知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌45

2023-11-29 20:22:27 | 日記
                                    
日誌45を書くにあたり、北海道で生まれこの土地の自然とその厳しさを知ったひとりの北海道人として、その道標となった先人、松浦武四郎に心からの敬意と謝意を表したい。
モイルス近くの入江に私たちがカヤック爺さんと呼ぶ岩がある。遠目から皮舟を漕ぐ年寄りに見えるその岩は、いつも昔を懐かしむように国後を見ながら浮かんでいる。きっと松浦武四郎も旅の途中でこの岩を見たことだろう。長い間、私も爺さんに挨拶してその入江通り過ぎた。そしていつのまにか私も爺さんになってしまっていた。

明治2年(1869年)、明治政府の開拓判官となった松浦武四郎は、蝦夷地経営の意見の対立から故郷の伊勢松坂に帰り、二度と北海道に来ることはなかった。武四郎は明治政府の求めで蝦夷地を「北加伊道 」と名付けた。武四郎は若い頃からアイヌの道案内で蝦夷地を縦横に旅した。そして膨大な記録を残した。そのひとつが知床日誌だ。また北の宗谷でアイヌの古老から「カイ」が北方アイヌの自称であることを教えられた。それが後の「北海道」命名へとつながった。
「北かい道」、つまり北のカイの国とは松浦武四郎のアイヌ民族への深い思いからつけられた名だ。武四郎はアイヌを迫害する日本人と蝦夷地を収奪の場としか見ない和人商人、そして明治政府の政策に憤り、職を辞した。
伊勢に帰った武四郎はその後、三重の大台ケ原山の山道開削や山小屋の建設に没頭した。武四郎は常に自然の中にあった。明治21年(1881年)、松浦武四郎は東京神田で没した。七十一歳だった。晩年、武四郎は旅した土地の木材などで畳一畳の小屋を建て、思索の場とした。しかしその庵に北海道を記憶するものは何一つなかった。
最近、老朽化した北海道開拓百年記念塔の解体と存続をめぐる議論があった。ある地方議員は選挙公約でその保存を訴えた。開拓の偉業を忘れるなという主張だ。また近年、国の肝いりでウポポイという記念館が建てられた。明治開拓期から百数十年がたった。私たち日本人はこの問題を乗り越えることができただろうか。記念館の名にあるようにアイヌ民族と共成してきただろうか。
昭和の歴史書には「北海道開拓はアイヌには成し得ず、それが出来るのは日本人のみ」と明記されている。それが私たち日本人の中に埋め込まれた意識だ。しかし蝦夷地はけっして未開の地ではなかった。石狩や十勝、天塩などの川を中心に暮らしたアイヌ民族は流域に村を作り、狩猟や漁撈、畑作をおこない、交易をした。その範囲は内地日本だけではなくアムール川やカラフト、千島、朝鮮にまで及んだ。彼らは稲作文化圏の人たちではない。狩猟文化圏の人だ。そして和人、つまり当時の日本人と変わらぬ豊かな暮らしをしていた。
アイヌは十世紀から十三世紀頃には北方圏交易の中心的役割を果たしていた。それは当時の中国の歴史書、元朝秘史にも書かれている。たびたびアムール川に現れるアイヌを元は骨嵬(クイ)と呼んで恐れた。フビライが統治するこの時代、アイヌは元にとって厄介な存在だった。松浦武四郎はそれを古老のユーカラで聞いたのだろう。そしてあらためてアイヌへの親近感を深めていったのだと思う。
最近、先住者としてのアイヌ民族をことさら否定しようとする人たちの言動が目立つ。彼らは鎌倉時代以降の日本史や人類史、果ては最新の遺伝学まで持ち出してアイヌの民族としての正当性を揶揄し婉曲に否定する。国連決議でさえ矮小化しようとする。メディアへの露出が多いこれら国会議員や評論家の影響力は無視できない。凡庸な私たちはそれを信じる。人は流言飛語に惑わされて迎合する。そして自分より劣るものを探す。松浦武四郎も開拓判官として同じような問題に悩んだのではないだろうか。 
私は松浦武四郎の知床日誌を知り、私なりの日誌を書いてきた。武四郎には遠く及ばないがこの五十年、私は辺境を旅し海を漕いだ。人々は出自が何であっても私に人として接してくれた。人は他者への敬意がなければ生きられない。松浦武四郎もきっとそうだったのだろう。知識を経験と勘違いする人たちにそれがわかるだろうか。
私は懲りもせずに日誌を書いている。自分の思いを伝えたいからだ。私は27の時にここニセコモイワに来た。もう50年になる。そして森を切り開き宿屋を始めた。当時はスキーブームの時代でモイワは競技スキーの山だった。私は雪やヒマラヤに憧れる若者だったが、夢の実現には生業(なりわい)が必要だった。学生向けの民宿はそんな理由で始めた。しかし楽ではなかった。当時も今も生きるのに精一杯だ。
私は登山もスキーもスポーツだと思っている。1972年の冬季札幌オリンピックで記録映画の裏方をした私は、アルペン競技に登山と同様の価値を見た。冬山やヒマラヤと同じ厳しさが競技スキーにはある。少しの失敗が命に直結する登山と同様に、スタートからゴールまでを全力で滑るアルペン競技は素晴らしいスポーツだ。いずれも手抜きはできない。私は練習に来る子供や学生たちの世話をした。スポーツは見るものではない。自分でするものだ。だから私も滑るようになった。
当時は三浦雄一郎のエベレスト滑降の影響か、冒険スキーと新雪滑走が盛んだった。もともとニセコはリフトを使ってスキー場外の新雪を滑る山だ。スキー場境界のロープの外には未踏の新雪斜面が拡がっている。雪は素晴らしく良い。ここでは苦労せずに小さな冒険が味わえる。コース外滑走は禁じられていた。しかし誰も守らなかった。だからみんながロープをくぐった。リフトが標高千メートルから千百五十メートルまで延長されたことで更に新雪滑走の範囲が広がった。そして事故が増え始めた。
登山家を目指していた私は多少なりとも雪崩の危険を知っていた。自分も雪崩で死にかけている。定山渓天狗岳では表層雪崩に飛ばされた。カラコルムでは二度雪崩に遭った。バツーラの表層雪崩は夜間登攀中の雪崩だった。私は鯉の滝登りよろしく重い湿雪の雪崩に翻弄され、ハーネス(安全ベルト)で負傷した。フィックスロープが切れたら、すぐ下の深いクレバスに放り込まれていただろう。ラカポシでは氷河雪崩に遭った。時速200キロ以上で落差3000メートルを走る雪崩の到達まで20秒とはかからない。私と李家(りのいえ)は氷河を必死で走り、ベルグ・シュルンド(山側のクレバス)に飛び込んだ。直後に雪崩が襲ってきた。氷河雪崩の凄まじさは言葉では表現できない。吹雪の中で新幹線の屋根にしがみついているようなものだ。雪崩が去り、ともかく私たちは生きていた。その日は家ほどもある落石にも襲われた。生きるか死ぬかは運だ。私は運が強かった。
30年前、ニセコは国内でもっとも雪崩死亡者の多い山だった。1970年代後半から90年代にかけて、ここではスキー場とその周辺で十人あまりが雪崩の犠牲になった。遺体を家族に渡すのは辛いものだ。後年私は家族を失くした。そして悲しみの真の意味を知った。
ニセコでは今年(2023年)3月12日に一人が亡くなった。立ち入り禁止区域の事故だった。遭難者はロシアの富裕層の若者だった。遺体の発見は6月中旬まで待たねばならなかった。デブリが硬く厚すぎたためだ。
