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織田作之助 【回想録】伊吹武彦・宇野浩二・小笠原貴雄・織田昭

2009-05-07 06:55:23 | 調べもの文庫(オンデマンド:文芸)
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織田作之助 

【回想録】伊吹武彦・■■浩二・小笠原貴雄・織田昭子・河原義夫・■■安吾・■■治・■■宏・■芙美子・■■恒夫・■■正晴


小説家。■■2年10月26日~■■22年1月10日。■■市南区生玉前町に生まれる。昭和6年、三高に入学するも■■を繰り返し、昭和11年に■■。はじめ劇作家を志すが、やがて小説家へ転進し、大阪の新聞社に勤めながら作品を発表し続ける。「俗臭」(昭和14)、「夫婦■■」(昭和15)により新進作家としての地位を確立。大阪の下町に生きる人々を描き、短編の名手として活躍した。昭和16年、長編小説「■■の逆説」を発表するも、風俗紊乱のかどで発禁処分。戦後には「世相」(昭和21)、「競馬」(昭和21)など、混乱した当時の世相を活写し、【■■派】の代表的作家の一人となる。また、【■■直哉】に「きたならしい」と評されたことに反発し、評論【「可能性の■■」】(昭和21)などにおいて伝統的私小説を批判した。昭和22年1月10日、肺結核により死去。享年33歳。代表作は「夫婦善哉」、「青春の逆説」、「六白金星」、「世相」、「可能性の文学」など。

〔リンク〕
織田作之助@フリー百科事典『ウィキペディア』
織田作之助@文学者掃苔録図書館

【著作目録】
【小説】 : 発表年順
【エッセイ・その他 】: 発表年順
【回想録】


【回想録】
 織田作は昭子夫人のことを「オバハン」と呼んでいた。彼はとりわけ彼の「オバハン」から「気イ」つかってもらいたかったにちがいない。というのは、ある日、これもまた世界文学社で、こんな光景をわたしは目撃したからである。
 織田作は『土曜夫人』の原稿を書いていた。新聞社の使いが夕方五時には取りにやってくる。いま午後三時半。織田作はイライラしながらペンを動かしているが筆はいっこうに進まない。
「オバハンどこへ行きよったんやろな」とじりじりしている。昼過ぎから買い物に出かけた昭子夫人が予定の三時になっても世界文学社へもどってこないのである。三時四十分――やっとオバハンは買い物包みをさげて帰ってきた。
 織田作は、怒る――というよりは、むしろ訴えるような声で、



【52字省略】【後略】=ブログ 文字制限=壱万字のため



「すんまへん」
 二人のやりとりはそれですんだ。だがわたしの気持のなかには、それだけでは終わらないものがあった。わたしはふと『夫婦善哉』を思いだしていたのである。
 むろん織田作は『夫婦善哉』の柳吉のような「ぐうたら」ではなく、昭子夫人は、蝶子とはおよそかけ離れた人柄だろうと思う。しかしわたしは、蝶子を「頼りにして」いる柳吉の物語をそのときふと(これは織田作の愛用語)思い浮かべたのである。

伊吹武彦「織田作の“気ィつかい”」
昭和45年2月




【回想録】
 私は、織田には、二年ほどあいだをおいて、二度しか、それも二三時間くらいしか、あわなかったけれど、二度とも、私には、わらうと、顔じゅう皺をよせるような笑いかたをした、その織田の笑い方も、話しだすと、そのはなしが、長くても、みじかくても、しまいまで立てつづけに話した、その織田の話し方も、はなしながら、しじゅう、からだをゆする癖のある、その織田のからだをゆする癖も、名作『六白金星』のなかに、「市電で心斉橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパアを買ひ」というところがあるが、その織田ごのみらしい、ジャンパアをきて、去年(昭和二十一年)の秋のすえのある日の晩、私が、上京すると、いつも、とまっている、森川町の、下宿屋のような宿屋の部屋に、その、よくにあう、ジャンパアをきた織田の姿も、(織田がなくなってからの殊更の感想でなく)やはり、どこか、さびしそうに、ものがなしそうに、たよりどころのない人のように見えた。
 そのとき、織田は、東京にすんでいる、したしい友だちと一しょに、たずねて来たのであるが、織田が、「これから築地の宿にかえります」といいながら、玄関で靴をはき、私が、みをくりながら、「その外套ではもうさむくはないですか」というと、「ええ、しかし、きてきたままだすよってに……」と、からだをゆすりながら、例のさびしく見える笑い方をしたが、その横に友だちが立っていたのにもかかわらず、私のほうをむいて、おじぎをした、織田のジャンパアをきた姿は、くらい玄関のタタキの隅であったから、というだけでなく、やはり、『ひとり』という感じと、それからくる、『さびしい人』という感じが、私の心をうち、私の目をうるませた。
 そういう姿の織田が、私のとまっている宿屋のまえの、ほそい道を、くらい中を、あるいてゆく姿を、見おくったのが、私が織田を見た、最後になったのである。

