうしても体が動かず、まもなく、夏になってしまいます。
伊勢に参拝すると、長い時間、外を歩きますので、夏は暑くて参拝に向きません。

初めて伊勢神宮を訪れたのは、数年前です。あれから何度、伊勢神宮に参ったか。ちゃんと記録を残さなかったので、回数がわからなくなりました。
生きている間に、幾度も伊勢神宮に参ることができる。
それも日本に生まれたおかげで、どれほど自分が幸運なのか、畏れ多い気持ちが湧いてきます。

伊勢神宮は、訪れる人によって、いろいろな気持ちを感じる不思議な場所でしょうね。
同じ人でも、訪れるたびに、感じるものが違うんだろうと思います。

わたしは、外宮にはいつも、おごそかな厳しさを感じます。わたしには畏れ多すぎて、近寄りにくさ、も感じます。
内宮は、外宮にくらべると雑味がありますが、日本を護ってくださることへの感謝を、いつも申し上げます。
それから、伊雑宮には、ふるさとに帰ったような懐かしさとあたたかさを感じます。
伊雑宮に参拝すると、いつも「鎮守の杜」ということばが、胸に浮かびます。
むかしは、日本の村には必ずひとつ、鎮守の杜がありました。こんもりと木々の緑が繁っていて、村の子供たちの良い遊び場で、身近で親しみ深いけれど、とても神聖なところ。村の人々が大切に掃除し、手入れをし、護ってきた場所。
その全ての原型が、この伊雑宮であるのだと、そう思います。



神の前に、ほんとうは、神社も必要ないのでしょう。
でも人間は忘れっぽくて、しようのないものです。
神はおられるとわかっていても、外側に、神社のようなわかりやすい建物がないと、決められた神事がないと、神のことを忘れてしまうのでしょう。
わたしは、伊雑宮に参拝すると、神社のように神の所在を示す場所がなくなったとしても、心のうちに伊雑宮のような場所を持ちたいと、そう思います。

わたしなどは、ほんとうに、この日本に生まれたことさえ、畏れ多い者です。
この歳になっても、いまだ、生まれる前の課題を全然こなせていません。むしろ、業を増やしてしまっていると思います。

それでも、いのちあるあいだは、伊勢神宮に参ることができます。ありがたいことです。














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