冬の表層雪崩でも停止した雪はすぐに固まる。ましてや全層雪崩のデブリにアルミショベルは役に立たない。チェンソーか土木用の剣先スコップ、或いは重機でもなければあの土砂混じりの硬い雪には歯が立たない。
科学的に確立されているはずの雪崩理論とそれに沿った事故対策だが、観察に主観的要素が強すぎないだろうか。本当に弱層から雪崩を予測できるのか。私には雪崩研究が木を見て森を見ていないように思えてならない。事故後に原因がわかっても後の祭りなのだ。事故後の調査で見つかる弱層が、はたして雪崩の原因だったのだろうか。雪崩研究と教育に誤りはないだろうか。
昨年(2022年)4月、知床で海難事故が起きた。観光船の乗客乗員26人が死亡または行方不明となった。今も6名の方々の安否が不明だ。知床は私の仕事場でもある。事故直後から私も知り合いの漁師とともに捜索に加わり、その後も沿岸の捜索を続けた。私はガイドとして40年近くこの海を漕いでいる。もともと山しか知らなかった私は山の経験だけで知床の海を漕いだ。その後もアラスカやアリューシャン、南米ホーン岬を漕いだ。
わかったことは海も山も同じということだ。どちらも失敗に手厳しい。自然は人を区別しない。私は山と同様に、海でも知恵だけが身を守ることを学んだ。しかし知恵はなかなか身につかない。だから失敗する。私は毎回、無い知恵を絞って準備して海に出る。そして過信や希望的観測が失敗の理由だということをあらためて思い知らされる。私は用心深く謙虚にならざるを得なかった。 
低水温の海で私たちは生きられない。ましてや嵐の海に放り出されればやがて恐怖で溺れる。それはPFD(ライフベスト)を着ていても同じだ。知床の事故で思うのは遭難の原因が何であるにせよ水温に無知すぎることだ。岸近くなら零度の海でも何人かは泳ぎ着けただろう。そのうち何人かは助かったかもしれない。しかし沖合千メートルでは無理だ。泳いで動けば五分以内に体温が三十度以下に下がり筋肉が動かなくなる。そして意識を失う。せめてドライスーツを着ていたらと思う。着ていれば生存時間を延ばせる。助かる可能性も高まる。「濡れずに乗り込める救命筏」の開発とその義務化よりも、私は低水温の海ではドライスーツの着用を強く奨める。荒れる海で濡れずに救命いかだに乗り込むというのは、あまりにも想像力に欠けた非現実的な考えだ。タイタニックが沈んだ海とは違うのだ。
ところで事故は船の整備不良や悪天候、事故を起こした観光船の利益優先の体質だけが原因だろうか。私は背景に知床特有の強い環境保護意識があるように思えてならない。知床は古くから日本の環境保護活動の先進地だ。誰もが認めるように知床の自然は素晴らしい。ヒグマの生息密度も高い。だから国と地元は自然破壊を心配し、外来者の入域を制限してきた。
しかしそれはなかなか守られない。春グマ猟が禁じられた2000年以降もカラフトマスやヒグマの密漁は横行した。ハンターがゴムボートの上陸に失敗して命を落とす事故もあった。岬近くのオキッチウシ川などで、腹からイクラを抜かれたマスが大量に捨てられているのも見た。これはヒグマの仕業ではない。
規制は必要だ。それがなければ乱獲や密漁が増える。環境破壊も進む。しかし善良な観光客と自然愛好家は知床奥地の自然を見たいのだ。知床世界遺産の有効な利用形態と認められたシーカヤックと海岸トレッキング、登山ではそれが可能だ。しかし誰もが行けるわけではない。多くの人々は知床の自然をテレビでしか見られないのだ。
その中で盛んになったのが海岸を遊覧して岸に近づき、ヒグマを観察する小型観光船ツアーだ。観光客にとってはそれが知床の自然を満喫する唯一の方法だった。人気は高まり観光船の数は増えた。そして知床でもっとも人気あるアクティビティとなった。船は常に満員だ。デッキには舳先まで人があふれていた。しかし十年ほど前から座礁や衝突事故などの小さな事故が起こり始めた。そして今回の事故が起きた。
問題の背景には観光船でしか奥地を見られない状況を作り、そのままそれをよしとして放置してきた知床特有の体質があるのではないだろうか。観光船事業者は海に大きな商機を見出した。ホテルも増えた。しかしやがて安全への投資を怠る人が出始めた。
それを危惧していた人はいた。しかし事故が起こるまで誰も口を開かなかった。私は観光事業者だけではなく自然保護関係者にもそれを感じる。観光船や釣り人がヒグマの人への警戒感を失わせる可能性があることから、彼らも漠然とした危機感は持っていた。しかしそれを放置してきた。他人事だったのかもしれない。自分たちが知床を守っているというプライドがそうさせたのだろうか。観光船利用客は大幅に減ったと思う。海を漕いでいるとそう感じる。知床に来る人も減ったように思う。人々はそれをコロナのせいにする。そしてコロナ後の観光の回復を待ち望んでいる。事故の後遺症は大きいと思う。
奥地へとつながる知床林道は一般車両の立ち入りが出来ない。利用できるのは一部漁業者と環境省、林野庁、北海道などの関係者、そして特別許可を得たメディアだけだ。先端の文吉湾避難港もそうだ。この港も関係者しか利用できない。林道や港の解放による自然へのダメージや事故を危惧すると言うのが彼らの意見だ。しかしそれなら林道と港こそがその破壊の最たるものではないだろうか。
半島の山腹には大きな傷跡を残す知床林道がある。岬には文吉湾避難港と巨大な防氷堤がある。林道はルシャ川の森林開発のため林野庁が作り、港は海難事故防止のために当時の建設省が作った。だからどちらもここには利権がある。北海道もカムイワッカ大橋に通じる道道に権利を持っている。これらは誰が見ても自然景観にそぐわない人工物だが、一般の立ち入りを規制しているのであまり目立たない。
今回、文吉湾は避難港としての役目を果たせなかった。この港の出入りは経験がない船乗りには難しい。そして観光船はその経験が少ない。観光目的での利用を制限しているからだ。また仮に避難しようにも入り口の沖には2か所の暗礁があって潮も速い。潮は時に三ノットを越える。西や北東の強風時には五メートルの防氷堤を越えるほどの波が立つ。この港は老練な船頭でさえ荒天時の出入りを躊躇するところだ。
船を壊しても岸に乗り上げれば良かったのにと考えるのは私だけではない。船頭は皆それを言う。文吉が駄目でもポロモイやアウンモイ、そしてカムイワッカにでも突っ込めば良かったのにと言う。しかし宇登呂に舳先を向け続けたことで、その機会は失われた。
知床は日本では稀な原始の半島だ。そしてオホーツク海に矢尻のように突き出た海上の山脈でもある。その地形的特徴が海と山に厳しい自然環境を造り出している。林道や港の不用意な利用は危険だ。しかしこの半島の素晴らしさを伝えるためにも、現実にそこにある知床林道と文吉湾避難港の二つを、新たなルールの下で利用する仕組みを作るべきだ。林道にはルシャまでシャトルバスを走らせ、文吉湾では観光船を使った知床岬先端のトレッキングツアーをガイド付きで行う。あるものは使ったほうが良い。これらを利用するほうが逆に保全につながる。
現状は公平でない。もし関係者が知床林道や文吉湾避難港を「自分だけは利用できるからこのままで良い」と考えているならそれは間違っている。それは国民の財産の私物化と変わらない。知床は正倉院の宝物殿と同じく国民の宝でもあるのだ。拝観料を取ってもよい。見たい人には見せる仕組みを作るべきだ。私は役所間の利害の障壁を乗り越え、熱意を持ってこの問題に取り組む人が出ることを願っている。