宇野浩二「哀傷と孤独の文学」
昭和22年4月


【回想録】
 私が織田作之助の名前を知ったのは改造の文芸賞である。記憶に強く残ったのは、宇野浩二さんか誰れかが、選後、たうとう大正生れの作家が出た、と云はれたからである。自惚の強い文学青年の例にたがはず、私は其言葉を読んだ時に、え、糞、先を越されたか、と口惜しかったからである。(中略)
 織田さんの奇行に就ては前から柴田に度々聞いてゐた。放送局で猿飛佐助を放送した関係からある流行歌手と結婚し、その歌手の家に住んだ。所が織田作之助は生れてから歯を磨いた事がないので恐ろしく臭い、おまけに好色で、昼夜を取違へてゐる作家生活なので、たうとう歌手の所から飛出しか追ん出されたのか、それからは京都の新京極の宿屋にゐる、勿論、荷物も異動申告もおきっぱなし、と云ふわけである。このあたりはいずれ柴田がくはしく書くであらうが、とにかく私と柴田が宿へ行ったのは六月の終りの正午に近い頃であった。案内を乞ふと恐ろしく肥って唇の真赤な女中が出てきた。私と柴田は早速女中に全身生殖器といふ仇名をつけた。後で何かの拍子にこの言葉が出ると、「あゝあのでぶか」、と織田さんも即座に判った様子であった。
 暑くるしい応接間で待ってゐると、寝巻であらうよれよれのゆかたで、ばっさりと長髪が肩迄たれかゝり、眼やにをいっぱいにつけた寒竹のやうにひょろ長い男がのそっと這入ってきた。織田さんである。最初はひどく無愛想だった。しやべると歯が真黄色で、煙草を唾でベトベトに濡しながらもみ潰すのが癖であった。東京の出版屋は部数が多くないので、とか、世相、競馬は昨日八雲にきまった、と云ふやうな話をした。結局私の方へ妖婦を貰ふ事になり、一緒に外出する事になった。

小笠原貴雄「織田作之助さんのこと」
昭和22年8月




【回想録】
織田 太宰さんとは織田と一緒にずいぶんお会いしました。酒場のルパンなんかでよく待ち合わせたりして。それに織田が亡くなってからも、何度か太宰さんのところへは伺ったりしたんです。太宰さんて方は、何となく織田と似てるところがありましてね。ものをしゃべるときのちょっとした間のとりかただとか、それからどこかへ連れて行くときのタイミングだとか、とても似てましたね。第一、体格が似てますでしょう。背が高くて痩せていて、青っぽくて。ですから、わたくし、太宰さんにはわりかし抵抗なしにお話できました。
檀 太宰はおとなしい。静かということはないんだけれども、かれの場合もまた体力がないわけですね。
織田 だから、太宰さんと織田と話していると、両方とも同じ病気でしょう。それで両方とも相手をかばうような形で、とっても静かなのよ。それにふたりともほんとにやさしい人でしょう。なんか似かよっているんです。全然ちがいますけれども、似てるのよね、すごく。話しするときだって、大きな声は絶対に出さないんですよ。(中略)いつもささやくような声でね。激するなんてことないわね、絶対に。はしゃぐことはあったけど……。
(中略)
檀 織田作さんが本郷にいたころの思い出話なんか、聞いたことありませんか。
織田 織田は変わったひとっていうか、不思議なひとで、過去のこと、むかしどうだったとか、どうしたとか、わたくしは、あのひとの思い出話って一度も聞いたことないんですよ。子どものときのことから、大学生のときから、お友だちとの関係なんか含めて……。
檀 その点は安吾さんも思い出どころか、前の日のことだって言わない。言わないというよか、もうわからない。目前目下のことしかわからない。
織田 二、三日さきのことぐらいまでは織田は言いましたけれどね。それよかさきのことはもう言わない。

