思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ジョナサン・ノット指揮 マーラー交響曲9番は、多色多面的で、21世紀の名演奏。

2017-01-01 | 芸術

 
 マーラーのモチーフの一つひとつがクリアーに立ち現れる。その色模様の美しさに息を飲む。変幻万化する多色の世界は唖然とするほど見事、けれど、その色や音の当たりは、どこか柔らかい。そこが超絶的なクレンペラー指揮による原色的多彩とは違い、近しく温もりのあるのがノットのマーラーだ。

 小沢・サイトウキネンでは、切々と朗々と歌われ見事な合奏として音化されるのは生(なま)の感情で、終曲の「死」は、親しい者の死の悲しみを共に悲しむかごとき。感情移入の世界だ。しかし、それでは日常の言葉や態度では届かない「精神世界」を顕現させることはできず、マーラー第九の音楽の真髄には届かない。それを痛いほど分からせてくれるのはクレンペラーの演奏だが、ノットの温かみのある演奏でも、はやり人間の感情は生ではなく、音楽次元のもので、明確にニ次化(高次化)されている。

 ノットによる第四楽章=「死」との面接に伴う観念や悲しみは、完全に透明で、人間的な優しさは感じるが、それは生(なま)の感情ではなく、高次化された音楽世界のもの。小沢は、感情が昇華されずにそのまま残るので、音もマスになり濁る。朗々したすばらしい合奏は、しかし形而下の世界だ。斎藤秀雄という稀にみる天才指導者による長い感動的なドラマの末に、信じられぬほどの力を身に付けた小沢・サイトウキネンをもってしても届かない、高度な音楽がもつイデア=精神の世界に。

 もちろん、欧米でもカラヤンのように内的湧出としてのイデアの表現ではなく、分かりやすく聴衆を楽しませる帝王もいるが、わたしは、それでは物足りない、否、嫌だ。いま、カラヤンのブルックナー9番をかけたが、あまりに外面的でつくりもの、軽々しく、かつ、騒々しく、なぜ彼がクラシック音楽のビッグネームなのか、わたしには全く意味不明で頭がおかしくなりそう(笑)。

 話をノットのマーラーの9番に戻す。
この演奏の面白さ=素晴らしさは、めくるめくような場面の変転と多彩さで、これは、凄演のバーンスタインにも、魂の深みのバルビローリにもない全く独自の世界だ。マーラーの神経症的な「死」への恐怖感に基づく交響曲としてではなく、もっと余裕感のあるエロースの音楽として演奏していて、実に面白い。

 求心力をもって聴く者を引きずり込むのではなく、まるでオペラか歌舞伎のように場面が変わる。演者が見えを切るような場面もある。その色の変化が見事で楽しいのだ。多色多彩の万華鏡のよう。だから繰り返し何度でも聴きたくなる。「死」の世界に投入されるのではなく、死の観念もまた静かに眺め、想うことのできる音楽だ。これは、やはり21世紀ならではの演奏で、20世紀の名演奏とは意味が異なる。ノットの形而上世界の趣は、微妙な色模様の綾なす艶やかなもの。ラストの死を想う切ない場面、ヴァイオリンの音色が濃やかに変化し続けるのにはウットリと聴き惚れてしまう。すべてに余裕感があり、迫力はあるが激することはなく、世界が豊かで大きい。

 独創的なのにオーソドックス。知的で多色多面的かつ情緒豊かな新しいマーラーの9番の登場に大きなよろこびを持つ。ブラボー!ノット。

録音は2009年で、国内発売はされていないもよう。SACDとCDのハイブリット盤で2枚組・1900円(輸入盤なので変動あり)。オケは、ノットの手兵 バンベルク交響楽団。

 


 (それにしても、東京交響楽団は凄い指揮者に惚れられたものー前途洋々。日本最高ではなく、世界有数のオケになるかもと期待)

 


武田康弘

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2017年あけましておめで... | トップ | 自己存在についての「悟り」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

芸術」カテゴリの最新記事