12月が近づき遅い雪が降り始めた。今年もまた冬が始まる。秋の知床をやめて時間ができたので築50年のボロ家を直している。窓も入れ替えた。そのせいか暖かい。これまではこの時期が一番寒かった。我が家の暖房はお客の体温に依存していたのかもしれない。人は暖かいものだ。
冬には雪崩情報を毎朝書く。そのため朝4時から圧雪車で山に上がる。情報は速報性が大事だ。みんなが滑り出す前に出さなければ意味がない。圧雪車オペレータの大場は私の喧嘩相手だ。情報は彼と馬鹿を言いながら作りあげる。今年は息子の春樹も仲間に加わった。彼は真面目なのでゲレンデ圧雪の仕上がりが良い。丁寧に車を走らせるからだ。圧雪が良ければ滑りやすく事故も起こりにくい。
新雪滑走は手間がかからない。ニセコのスキー場は新雪滑走の恩恵を受けている。しかしそこには迷子や立ち木衝突、雪崩や沢への転落など、ゲレンデとは違う危険がある。またスキー場によっては通常の営業前にリフトを回して特別に滑らせるところもある。ファーストトラックと呼ばれる特権的な仕組みだ。これは時に一般利用者の反発を招く。小さな山ではすぐに新雪が滑られてしまう。パウダーは無限にはないからだ。
スキー場には様々な人が来る。新雪を求める人もいればグルーミング(圧雪)された斜面を好む人もいる。スキーやスノーボードは体ひとつで雪上を滑走する危険なスポーツだ。暴走や衝突は時に大事故になる。しかし人々は滑走に喜びを見出してスキー場に来る。スキー場経営者は利用者の安全のためにも燃料と人件費を惜しまず、ゲレンデの圧雪に費用と時間をかけてほしいと思う。新雪に飽きた人はやがてゲレンデに戻ってくる。
ニセコルールと雪崩情報は倶知安、ニセコ、蘭越地域の関係者の理解のもとで出されている。捜索を数多く経験している片山町長をはじめ、ニセコ町役場と地域住民の応援がそれを支えている。コース外滑走のルールと雪崩情報は必要から生まれたものだ。この取り組みは事故を減らし、それは地域活性化にもつながった。英語でも出されているニセコ雪崩情報は今日、国内だけではなく世界中で愛読されている。

国後島と北方領土、その他もろもろのことを書いてみたい。知床羅臼から国後島までは20数キロの距離だ。歯舞、色丹、国後、択捉など南千島の島々は、1945年の終戦後に上陸してきたソ連軍に占領され現在に至っている。漁民は拿捕や銃撃の危険に怯えながら戦後80年近く、この海で漁を続けてきた。晴れた日には対岸の国後島西海岸の材木岩の崖や羅臼山の噴煙までよく見える。私は長くこの海を漕いできた。そんな中で私が体験したこと、考えたことを書いてみようと思う。これは択捉島の引揚者が多い羅臼の友人たちの声でもある。
引揚者の多くはすでにいない。その子供たちももう80近い。そして寂しそうに墓参で訪れた島のことを話す。みんなビザなし渡航で島を訪れている。島が返ってくるとは誰も思っていない。諦めているのだ。漁さえ出来ればそれで良い、撃たれず捕まらず漁がしたいと言う。誰も国に期待はしていないのだ。彼らにとっては海上保安庁さえ味方ではない。規則をたてに僅かな違反を厳しく突いてくるからだ。
中間ラインの向こうは棚があって魚が多い。しかしこちら側は深くて魚が少ない。それで漁師たちは危険を冒してむこうまで行く。見つかれば時には撃たれる。拿捕されて船が没収され抑留されることもある。罰金も払わされる。それでも彼らは漁に出る。それが80年続いている。その中では様々なことがあった。
30年前、羅臼に仲の良い若い夫婦がいた。彼らは二人で昆布やマスの刺し網漁をしていた。私は海でよく夫婦にカラフトマスをもらった。陽気で親切な人たちだった。ある時夫婦はタラバを獲るために境界を越えてエトロフまで出かけた。海は時化ていた。カニが獲れすぎた。小さな船はバランスを崩して転覆した。SOSを聞いたモイルスの綱義丸が全速で現場に向かった。ひっくり返った船には奥さんだけがしがみついて死んでいた。旦那は見つからない。綱義丸は600馬力19トンの定置漁の船だ。力があり波に強い。それでそのまま転覆した船を曳いて羅臼に戻った。
漁師たちは陸で迎え火を焚いた。15日目に浜にドラム缶が流れ着いた。それで迎え火をやめて葬式を出した。夫婦には小学生をかしらに乳飲み子まで4人の子供がいた。隣の家の老夫婦がその子たちを引き取った。「隣には昔から世話になった。今度は自分たちが子供の世話をする。」夫婦はそう言って孫のような子供たちを育てた。幼かった子供たちは成長して立派な大人になったことだろう。
知床の海は厳しい。羅臼では4・6突風と5・10海難という町史にも載る2度の大きな海難事故が起き、大勢の漁師が命を落とした。それでも彼らは生きるために漁に出る。あるいは熊を獲る。しかし魚は獲れなくなり春グマ猟も禁止された。30年前、冬のスケソウ漁が減船の対象になり、保証を受けるために船を手放す人が増えた。
政治家は選挙のたびに漁民に寄り添う素振りを見せる。しかし零細漁民の願いを聞き、それを果たそうとする人はいない。漁師たちは魚が減った前浜に網を入れ、昆布を養殖し、定置網漁の船で働き、あるいは遊漁船を営んでつつましく暮らしている。
私は目の前の国後島だけでも返してもらえないかと思う。そうすればどれだけみんなが喜ぶことか。そこは羅臼からあまりにも近い。尖閣や竹島は日本からは見えない。択捉と色丹も見えない。しかし国後はすぐ目の前にあるのだ。残念ながら日本人はそれを知らない。もちろんモスクワのロシア人が知るはずもない。
人々の心情に寄り添い、事情を多少なりとも知っていれば、ハボマイ、シコタンの2島返還で済むわけがない。4島のうちの2島といっても面積的には国後島の5分の1にもならない。何も知らない国民は喜ぶだろう。支持率も上がったかもしれない。しかしそれはチェチェンの弾圧やジョージアへの侵攻、政敵の投獄や暗殺を画策し、さらにウクライナ戦争をひき起こした独裁国家の指導者との口約束なのだ。その指導者とファーストネームで呼び合えることをこの国の指導者は自慢していた。恥ずかしい話だと私は思う。
領土交渉は国後に的を絞って進めるほうが私には現実的に思える。近いからだ。近すぎるという理由には十分な説得力がある。私は今後のロシアの体制変化を見据え、あらゆる手を使ってでも領土交渉を続けるべきだと思う。羅臼の子供たちに作文を書かせてもよい。ロシアの芸術文化を褒めたたえても良い。金で解決できるならそうすればよい。
昔、帝政ロシアは金に困ってアラスカとアリューシャンを720万ドルでアメリカに売り渡した。だから前例はある。これからも日本が日本であろうとするなら、政治家が本当に国民のことを考え、自分の利益ではなく国民のために知恵を絞り、粘り強く交渉に当たってくれることを願っている。それが真の政治家の役目なのではないのか。
1945年に日ソ不可侵条約が反故にされたように、ロシア人は相手の足許を見て動く。人は弱いものを探す。ゲルマン人やアーリア人に抑圧され、イスラム教徒に迫害されて時には奴隷化されたスラブ民族もまた、弱者を探そうとする。彼らはそうやって広大なユーラシア大陸を手に入れた。ヤルタの密約とポツダム宣言がある以上、従来の手法で島を返してもらう可能性は限りなく低い。しかし返してもらうべきなのだ。そこには徳川時代後半の高田屋嘉兵衛 をはじめとする日本人と千島アイヌの歴史がある。更に1875年に明治政府がロシア帝国と結んだ樺太千島交換条約もある。ロシア人を納得させる策はあるだろうか。相手が聴く耳を持つまで正論を言い続ける他に道はないのだろう。 
1945年、スターリンは北海道占領を目論んだがマッカーサーに阻止された。2014年、クリミア併合と前後してロシアはアイヌを自国の先住民と定めた。プーチンの歴史観では北海道はアイヌの国なのだ。だから日本軍国主義から自国民であるアイヌを保護するという名目で、ロシアが北海道に侵攻するのは荒唐無稽な話しではない。ウクライナはそうやって侵略された。また領土化を目指すなら稚内から南下して旭川、あるいは網走から西に旭川を目指すよりも、日本海から直接石狩湾に上陸して首都札幌を抑えるほうが理に適っている。海岸にはJR函館本線と国道5号線がある。北朝鮮も泊原発沖の日本海に、弾道ミサイルの飽和攻撃を行うことで、それに呼応するだろう。
私は銭函に住む新井場隆雄が心配になってきた。最近、彼の家に立ててあったウクライナの旗が何者かに倒されたという。私たちの知らないところで様々なことが動き始めている。杞憂であることを願っている。

