さて。いじめ問題に関する私の考えを少しずつ言語化していきたい。
いじめに関してよく出てくる言説の一つが、「いじめられる方にも問題はある」という言葉をめぐる以下のような反応である。
「いじめられている子に対して、『いじめられる方にも問題はある』なんて言っちゃうと、もういじめられている方は八方ふさがりになるわけ。だから、いじめられている子に対して、『いじめられる方にも問題はある』なんて言葉は絶対に言っちゃダメ!」
この発言は、数ヶ月前の「太田総理」での、以前いじめられていたという某アイドルによるものだ(細かい語尾などは違うだろうが、主旨の面では正しいはずだ)。そしてこの発言に対して、あの太田光も、涙を浮かべながらウンウンうなずいていた(ここ一番でウルウルするのは、彼の常套手段である。相変わらず浅ましい)。前回の記事で批判した、スマスマのいじめ特集でも、スタジオの百数十人の子どもたちにも、「いじめられる方にも問題はあるか」という質問が投げかけられたし(そして義家もお約束のように激怒したわけだが)、2chの実況スレでも、以下のような意見があった。実に象徴的な意見だと思うし、このテーマは、いじめを考察する一つのポイントになるだろう。
653 名前:名無しでいいとも! 投稿日:2007/01/08(月) 23:44:17.54
いじめられてるって訴えたら「お前にも原因があるんじゃないのか?」
ってなにもしてくれない先生も義家先生も同じ。
イヤだ、って自分でいわなきゃとか正論を言って終わり。泣けばいいとか、ちゃんとうったえなきゃダメだとか。
けどさ、これって遠回しに「言わないor言えない私らが原因だ」って言ってるようなもんだよ。私からすれば、この先生と過去の担任どもとの違いは
お前にも原因があるんじゃないの?って口に出すか出さないかの違いだけだよ。
そしてそんなこと十分わかってるよ。※3段目の「この先生」とは、義家のことだと思われる。
662 名前:名無しでいいとも! 投稿日:2007/01/08(月) 23:47:48.68>>653
「言うっきり」なんだよね
その後の職を失ってでも守る!という気概が無いという意味では
そういう先生はいじめに荷担してるも同じ
この意見は、おそらく義家や「何もしてくれない」学校の先生を批判しているものだと思う。そういう前提で読めば、この人は、何に対して怒っているのかが見えてくる。それは、「いじめられている方にも問題があると考えることはいやだ」という思いである。
しかし、こういう思いは、「それだけ追いつめられているのだなあ」という、「どうにもならない感」は伝わってくるが、落ち着いて考えてみると、ある大切な前提を忘れている発言であることもわかる。それは、
子どもでも大人でも、「完全無欠な人間」などいない
という前提である。この前提に立てば、いじめられている方にも、周りから嫌悪感を持たれた原因はあったかもしれないのだ。ただし、だからといってその子がいじめられるのも仕方がないと言っているわけではないことに注意してほしい。
自分にも、周りから嫌悪感を持たれた原因はあったかもしれないと考えることは、実は「自己を相対化して考えること」の一つである。いじめに遭っていない大人でも似たようなことを考えることは多々あるだろう。「自分は、周りから浮いていないだろうか。どうすれば対人関係はもっと良くなるだろうか。そのために自分ができることは何だろうか」ということ、例えばそういうことである。そのぐらいの軽い気持ちで、自分にも至らない点はあったのかもしれないと考えてみることで、逆に「自分がいるこの学校やクラスは、今の私のキャパでは『つきあえない』ので転校する」という決断が、より軽くできるようになるのかも知れない。←私は、塾と比べて学校でのいじめが格段に多い原因の一つは、学区によってこの学校に行かなければならないという「所属集団の固定化」により、今所属しているクラスや学校からはじかれると生きていけないという「後がない感覚」であると考えている。小中学生の転校が行いやすくなれば、短期的にはいじめによる痛ましい事件は減るだろう。
子どもでも大人でも、「完全無欠な人間」などいない
という前提は、いじめる側を再教育するときにも役立つ。「むかつくから」「空気が読めないから」「人に迷惑をかけるから」など、親がバカなせいで、実にいろいろなきっかけでいじめが始まるようになったであろうが、
例えば、
「むかつくから」…お前は誰からもむかつかれないのか?なぜそんなに自信があるんだ?
「空気が読めないから」…お前はどんな集団でも空気が正確に読めるのか?今オレが考えていることを読んでみろ!
「人に迷惑をかけるから」…お前は誰にも迷惑をかけていないのか?本当に迷惑をかけていないのか?