織田昭子(註、作之助の妻)・檀一雄ほか「夏の夜の打明け話」
昭和44年11月
【回想録】
 織田作之助が、異情児だったといわれるだけのこともあった。私とのつきあいでは、編集者と作家というよりも、同年配であり、『新文学』の編集にともに苦労をかさねながらも、私が小説勉強会というのをつくり、下手な小説を書いては持って行くと、煙草の吸ガラを灰皿に山とつみあげた机の前で、徹夜したあげくか、赤くした眼をカッと見ひらき、コーヒーをすするように飲みながら、その人懐つこさ、気の弱い善良さをむき出しにして、原稿用紙の一字一句行間にいたるまで懇切に評してくれた織田であったが、暴力をふるって、一枝と争ったこともあったように、昭子にもその手をもちいて、近くの遊び友だちの家に走らしたことも度々あったのだ。他人の思惑などおかまいなしに、遮二無二自分の思いどをりに進もうとする、反逆の精神の片鱗のようなところを、家庭内でも見せていた。
 愛妻一枝の面影――その遺体に取縋って、悲しみのあまり声をあげて、男泣きに泣いた織田が、その涙の消えやらぬと思われるのに「アコが居らへんかったら、何も出けへん…」と溺れて行き、昭子が織田の家に来て一年もならずに、笹田和子との結婚挨拶状を友人知己に送って、アッといわせた、無頼な織田作之助、
「アコはもう、壁のシミみたいなもんになったさかい、別れよ」
 その言葉を残し、北野田の家からさっさと笹田和子の住む宝塚に移って行った。
 文学への情熱が、「大阪と文学を語る」座談会のときにも言った、破天荒な小説を書く、その結実より先に、破天荒な恋愛の乱れ咲くことをねがったのだろうか、文学にも恋愛にも、ぢっくり腰を据えていられない、後から後から、何物かに追っかけまはされる、織田作之助が持つ、天来の放浪性、孤独、寂蓼、虚無がなせる業であったのか、……

河原義夫「逆説か、反逆か」
昭和42年6月



【回想録】
 織田のヒロポンは毎日だから、ひどかった。毎日ヒロポン、仕事、遊び、ヒロポン、仕事という順序で、くぎりがないから不健康だ。織田のヒロポンは注射だが、私は注射は好まない。第一回目だけ、よく利く。打ったとたんに頭が澄んでくるから、バカにきくように思えるけれども、一時間もすると、ぼやけてくる。二本目を打つ。もう、さほど利かない。
 飲む方はすぐは利かぬが、効果が持続的だから、私のように、仕事は仕事だけまとめてやるというやり方には、この方にかぎる。どうしても飲みすぎて、顔色はそう白となり、汗はでる、動きはうつ、どうもいやだ、もう飲みたくないと思うけれども、仕事の無理をきかせるためには飲まざるを得なくなってしまう。
       ★
 新潮と改造の新年号の小説の時はひどかった。どつちも、まる四日間、一睡もしていない。そうかといって、書き上げても、酒を飲んででい酔しなければ眠ることができないので、ええママヨ、死んでもいいや、と思って、銀座のルパンヘウイスキーを飲みにでかけたものだ。あの日の心臓の動きはひどかったので、途中でブッ倒れるような気がして、仕方がなかったのである。
 その日、織田が昨日かっ血したということをきいたのである。石川淳がめいていしていて、織田はかっ血したから好きだ。かっ血する奴はみんな好きだ、死んでしまえば、なお、好きだ。と、石川式のことを叫んで立上ってフラフラしていた。