いつか、また知床の海を漕ぎたいものだ。また、若い頃に歩いたネパールヒマラヤの古い交易路を歩きたいものだ。クンブーから家畜ヤクをソルに移動させるためのその古い道は、50年前ですらすでに忘れ去られようとしていた。途中のルムディン・コーラの激流にかかる危なっかしい橋を渡った日のことを思い出す。
平和だったからこそ私は辺境の旅ができた。そして自由にものを言えた。雪が降り始めた。今年はどんな冬になるだろうか。

(2023年11月29日)

知床日誌44

2023-09-06 15:24:10 | 日記
三浦雄一郎さんの富士登山に同行した。90歳の三浦先生は頸椎硬膜外血種破裂で体が不自由だ。しかし気持ちは変わらずに強い。今回は先生の乗る車椅子を弟子たちが曳き、頂上を目指すという計画だった。大勢の登山家やプロスキーヤーなど、三浦先生に縁のある人たちが集まった。自信はなかったが私も参加した。私は1970年のエベレスト滑降時にカトマンズのトリビュバーン空港に先生を出迎えて以来、先生とお付き合いがある。同じ飛行機でネパール国王の戴冠式のために日本から常陸宮ご夫妻が見えた。私たち在留日本人は旗を振って一行をお迎えした。当時私は東京農大の農業実習生だった。
三浦雄一郎はイタリヤのキロメータランセで172キロの世界記録を樹立し、その後、富士山を直滑降するなど、当時すでに過激な冒険スキーの先駆者として知られていた。次はエベレスト、サウスコルからの滑降だ。この型破りな人間に冒険好きな欧米の評価は高かった。計画は成功した。三浦は転倒したが生還した。そして異論はあるだろうがそれが今に続く日本のアウトドアブームのきっかけにもなった。
日本人の底流には縄文の昔から続く自然崇拝の血が流れている。その血が宗教登山を生み、修験者や、更には海賊と呼ばれる海に生きる人たちを生んだ。三浦雄一郎はそのような原日本人の末裔なのだろう。もちろんそれに対する反発もある。70年前、三浦さんは当時のスキー連盟から破門された。権威を重んじ組織を優先する弥生人の末裔が力を持つ日本社会で、それは当然だっただろう。出る杭は打たれる。しかし三浦雄一郎は知恵とユーモア、そして行動でそれを乗り越え、その後も冒険の領域を広げていった。今回集まった人たちは皆それを知っている。私たちは真面目な顔で突然、思いがけない冗談を言う三浦雄一郎に惹きつけられた。だから尊敬と敬愛の思いからみんなが三浦先生と呼ぶ。三浦雄一郎は私たちのユーモアの先生なのだ。
それにしても怠け者の私に今回の富士登山は過酷だった。下山してから太ももの筋肉が悲鳴をあげ、歩くのもままならない。私は手稲山の藪漕ぎで両足がつった遠い昔を思い出した。中学2年のころだった。根曲がり笹の藪で用足しでしゃがんだ途端に両足がつり七転八倒した。翌日は這って学校に行った。そして先生に説教された。それでも私は憑りつかれたように毎週山に向かった。それ以上に楽しいことがなかったからだ。富士の雲海はそのころに空沼岳山頂で見た光景を思い出させた。そして大海原のような雲海に浮かぶ恵庭岳の光景が、その後の私の生き方を方向づけたことに気づいた。
高校に入り山で大けがをして死にかけた。誤って右手首を鉈で切ってしまったのだ。定山渓天狗岳岩魚沢でのことだった。沢を駆け下りて林道に出た私は偶然通りかかった造材トラックの運転手さんに助けられた。運転手さんは私を病院まで運んでくれた。私は3か月入院したがそれ以来、右手が不自由だ。静脈とともに尺骨神経という太い神経と指3本の腱を切った手は、今も感覚がなく動かない。しかしその後も山に登り続けた。この時の名前も知らない運転手さんと、カラコルムの砂漠で死にかけている私にリンゴをくれた女の子は私の命の恩人だ。バツーラ2峰登山隊に参加した私は高山病で隊を離れ、灼熱のオールドフンザロードをひとりギルギットに向かっていた。衰弱した私はやがて歩けなくなった。そしてとあるオアシスのアンズの木の根元に横たわった。遠巻きに見ていた人たちは私の死を確信していた。はるか眼下にインダスの激流が見える。息が絶えたらそこに投げ落とされるのだろう。そんなことを考えていた。その時一人の女の子が恐る恐る近寄り、しなびたリンゴをくれた。私はそれをなめるように食べ続けた。蟻が体をはい回っていた。やがて朝になった。私は生きていた。今も鮮明に思い出す。あの子はきっと観世音菩薩の化身だったに違いない。
人は一人で生きているのではない。まわりに生かされている。80歳というエベレストの世界最高齢登頂の後、カトマンズで記者会見した時の三浦先生を思い出す。先生は会見の中でシェルパのおかげで無事に登頂できたという言葉を3度繰り返した。隊員もシェルパたちもそれを聞いて感動した。今回の登山ではみんなが先生を支え、その夢を叶えようとした。私たちは三浦雄一郎の生き様に励まされた。今度は私たちが励ます番だ。今回の富士登山の素晴らしさはそこにある。
利用が制限されているブル道を使うことへの批判もある。しかし道路管理者もブルドーザのオペレータもそれを許し、温かく見守ってくれている。そして山小屋の人たちも大勢の登山者も三浦雄一郎を応援してくれた。現場はみんなわかってくれていた。
貫田宗男さんは山頂の砂塵嵐の中で次のように話した。「どんな登り方があっても良い。今まで三浦さんが果たしてきた役割を知っていれば、狭量な原理主義で登山を語るのは愚かなことだ。もちろんそれも自由だが。」
貫田さんは経験豊富な登山家だ。エベレストには2度登っている。そしてたくさんの人々に登山の素晴らしさを伝え続けている。登山は一部の人たちだけのものではない。そしてどんな登り方があっても良い。それが貫田宗男の信条なのだろう。私はそこに貫田さんの強い意思と優しさを感じる。自然は時に人の命を奪う。それでも山は素晴らしい。人々にそれを伝えるのが貫田さんの役割なのだろう。
それにしても30年以上山から離れていた私にとっての富士山は厳しかった。昔を思い出しながら水を飲み、ゆっくりと歩いた。考えてみれば最後に登山したのは1992年のラカポシ遠征だ。それ以来山には登っていない。90年代に入り私は海のカヤックを始めた。海は私に合っていた。まず空気が濃い。それに荷物を担がずにすむ。私は登山に疲れていた。それから30年、私はホーン岬やアリューシャンへと遠征を繰り返した。そして知床の海を漕ぎ続けた。私は山の経験で海を漕いだ。過信は時に命に関わる。用心だけが身を守る。海もまた山と同様に地道な修練が求められるところだ。どちらもそれを求める者にはやるに値する冒険のフィールドなのだ。
私は怪我が多い。左足の捻挫は慢性化して常に痛い。アキレス腱も切り半月板の手術もした。その時の麻酔の後遺症が今も尻に残っている。馬尾神経が麻痺しているのだ。腰のヘルニヤは使っているうちにすり減ったのかあまり痛まなくなった。しかし左足は今もしびれている。15年前に今度は左手指の腱を3本切った。小指は直角に曲がったままで癒着した。そのため顔を洗えない。鼻の穴に指が入ってしまう。しかしそれでも海は漕げる。失われた機能を他が補う。体はうまく出来ているものだ。残念なことに今はもう楽器が弾けない。パキスタンのフンザや南米チリのプンタアレナスで流しをしていた時のことを思い出す。私は遠征時の小遣いを下手なバイオリンで稼いでいた。
三浦先生の障害は私よりはるかに重篤だ。脊髄の機能不全は運動機能を大きく損ねる。しかし先生は不可能を可能へと変えようとしている。傍で見ていると運動範囲が明らかに広がっているのがわかる。強い意思がそうさせているのだ。もちろんとてもつらいことだと思う。歯がゆいと思う。しかし失われた機能は使い続けることでやがて他が代替する。私はそう信じて不自由な体を使い続けてきた。先生にそれができないはずがない。
下山したあとで三浦雄一郎は99歳でのモンブラン、バレ・ブランシュの滑走を宣言した。みんな驚いた。そして喜んだ。私は可能と思う。大事なのは夢を持ち続けることだ。私たちは先生が再び山に向かう日が来ることを祈っている。無理をすることはない。わずかであっても少しずつ可能性を拡げて行けば良い。
それにしても三浦雄一郎は強かった。空しか見えない単調な登りと砂塵嵐の下降は楽ではなかったはずだ。私の足は悲鳴をあげたが、先生も背中と尻が痛かったに違いない。忘れないうちにこの日誌を書いている。また日常が始まる。私も先生を見習って怠けずに努力しようと思う。それにしても体が痛い。わたしの参加を許してくれた三浦家の皆さんと大勢の人たちに感謝する。素晴らしいチームだった。