という問いかけを、いじめている側に、しつこく、具体的に繰り返すことで、いじめる側にも「他者の視点で周りを見る」という能力が少しずつ身につく(やりはじめはきついだろうが、いじめられている側の心の痛みの比ではないだろう)。今の親がバカだと言われる側面の一つは、親が子を教育していく過程で、「他者」の視点で周りを見させる作業が決定的に欠けている点である。
電車内で傍若無人に振る舞う子どもを笑顔で見守っているバカ親、
エレベーターや電車などで、人が降りる前に強引に乗ろうとする子どもを止めないバカ親など、
子どもに「がまん」をさせない親が増えているが(私の実感でもそうである)、「がまん」とは、特にそれが社会生活における「がまん」であるならば、「他人なら自分の行為をどう思うか」という「他者の視点で周りを見る」訓練の一つなのだ。家庭教育でそれをしっかり行えておらず、かといっていじめを放置すると痛ましい事件になりかねない、ということであれば、社会的な意味での「がまん」を教えることは、いじめを予防するための、学校での最重要教育ポイントであるという結論になる。(※1)理想はさておき、現状はこうなのだ。
授業が始まるときには、子どもたちをしっかり席につかせる。そういうところから、いじめ防止(あるいは軽減化)は始まるのだ。決して、そういう作業を「子どもにストレスを溜めるもの」などと思ってはならない。
「そんなことはわかっている。威張ってるんじゃねえ」などと読者が思うのであれば、なぜ「いじめられている方にも問題はある」という発言をタブー視するのであろうか。矛盾の極みである。こういう発言をタブー視する輩は、
「いじめられている子は100%の被害者で、何の落ち度もない。したがって、必ず100%『おまえは正しい!』と肯定してあげなければならない」
という前提に縛られている証拠である。子どもがいくらいじめられていようとも、この前提を受け入れる必要はない。そればかりか、この前提を受け入れてしまうと、自分のことを守ってほしいと思う子どもは、どんなにわがままであっても、
「私はいじめられている!」
と訴えさえすれば、100%の保護を受けられると勘違いするバカ生徒が激増する危険性もある。おそらく、現場の先生が困っている点の一つがここであろう。周りから見るとただのわがままなガキなのに、先生がちょっと注意するだけで
「先生がいじめるのか!」
などとすごむバカガキは決して少なくないはずだ。そしてそういうバカガキに限って、親がうるさく教育委員会などに強硬に申し入れようとする「筋違い系」のバカ親だったりする。
賢い読者ならおわかりだろう。この構造は、他ならぬ、同和利権と同じなのだ。「私は同和出身者だ」と言いさえすればさまざまな保護が受けられると知れば、実際には違っていても、「私は同和出身者だから保護しろ」と利権をあさる連中が出てくる。これはよく考えれば簡単に予想できることで、だからこそ同和利権は固定化させてはならないのだ(※2)。これと同じことである。
ここまで考えると、タイトルにも挙げた、
「いじめられる方にも問題はあるって言うな!」という発言、
「太田総理」での某アイドルの発言、
2chでの上記のような発言、
これらは全て、曖昧な人間関係を、「100%守られる側 / 100%改めなければならない側」に分けようとすることで、守られる側が「何も現状を見直さなくて良い」と「甘える」温床を作る元となるのだ。そしてこういう図式でいじめを捉える限り、表面上のいじめは見えなくなっても、お互いのわだかまりはおそらく永遠になくならないだろう。その意味で、ダメダメな言説であるという結論になる。
もちろん、第三者から見ても本当にせっぱ詰まっている状況の場合は、こういうアドバイスではらちがあかない。スマスマでもあったが、「技術の時間に頭に木工用ボンドをかけられる」レベルならば、いじめる側に程度の概念がハッキリと欠けているという意味で「非常事態」である。このような場合には、私は積極的に学校に警察を入れることで、「このような事実があった」ということを明確に残すべきである。こういう意味で、私はいわゆる
「学校は教える場所であって警察ではないから、犯人捜しはしませんよ」
的な立場には絶対に立たない。事実を事実として保証する意味において、いじめ関係に関しては警察を積極的に学校に入れる必要があると考えている(※3)。
さて、めずらしくまとめておこう。こういう言い方が、一人でも多くできるようになるといいねということだ。
「いじめられる側にも問題があることがある。しかし、だからといって、その子がいじめられていいというわけではない。
(じゃあどうすればいいの?)ひと言では言えない。ケースバイケースで一つずつ対応する。
ただ、社会的ながまんを身につけさせることで、イライラに対する耐性をつけることは大事だよね。」
実に簡単であるが、こういう発言がもっと自由にできるようになることで、いじめを巡る「言葉狩り」が少しでも和らぐことを期待したい。
ここまでの考察では、「周りに迷惑をかけること」についてじっくり扱っていない。私は「空気」という言葉にもかなり懐疑的だ。バカ親が増えることで、このこともしっかり考えなければならなくなっていると私は考えているが、稿を改めることにする。
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※1 この点で、「がまん」を軽視し、「個性」という言葉を結果的に「わがまま」とオーバーラップさせた、当時の文科省の役人であった寺脇研をはじめとする「ゆとり教育推進派」、そして、「ゆとり教育ってよくわかんないから、要するに『勉強ができないことも個性』という認識でよくね?」という理解不能の地すべりを引き起こした現場の指導者や教員たちの責任は極めて重い。寺脇などはなぜか「朝ズバ」でコメンテーターとしてシャアシャアと社会現象を論評しているが、この人間自身がゆとり教育を総括しない限り、この人間にそういう資格はないと考えている。
※2 もちろん、同和という発想自体を否定しているわけではない。血の気の多い読者は要注意だ。
※3 簡単に言えば、先生が事実をあいまいにしたり、先生だけが「これが事実です」と言っても、加害者側は納得しない可能性が高いから、きっちり「これが事実だ」と保証する存在が必要だということである。