坂口安吾「反スタイルの記」
昭和22年2月





【回想録】
 京都で火の会の講演があったとき、織田は客席の灯を消させ、壇上の自分にだけスポットライトを当てさせ、蒼白な顔に長髪を額にたらして光の中を歩き廻りながら、二流文学論を一席やったという。
 こういう織田の衒気を笑う人は、芸術に就て本当の心構えのない人だろう。笑われる織田は一向に軽薄ではなく、笑う人の方が軽薄なので、深刻ヅラをしなければ、自分を支える自信のもてない贋芸術の重みによたよたしているだけだ。
 先頃、織田と太宰と平野謙と私との座談会があったとき、織田が二時間遅刻したので、太宰と私は酒をのんで座談会の始まる前に泥酔するという奇妙な座談会であったが、速記が最後に私のところへ送られてきたので、読んでみると、織田の手の入れ方が変っている。
 だいたい座談会の速記に手を入れるのは、自分の言葉の言い足りなかったところ、意味の不明瞭なところを補足修繕するのが目的なのだが、織田はそのほかに、全然言わなかった無駄な言葉を書き加えているのである。
 それを書き加えることによって、自分が利巧に見えるどころか、バカに見えるところがある。ほかの人が引立って、自分がバカに見える。かと思うと、ほかの人がバカに見えて自分が引立つようなところも在るけれども、それが織田の目的ではないので、織田の狙いは、純一に、読者を面白がらせる、というところにあるのである。だから、この書き加えは、文学の本質的な理論にふれたものではなく、ただ世俗的な面白さ、興味、読者が笑うようなことばかり、そういう効果を考えているのである。(中略)
 織田のこの徹底した戯作根性は見上げたものだ。永井荷風先生など、自ら戯作者を号しているが、凡そかかる戯作者の真骨頂たる根性はその魂に具わってはおらぬ。東綺譚に於ける、他の低さ、俗を笑い、自らを高しとする、それが荷風の精神であり、彼は戯作者を衒い、戯作者を冒涜する俗人であり、即ち自ら高しとするところに文学の境地はあり得ない。なぜなら、文学は、自分を通して、全人間のものであり、全人間の苦悩なのだから。

坂口安吾「大阪の反逆」
昭和22年4月
【回想録】
 織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。
 しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
 死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当たらない。いよいよ、くだらない世の中である。
 世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言うな!
 きのう読んだ辰野氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のようなセナンクウルの言葉が録されてあった。
「生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家が時には僕を死の前にさらしたり、死に赴かせたりするのだ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」
 織田君を殺したのは、お前じゃないか。
 彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
 織田君! 君は、よくやった。

太宰治「織田君の死」(全文)
昭和22年1月
【回想録】
 私はこの頃の織田作之助のことを知っている。彼は結核のため非常にやせていて、学校を中途退学したため職業につけず毎日ぶらぶらしていたのだ。将棋倶楽部に行っていたかどうか、そのようなことはしらないが、すぐその近くにあった私の母の店にやってきたことがある。やって来たというよりも、道で出会ってつれてきたという方がほんとうだろう。私は余りくわしいことはきかなかったが、現実主義の大阪で、若いものが病気のために働けず、毎日ぶらぶらしていると、どのような眼でみられるかということはよくわかっていた。大阪の社会はジカにそのような青年の上に、のしかかってくる。私は戦後東京にでてきて考えたことは、東京には出版社、印刷所などのような、所謂文化産業とでもいえるものがあり、その所が大阪とちがうということである。それだけなおそこには、若くて病身でぶらぶらしているとみえる若いものを、いれる余地が大阪よりも少しばかり余けいにあるのである。もちろん戦後の独占資本はきびしく、そのような余地を東京からもとり去ろうとしているということははっきりしているが、大阪の社会が文学を心にもってすすもうとする人間にジカにのしかかってくるということをとりださなければ、織田作之助の文学をとくということはできないだろう。