2023知床エクスペディション日程

2023-08-18 19:24:35 | 日記


2023知床エクスペディション日程

1回目 5月2日(火)~5月9日(火) 終了しました
2回目 7月1日(土)~7月8日(土) 中止します
3回目 7月15日(土)~7月22日(土) 終了しました
4回目 8月6日(日)~8月13日(日) 終了しました

◎お問合せの際は必ず氏名・年齢・連絡のできる電話番号・カヤックの経験・野外経験など記載の上ご連絡ください。記載がない場合は返信ができない事があります。
◎お申し込みには氏名、年齢・西暦の生年月日・身長、体重・住所・ご連絡ができる電話番号が必要です。

・返信までに時間がかかることがあります。
・出発の前日からメールでのご連絡はできません。

ガイド新谷暁生


アリューシャンの友人たちに

2023-07-26 05:50:35 | 日記


Shiretoko Memory 43

On June 12, after returning to Dutch Harbor from Nikolski, we paddled back out to sea. We wanted to go pay Susie a visit in Kalekta Bay.
In the 23 years since my first visit to the Aleutians in 2000, I have been there eight times and met many people. It is said that the Aleut culture here has a history of 7,000 years. Hard to believe at first glance, but that's a long time to get one's head around. Great China, with its nostrils flaring, boasts of its 3,000-year history and is not shy of hiding its ambitions to conquer the earth. Great Russia, too, has somehow shed its Marxist-Leninist garb, and is now throwing the world into turmoil with the aim of returning to imperial Russia. Seventy millennia since mankind was born in Africa, has human history been a history of the proliferation of human folly? I stargaze about such things as I paddle. There is plenty of time to do so while at sea. Susie Golodov lives in a little cove in Kalekta, about 30 kilometers from Dutch harbor on Unalaska Island. She and her husband, Benjamin Golodov, built their seaside cabin more than 30 years ago. Ben, the last Aleut, passed away in 2006. His funeral was attended by many people not only from the Aleutian Islands, but also from Alaska and the U.S. mainland. Ben was a descendant of the Atz Aleuts who were forced to settle in Pribilof and Komandorsky during the Czarist Russian era, and he and Susie had continued their traditional hunting lifestyle on the land in Kalekta, which his father acquired in 1945 after the war. A Lamaist prayer flag flutters on a seaside hill. Fifteen years after Ben's death, Susie lives here alone during the summer. She must have needed something to rely on, and perhaps it was Tibetan Buddhism. There is nothing strange about the prayer flags standing in the Aleutians. The flag is filled with the same awe towards Nature and thoughts for the passed-away that the people of the Himalayas have. “Ben is always here with me”, Susie tells us, and she seemed very pleased with our visit.
 I first met Ben and Susie in June 2004. At the time, I was kayaking in the Aleutians with no clue what I was getting myself into. 2000, I went around Unalaska Island with Minoru Sasaki, and the following year I rowed with Takao Araiba over Umnak Pass to Nikolski, the western tip of Umnak Island. I was just drawing lines on a map and paddling the ocean out of a yearning for adventure.
On the day I first met them, I was alone, heading east to Akutan Island. I saw a small hut at the end of the bay. As I approached the beach, Ben and Susie greeted me. They were very surprised to hear my story and was also very concerned. Ben told me that even his skiff, an aluminum boat with an engine, would have a hard time crossing Akutan pass. Perhaps he was comparing me to his younger self, and he generously taught me about this sea. I bid them farewell and started paddling off the shore.
American kayakers were lost in Akutan Pass in the past. The tide can be extremely rapid in the strait and sometimes covered with thick fog. There are several currents in the strait. The tide flows stronger closer to Akutan island and the waves were higher than the length of our boat. All I could do was to keep paddling through the waves with all my might.
Halfway around Akutan Island, I met an Aleut sea lion hunter on a skiff. They were obviously surprised to suddenly see a kayak. We exchanged old-fashioned greetings. Akutan has a large sea lion colony. Five or six young males lunged towards my kayak and passed right beneath. I actually made eye contact with one of them. After going around the island, I crossed the strait again, this time in a thick fog. I could only rely only on my compass and my ears. My ears discerned the sounds of the sea. As I entered Kalekta Bay and rounded the headland, I saw the hut and smoke was rising from the chimney. My hands were blistered, swollen and weak. Ben and Susie were happy to see me back and welcomed me warmly. That was how we became friends.
For this 8th visit to the Aleutians, I formed a party with Takao Araiba, Kazuaki Iwamoto and Kenya Sekiguchi. Our goal was to cross the Samarga Pass, from which I had once barely escaped alive. Far to the west of Umnak are the islands of Chuginadak and Kagameir, which are called Four Moutain. On a clear foggy day, the islands in the distance are so divine that they seem out of this world. It was my dream to go there.
In 2006, I attempted to cross Samarga Pass alone. I turned back in fear of the strong tides flowing into the Pacific Ocean from the Bering Sea. The archipelago continues on to Atka, Amchitka, Kiska, Atz, and on to Kamchatka. I, with too little experience and poor technique, attempted to paddle this path that had taken the ancients thousands of years to make it. The Aleut people took hundreds of generations to accomplish it. A long time ago, people that traveled a long way from Asia, nurtured an excellent ocean-hunting culture in this severe sea. As I was paddling the Aleutian seas, I began to ponder the meaning of this, and I realized my ignorance and was ashamed of it.
Nineteen years later, the four of us crossed to a small island called Adgak, 20 kilometers northwest of Nikolski, and waited for the opportunity. Adgak is an isolated island in the middle of the ocean. There was a colony of Sea lion on the island. There were also the remains of a pit dwelling, which may have been built quite some time ago. The southwesterly wind stayed strong and the sea was extremely rough. We waited for a week, but the weather did not improve. We had no choice but to convince ourselves this was the Aleutians, so we set out to paddle. However, the wind picked up again and we turned back to the island in fear. I no longer had the confidence to paddle for 40 kilometers through these waters, even in good weather. The cold environment was too much for my body. I realized I was a maybe too old for this. I wondered if the elder Aleuts felt the same. It’s said that old men who could no longer paddle went out into a storm to take his own life. It takes courage whether living or dying here, and I didn’t have that courage. I felt sorry for the other three, but I decided to return to Nikolsky. Kagameir was far away again. Araiba, Iwamoto, and Kenya will continue on from here. They knew how I felt.
 In Nikolski, Scott Carr and Agrafina were glad to see we were safe. Scott's boat house on the beach became our home. Scott is a little eccentric person. You can see that when you enter the boathouse. He is a bit of an eccentric artist. You can see his message: "FUCK PUTIN", written in large letters on his buggy. I have been under his care every time I come here since I came here for the first time with Araiba in 2001. Scott and I are both 76 years old, and our morning greeting begins with a mutual boast about how bad our physical condition is.
Nikolsky is called Chalka in Aleut language. The village is located in an inlet near the western tip of Umnak Island and has a population of less than 30 people. Charka and Chagaf, 50 km north of Charka, were once the center of Aleut culture along with Unalaska. Chagaf was a source of obsidian, which people processed into blades and tools such as arrowheads and stone blades. Obsidian was an important trade product. I remember when Iwamoto and I passed through Chagaf in 2018. The mountain ridge overlooking the sea was lined with countless graves, a reminder of the prosperity of a bygone era. Now there are no people there. Everything has returned to nature.
Eight kilometers northeast of Charka lies Anangra Island, which lies on the sea surface like a resting whale. After returning from Adgak, we decided to visit this legendary island. The island is said to have been inhabited by the first Aleuts during the Ice Age. According to archaeologist William Laughlin, the first humans arrived in the Aleutian Islands about 12,000 years ago. People reached Anangura by hunting sea lions and walruses in the glacier-strewn waters and settled there. We paddled in to a small inlet called Laughlin Cove. There we found the remains of a camp from a investigation team in the 1970s. We climbed to the top of the hill and found a large grave and a small grave at the top. We wondered if it was a couple. The graves, covered with grass, had been assimilated into nature over a long period of time. On the cliff were numerous nests of puffins. It was the first time I heard the call of a puffin. Their voices were loud, not in proportion to their bodies. Laughlin Cove was a mysterious place.
The early Aleuts, who started to live in Anangra and Charka, then gradually expanded their sphere of life to the east and west. However, they were slow to move westward. It is said that it was about 3,000 years ago that they crossed the Samarga Pass and established a permanent village on the western island of Atz. What was the reason for the migration? Is the population growth of Unalaska and Umnak the only reason? People usually won’t migrate as long as they have enough food. Can the lack of food alone explain the migration? I can’t help but think that there was a budding sense of adventure that is inherent in human beings. And it had to have something to do with the maturation of the Aleut society. They were not barbarians. Rather, they were wiser people than today's so called “civilized” people.
The migration of the people known as the Kawasucals, who lived in Patagonia in South America during the same period, was for survival. They escaped the persecution of the Incas, Aztecs, and other powerful civilizations by running through the forests, sometimes in hastily constructed canoes made of crude bark. Then they reached Patagonia. Beyond that point, there was no escape. Beyond Cape Horn there was only a raging sea. For 2,000 years, the Kawascals fed on clams and cyttaria in the labyrinthine channels of the Strait of Magellan, living a humble life until the beginning of the 20th century. They lived as best they could. They were called the Yagans, sometimes despised as Alakalfs, and they perished in the middle of the 20th century. They never were able to create their own culture.
I think of the rise and fall of the Aleuts. Were they also wiped off the face of the earth like the Kawaskals? The number of Aleuts in the archipelago reduced from 15,000 to 5,000 during the Russian occupation during the 18th century. The miscegenation, conversion to the Russian Orthodox Church, forced learning of the Russian language, and the creation of Russian names accelerated the demolition of the ethnic group. If this had continued, they would have become an autonomous republic like many of today's Russian remote regions, which are treated as a source of resources, labor, and soldiers. However, in 1867, Russia, exhausted by the Crimean War and strapped for cash, sold Alaska and the Aleutians to the United States. The Aleuts, who had become Russified, were once again faced with a new challenge: incorporation into the United States of America. However, the Aleuts who now became citizens of the U.S., endured prejudice and discrimination, and slowly but gradually gained recognition in the American society. They unwittingly became accustomed to their new sovereign nation.
 The Aleuts were treated unfairly by both the U.S. and Japan during World War II. After the war, the Aleuts persistently appealed both nation’s wrongdoings. They won restoration of their rights and compensation for the damage they had suffered during the war from the United States. I believe this was made possible by the wisdom of the Aleut people, nurtured through their long history. They always lived in a harsh environment and learned how to be flexible and adapt to it. They were able to assert their rights without being mean because they were proud of their own culture.
As the history of the Aleutians shows, culture is passed on by those who take pride in it. The rise and fall of a people cannot be measured by numbers alone. Today, the Aleut culture is revitalizing itself by incorporating a variety of things. There is no point in discussing the continuity of ethnic groups in anthropological terms. The people who live there today are the inheritors of the culture. I feel the robustness of the Aleut culture, which has continued for 7,000 years. In the Aleutians, a volcanic archipelago, villages have disappeared many times due to natural disasters such as volcanic eruptions. However, eventually, people appeared out of nowhere and reestablished a similar way of life. I don't think this has changed today.
In the past, Aleuts played an important role in the trade in the arctic area. They came as far as Matsumae in Hokkaido in the 17th century with feathers of rare birds such as the crested hornbills. In the 13th century, they allied with the Ainu people of Ezo to invade the Amur River and participated in the battle of Kui against the Yuan Dynasty of China. The Aleut culture was probably most prosperous between the 10th and 17th centuries. During this period, the leather boats that supported their culture evolved to the extreme. The boats had joints and could move flexibly through high waves. They also devised ways to use the huge waves as a way of propulsion. They hunted whales in the straits where the tides are big and swift, and traded far and wide. However, their crafts and traditions of the time were quickly destroyed by the plunder of iron-armed Russian Cossacks.
The wind is not a river," is a famous Aleut proverb. The wind always eventually stops. In contrast, a book titled "When the wind was a river" was published in the United States. It is a book about Aleut people who were at the mercy of the Great War. The book also describes the Aleuts who were interned in Otaru and what happened to them.
Today, people who are attached to this land, regardless of their origins, have the heart of an Aleut. They are the bearers of the contemporary Aleut culture. Susie Golodoff, Jeff Hancock, Scott Carr, Burke Meads, Scott Dasney, and people of all colors, who work in the fishery, the processing plant, and the airfield. Everyone helps each other to survive in this land. The people of the Aleutians have the same values of life of that of the people of the Himalayas. The Aleut culture, once thought to have died out, is beginning to be revived again by such people.
In the 18th century, Russia moved into the Aleutians for otter skin and despised the local culture. The United States, which later colonized here, also saw the islands as nothing more than a place of deprivation and forced the Aleuts into slave labor. Before Edison invented the electric light bulb, the Americans had the Aleuts hunt seals from Pribilof Island for urban streetlights. This was because fuel made of seal fat is soot-free. The same goes for whales. Whaling in those days was done for fat. I am angry and saddened by the selfishness of those who call whaling barbaric. The 14th Dalai Lama, in his sermon, preached that ignorance is a sin. Ignorance makes people repeat their mistakes. Isn't that the main reason for the confusion of mankind? We should realize that there are countless things lost because of it.
Our journey in the Aleutian finished. And so did my journey. I would like to thank Takao Araiba and Kazuaki Iwamoto for inviting me to go. I am also grateful to Kenya Sekiguchi for participating in the trip despite the pain in his back. Both Kenya and I suffered from pain during this trip. My hands conditions were getting worse and I had a hard time putting on and off my drysuit. I really am sorry for the trouble I caused not being able to help assembling and disassembling the kayaks. All I could do was to cook for all of us.
 I would like to thank my Aleutian friends for their help. I especially wish Scott Carr good health and Susie Golodoff peace of mind. I also hope that Burke's seaplane, the Grumman Goose, will continue to fly in the Aleutian skies. I hope to visit them again someday. I'm sure Jeff will be there, laughing and welcoming me as always.