野間宏「現実主義と反逆の魂」
昭和30年9月



【回想録】
 織田作之助と云ふ作家を想ひ出すたびに、私は、眼の底に熱いものがこみあげて来るやうな哀愁を感じる。死の前の数年と云ふものは、まっしぐらに作品がきらめき渡り、これほど大阪を描き、大阪の庶民の生活を愛情こめて描いた作家はないと思ふ。文学と云ふものを酒にたとへるならば、これほど、文学の酒に泥酔しきって身をほろぼしてしまった作家はまれであらう。この泥酔のなかにのみ、彼は生甲斐を感じ、家を持たずに最後も亦旅空でこの泥酔の為に酔ひ死にしてしまった感じである。――昭和二十一年の暮に、読売新聞に土曜夫人を書き、その中ばで織田作之助が上京して来た。私は或夜織田夫妻の来訪を受けて、始めて織田作之助と云ふ人間に接した。思ひやりの深い、心づかひのこまやかなひとで、その夜の話は初対面ではあったが案外はずんだ。
 二度目は銀座裏の旅館で血を吐いて静かに寝てゐる織田作之助であり、三度目は、病院のベッドであり、四度目は織田作之助の死顔との対面であった。あまりに呆気ない交友ではあったけれども、死の迫ったのを聞いて、カンフルや、サンソ吸入を探しまはる役目を、まだ一度も織田作之助に会った事もない私の良人が引きうけるまはりあはせになった事も因縁と云ふにはあまりに不思議である。その頃は、終戦間もなくて、薬さへも不自由な時代であった。だが、織田作之助にはもう生きる力がなかった。生命までも空転して逝ってしまった。私は地だんだを踏んで惜しい作家を亡くしてしまったと思った。ロマンを、新しいロマンを口走ってゐたと云ふ彼の忘念がぐるぐるとそこいらに舞ってゐるやうな息苦しいものを、私は彼の作品に接する度に思ひ出すのである。

林芙美子「織田作之助について」
昭和24年2月


【回想録】
 そう言えば、まだ新聞社に籍を置いていた頃、同僚の一種の正義派型の硬骨記者が、織田を見つけたら殴ってやると言って、彼をつけ廻しているという噂が流れたことがあった。これは根も葉もない噂ではなかったらしく、程なく彼が新聞社を辞めたのも、一つには同僚追跡を避けるためだったとも言われているが、事の起りは、織田が同僚の美人記者を口説いたのを知って、その同僚が、
「あいつ、恋女房があるのに、他の女を口説くとは怪しからん」
 と、硬骨漢らしい義憤を発したことにある。
 織田が彼女を口説いていたのは事実で、ある日、その婦人記者が私を訪ねて来て、
「織田さんに困っています。どうしたらよいのでしょう?」
 と相談を持ちかけた。彼女の話によると、織田があまり熱心に言い寄るので、
「あなたには奥さんがあるじゃないの? 奥さんと別れてくれる?」
 と彼女が逆襲したら、織田は彼らしい我武者羅な論理で、
「いや、家内とは絶対に別れない。僕は彼女を愛している。しかし、君も愛している。どうしても君がほしい」
 と言ったので、彼女は、
「そんなん勝手すぎるわ」
 と、一応受け流したと言うのだ。
「ね、どうしたらよいでしょう?」
「そんなこと、君自身が判断することで、まあいい加減にあしらって置いた方が無難やないか」
 そんなことで彼女は帰って行ったが、このエピソードにも、織田のいくらかヨタな我武者羅さがよく出ているように思われる。

藤沢恒夫「織田作之助の人と作品」昭和45年3月


【回想録】
 その頃、織田は劇作に夢中で余り学校へ出ず、一方わたしも詩作に夢中でこれも学校に出ず、三年と一年では校舎もはなれているし、織田と出くわした覚えが全然ない。しかし、翌昭和九年頃、誰かから織田作之助がカフェの女と同棲している、だから、彼はいつも身綺麗にしているのだという噂をきいたことがあった。

【後略】=ブログ 文字制限=壱万字のため
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■■■■■■■で、彼のところだけ日の光も届かぬといった感じですらあった。

富士正晴「私の織田作之助像」
昭和45年4月


昭和6年 昭和15年 昭和21年



[編集] 文学部を持つ日本の大学
[編集] 国公立
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