知床日誌㊸

2023-07-01 16:48:44 | 日記

6月12日、ニコルスキーからダッチハーバーに戻ったあと、私たちは再び海に漕ぎ出した。カレクタベイのスージーに会うためだ。2000年に初めてアリューシャンを訪れてから23年、私はここを8度訪れ、多くの人々と出会った。この土地に生まれたアリュート文化には7000年の歴史があると言う。にわかには信じがたいが、気が遠くなるほどの長い時間だ。偉大な中国は鼻の穴を膨らませて3000年の歴史を誇り地球征服の野望を隠そうともしない。大ロシアもまたいつの間にかマルクス・レーニン主義の衣を脱ぎ捨て、帝政ロシアへの回帰を目指して世界を混乱の渦に巻き込んでいる。人類がアフリカで生まれて7万年、人類史は人間の愚かさの拡散の歴史だったのだろうか。漕ぎながら私はそんなことを夢想する。海には時間がある。
スージー・ゴロドフはウナラスカ島のダッチハ一バーから30キロあまり離れたカレクタの入江に住んでいる。海辺の小屋は30数年前、夫のベンジャミン・ゴロドフと共に建てたものだ。最後のアリュー トと呼ばれたベンは2006年に亡くなった。その葬儀にはアリューシャンの島だけではなくアラスカやアメリカ本土からも大勢が集まったと言う。ベンは帝政ロシア時代にプリビロフやコマンドルスキーに移住を強いられたアッツ・アリュートの末裔であり、大戦後の1945年に父親が手に入れたカレクタの土地で、スージーとともに伝統的な狩猟生活を続けてきた。海辺の丘にラマ教の祈祷旗がはためいている。ベンが亡くなって15年、スージーは夏の間一人でここに暮らす。生きる拠り所が彼女には必要だったのだろう。それがチベット仏教だったのかもしれない。アリューシャンに立つ祈祷旗に違和感はない。そこにはヒマラヤの人々と同じ自然への畏怖と死者への思いが込められている。ここではベンがいつもそばにいてくれる。スージーはそう話す。彼女は私たちの訪問を心から喜んでくれた。
私がベンとスージーに初めて出会ったのは2004年6月だった。当時の私は何もわからずにアリューシャンを漕いでいた。2000年に佐々木実とウナラスカ島を回り、翌年新井場隆雄とウムナックパスを越えてウムナック島西端のニコルスキーまで漕いだ。私はただ地図に線を引き、冒険への憧れから海を漕いでいた。
初めて二人に会った日、私はひとりで東のアクタン島を目指していた。湾の奥に小さな小屋が見えた。浜に近づくとベンとスージーが出迎えてくれた。彼らは私の話を聞いてたいそう驚き、そして心配してくれた。ベンはエンジン付きの自分のスキッフと呼ばれるアルミポートでもアクタンパスを越えるのは大変だと言った。彼は若いころの自分と私を重ね合わせていたのかもしれない。そして丁寧にこの海のことを教えてくれた。私は二人に別れをつげて再び漕ぎだした。
アクタンパスでは過去にアメリカのカヤッカーが遭難している。海峡は時に激流になり、時々濃い霧がかかる。海峡には何本もの流れがある。アクタン島に近づくと潮はさらに強まり、波は艇の長さより高くなった。私は必至に波の間を漕ぎ続けた。
アクタン島一周の途中でスキッフに乗ったアリュートのトドハンターに出会った。彼らは突然のカヤックの出現に驚いた。私たちは昔ながらの挨拶を交わした。アクタンには大きなトドのコロニーがある。若い五六頭のオスがカヤックに突進して艇の下を通り過ぎた。そのうちの一頭と目があった。島を一周し、私は濃い霧の中で再び海峡を越えた。コンパスと自分の耳だけが頼りだった。耳は海の音を聞き分ける。カレクタ湾に入り、岬を回ると小屋が見えた。煙が上がっていた。豆がつぶれた手は力が入らず腫れあがっていた。ベンとスージーは帰還を喜び、私を温かく迎えてくれた。それから私は彼らの友だちになった。 
8度日となる今回は新井場隆雄、岩本和晃、関ロケニヤと計画した。目標はかって私が命からがら逃げ帰ったサマルガパスの横断だ。ウムナック島の西方遥かにチュギナダックやカガミールなどのフォーマウンテインと呼ばれる島々がある。霧が晴れた日、遠くに見える島々はこの世のものとは思えないほど神々しい。そこへ行くのが夢だった。
2006年、私は一人でサマルガパスを越えようとした。そしてベーリング海から太平洋へと流れ込む強い潮に恐怖して引き返した。列島はその先さらにアトカ、アムチトカ、キスカ、アッツへと続きカムチャッカに至る。昔の人が数千年の長い時間をかけて辿った道を、私はわずかな経験と拙い技術で漕ごうとした。アリュート民族は何百世代もかけてそれを成し遂げた。遥か昔、遠くアジアからやってきた人々は、この厳しい海にすぐれた海洋狩猟文化を築きあげた。私はアリューシャンの海を漕ぐ中でその意味を考えるようになった。そして自分の無知を恥じた。 
あれから19年、私たち4人はニコルスキーの北西20キロにあるアドガックという小島に渡りチヤンスを待った。 絶海の孤島と呼ぶに相応しい島だ。島にはトドのコロニーがあった。またいつの時代のものか、竪穴住居跡が残っていた。南西風が強く海は険悪だった。一週間待ったが天気は良くならなかった。これがアリューシャンだと覚悟を決めて漕ぎ出した。しかし途中で風が強まり、恐れをなして島に引き返した。この海を40キロ漕ぐ自信は、たとえ天候が良くてももう私にはなかった。冷たい環境が体に応えた。私は老いを自覚した。アリュートの年寄りもそうだったのだろうか。漕げなくなった老人は嵐の中を漕ぎだして自ら命を絶ったという。ここでは死ぬも生きるも勇気がいる。しかし私にそんな勇気はない。3人にはすまなかったが二コルスキーに帰ることにした。カガミールは今回も遠かった。この先は新井場と岩本、そしてケニヤが続けてくれるだろう。彼らは私の気持ちをわかってくれていた。
ニコルスキーではスコット・カーとアグラフィーナが私たちの無事を喜んでくれた。海岸のスコットのボートハウスが私たちの家だ。スコットは一風変わった人だ。それはボートハウスに入るとよくわかる。スコットは風変わりなアーティストだ。彼が乗る4輪バギーにはFUCKPUTINと大きく書かれている。2001年に新井場とここに来て以来、私は来るたびに彼の世話になっている。スコットも私も76歳で、朝の挨拶は互いの体の不調自慢から始まる。
ニコルスキーはアリュート語でチャルカと呼ばれる。村はウムナック島西端近くの入江にあり、人口は30人にも満たない。チャルカとその北50キロにあるチャガフは、かってウナラスカとともにアリュート文化の中心地だった。チャガフは黒曜石の産地であり入々はそれを割って刃を整え、矢尻や石刃などの石器を作った。黒曜石は重要な交易産品だった。2018年に岩本とチャガフを通過した時のことを思い出す。海を見下ろす尾根には往時の繁栄を偲ばせる無数の墓が立ち並んでいた。今そこに人影はない。すべてが自然に還っている。
チャルカの北東8キロにクジラのように横たわるアナングラ島がある。アドガックから帰った私たちはこの伝説の島に行ってみることにした。島は氷河期に最初のアリュートが住んだところだと言う。考古学者ウィリアム・ラフリンによれば、アリューシャン列島に最初の人類がやってきたのは約1万2千年前のことだ。人々は氷河が迫る海でトドやセイウチを狩ってアナングラに達し、そこに定住した。私たちはラフリン・コーヴと呼ばれる小さな入江に上がった。そこには1970年代の調査時のキャンプ跡があった。丘の上を目指して登ると頂上に大きな墓と小さな墓があった。夫婦だろうか。草に覆われた墓は長い時を経て自然と同化していた。崖には無数のパフィンの巣がある。私は初めてパフィンの鳴き声を聞いた。体に似合わず声が大きい。ラフリン・コーヴは不思議なところだった。
アナングラやチャルカに住むようになったアリュートの先人はその後、東西に少しずつ生活圏を拡げた。しかし西への移動は遅れた。サマルガパスを越えて西のアッツ島に定住村を作ったのは約3000年前だと言われている。移動の理由は何だったのだろうか。ウナラスカとウムナックの人口増加だけがその理由だろうか。食べ物に困らなければ人は動かない。食料不足だけで移動を説明できるだろうか。私はそこに人に内在する冒険心の芽生えがあったのではないかと思う。そしてそれはアリュート社会の成熟と無関係ではない。彼らは蛮族ではなかった。むしろ今日の文明人以上に知恵深い人々だった。
同じ時代に南米パタゴニアに生きたカワスカルと呼ばれる人たちの移動は生きるためだった。彼らはインカやアステカなどの強大な文明の迫害から逃れて森を走り、時に粗末な樹皮製のカヌーを急ごしらえして移動を繰り返した。そしてパタゴニアに達した。その先に逃げ場はなかった。ホーン岬の先には荒れる海しかない。カワスカルは迷路のようなマゼラン海峡の水路で2000年にわたってカラス貝とキッタリヤを食べ続け、20世紀初めまで細々と生きた。彼らは生きるのに精一杯だった。ヤーガンと呼ばれ、アラカルフと蔑まれた人々は20世紀中ごろに滅亡した。彼らが独自の文化を作ることはなかった。
私はアリュートの盛衰を考える。彼らもまたカワスカルのように地球上から抹殺されたのだろうか。18世紀のロシア時代、列島のアリュートは1万5千人から5千人にまで減ったという。混血が進み、ロシア正教への改宗とロシア語の強制、ロシア名への創氏改名で民族の解体は加速した。それが続けば今日の多くのロシア辺境の民族と同様に自治共和国化され、資源と労働力、そして兵士の供給地となっただろう。しかし1867年にクリミヤ戦争で疲弊して金に困ったロシアがアラスカとアリューシャンをアメリカ合衆国に売却したことで、ロシア化が進んでいたアリュート民族に再び新たな試練が訪れる。アメリカ合衆国への編入だ。しかしアメリカ市民となったアリュートは、偏見と差別に耐えながら、徐々にアメリカ社会に市民権を得て行く。彼らは知らず知らずのうちに新たな宗主国になじんで行った。
アリュートの人々は第二次大戦中、アメリカにも日本にも不当な扱いを受けた。しかし戦後、彼らは粘り強くその非を訴え続けた。そして権利の回復や大戦中に受けた被害の賠償を合衆国から勝ち取った。それが可能だったのは長い歴史の中で育まれたアリュート民族の知恵だったと思う。常に過酷な環境の中で生きた彼らは、そこに適応し柔軟に生きる術を身に着けていた。卑屈にならず権利を主張出来るのは、自らの文化に誇りを持っているからだ。
アリューシャンの歴史が示すように、文化とはそれに誇りを持つ人々によって受け継がれるものなのだ。民族の盛衰は数だけでは測れない。今日、アリュート文化は様々なものを取り入れながら再興しようとしている。そこに人類学上の民族の連続性の議論は意味がない。今住んでいる人がその文化の継承者だからだ。私はそこに7000年続いたアリュート文化のしたたかさを感じる。火山列島のアリューシャンでは古来何度も噴火などの自然災害で村が消滅した。しかしやがて、どこからともなく現れた人々によって再び同様の生活が営まれた。それは今も変わっていないように思う。
昔、アリュートは北方圏交易の重要な担い手だった。彼らはカンムリツノメドリなどの珍奇な鳥の羽を持って17世紀に北海道松前までやって来た。また13世紀には蝦夷地のアイヌ民族と連合してアムール川まで攻め入り、元朝中国とのクイ(骨鬼)の戦いに参加した。アリュート文化が最も栄えていたのは10世紀から17 世紀頃だったのだろうか。この時代、彼らの文化を支えた皮舟は極限にまで発達した。舟は関節を持ち高波の中を柔軟に進んだ。 また巨大な波を推進力とする工夫も考え出された。彼らは速い潮が行き来する海峡でクジラを狩り、はるか遠方にまで交易に出かけた。しかし当時のすぐれた技術伝統は鉄の武器を持つロシア・コサックによる略奪と破壊によって急速に滅んで行った。
「風は川ではない・The wind is not a river」というアリュートの有名なことわざがある。風は必ず止む。それに対して、「風が川だったとき・When the wind was a river」という本がアメリカで出版されている。大戦に翻弄されたアリュートの人たちを書いた本だ。この本には小樽に抑留されたアリュートとその後についても書かれている。
今日この土地に愛着を持つ人はその出自に関わらずアリュートの心を持っている。つまり彼らが現代のアリュート文化の担い手なのだ。スージー・ゴロドフ、ジェフ・ハンコック、スコット・カー、バーク・ミーズ、スコット・ダスニーそして漁師や加工場、飛行場で働く様々な色の人たち、ヒンディーもムスリムもいる。誰もがこの土地では助け合って生きている。アリューシャンに住む人々にはヒマラヤの人々と共通するそんな価値観がある。一度は滅んだかに見えたアリュート文化は、そのような人々によって再び復活し始めている。
18世紀、ロシアはラッコ皮のためにアリューシャンに進出し、この土地の文化を蔑んだ。その後ここを植民地としたアメリカもまた島々を収奪の地としか見ず、アリュートに奴隷労働を強いた。エジソンが電灯を発明する前、アメリカは都会の街灯のためにプリビロフ島のオットセイをアリュートに獲らせた。オットセイ油は煤が出ないからだ。クジラもそうだ。当時の捕鯨は油をとるために行われた。私は捕鯨を野蛮と罵る人々の身勝手さに怒りを覚えるとともに、その無知を哀れに思う。14世ダライラマはその説話のなかで無知が罪であることを説く。無知が過ちを繰り返させる。それこそが人類を混乱させてきた一番の理由なのではないのか。私たちはそれによって失われたものが無数にあることに気づくべきなのだ。 
アリューシャンの旅は終わった。それとともに私の旅も終わった。誘ってくれた新井場隆雄と岩本和晃に感謝する。また腰の痛みに耐えながら参加してくれた関ロケニヤに感謝する。ケニヤも私も痛みに悩まされた。私の手はますます悪くなり、ドライスーツの脱着もままならない有様だ。カヤックの組み立や解体では3人にたいそう迷惑をかけた。私に出来ることは飯を炊くことくらいだ。
世話になったアリューシャンの友人たちに心から礼を言いたい。特にスコット・カーの健康とスージー・ゴロドフの心の平安を祈りたい。またバークの飛行艇、グラマン・グースがこれからもアリューシャンの空を飛び続けることを祈っている。いつか再び彼らのもとを訪ねてみたいものだ。その時はジェフが笑いながら、いつものように出迎えてくれることだろう。