学校建築の部屋

建築探偵「大成丸」のライフワークである学校建築の研究ファイルです。

松本高等学校(その3)

2005年12月18日 17時41分52秒 | Weblog
松本高等学校跡は、その後公園として整備され、さらに今では全国の旧制高校の資料を集めた「旧制高校記念館」が旧本館の背後に併設され、とてもよく保存されている。

ひとつ不満があるとすると、有名な旧思誠寮が保存されなかったことであろうか。
保存運動の発端は、松本高等学校最後の入学生で、後身の信州大学文理学部の第一回生でもある映画監督の熊井啓氏が、久しぶりに母校を訪問し、信州大学の統合移転のため本館に隣接していた図書館がすでに撤去されていたのにおどろいたことに由来すると聞いている。
このときも、また、私が最初に訪れたときもまだ思誠寮(東寮)はグラウンドの脇に残っていたのであるから、これはぜひ保存してもらいたかった。

いま、この写真のあたりはブロックが敷かれ、何のへんてつもないカラの駐車場になっており、そこに寮があったことを想像するのは困難である。寮生たちが「あがたの森」を抜けて毎日(?)学校へ通った姿は、大正から昭和の松本の風物詩だったはずであり、それがみすみす失われたというのは、画竜点睛を欠く話である。

かつて松竹で、山口高等学校OBの山田洋次監督が、松山高等学校OBの早坂暁氏の「ダウンタウンヒーローズ」を映画化したが、当時の寮は現存するものがないため、セットを作って大変だったという。しかし、山口、松山、松本の各校は同じ中橋プランで作られた同系統のキャンパスであった。したがって、もし松本の思誠寮が公園の一部として残せていたら、この映画のロケもより簡単にできたはずでもったいない話である。

(つづく)

松本高等学校(その2)

2005年12月11日 21時50分12秒 | Weblog
松本高等学校は、大正期につくられたいわゆる「ネームスクール」である。「ネームスクール」とは、明治期に創立された第一から第八までの8つの旧制高校、いわゆる「ナンバースクール」に対比される言葉で、校名にそれぞれの所在地の地名を冠していることからそう呼ばれる。一説には松本と同時に設置の決まった4校のうち、どこが第九高等学校なのか設置県同士で議論になったことから、「じゃあこれからは地名で」となったらしい。

それまでの旧制高校各校が、猛烈な誘致合戦の結果全国の5つの学区を前提に各地方ブロックごとに一校ずつ作ってきたのに対し(関東=第一、東北=第二、関西=第三、北陸=第四、九州=第五、中四国=第六、明治維新の戦勝国薩摩=第七、東海=第八)、大正期の高校は第一次世界大戦による未曾有の好景気を背景に、各地で一気に高まった進学熱を背景に、短期間に大量に作られたのが最大の特徴である。

大正期の高等教育の大衆化は、大正デモクラシーと無縁ではない。選挙権の拡大により、大衆の意見が政治にも反映されるようになったのである。「各県1校」というわかりやすいスローガンを合言葉に、官立の高等学校、高等商業学校、高等工業学校といった官立の高等教育機関が各地に新設され、それまで東京か中核都市に出て行かなければ受けられなかった高等教育が、地元でも受けられるようになった。
それを推進したのは大阪商船社長から政界に進出した中橋文部大臣。
原内閣が、深刻化を増してきた受験地獄の解消策として打ち出した策だが、これによって教育機会が拡大し、進学熱はさらに高まることになる。


中橋文相は財界人らしく、限られた財源で短期間に大量の高等教育機関を新設するため思い切った手を打ち世間をあっと言わせた。すなわち、新設にあたっては地域同士の誘致合戦を煽って、その結果として引き出される地元からの多額の寄付金を財源にするのである。これと「中橋プラン」と呼ばれた独特のキャンパスプランが両輪であった。
ドイツ風下見張り木造二階建の校舎と、正面の前庭を排して直接本館を道路につなげるユニークな構造により、学生数が1学年150名に対して必要な敷地面積を1万から2万坪程度と、明治期のナンバースクールの半分以下に抑えた。これにより建設コストを極限まで抑えるとともに、学校を象牙の塔ではなく、市民から身近な存在にするという効果もねらっていたという。この時期に作られた全国の高等学校、専門学校が殆ど同じ構造であったが、新制の国立大学になってからキャンパスの統合移転がさかんに行われたため、現在でも原型をとどめているのは数校である。

(つづく)

旧制松本高等学校

2005年12月04日 21時38分03秒 | Weblog
北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」の舞台となったのがこの建物である。
建築探偵は、昭和52年の晩秋に生まれて初めてこの建物を訪れた。
写真は、そのときに買ったばかりの愛機「オリンパスOM-1」で撮ったものである。
その前夜、梅田で大学の同好会の忘年会に出て、そのまま国鉄大阪駅のホームに向かった。
大阪発の夜行急行「ちくま」に乗るためである。
客車の青いボックス席に腰掛け、当時「週刊朝日」に連載中だった「青春風土記 旧制高校物語」の単行本第一巻と、夏に読み終えた「どくとるマンボウ青春記」の文庫本とが旅の相棒だった。

初めての信州。初めての夜汽車の旅・・・。雨上がりの早朝、まだ暗がりの中を、地図も持たずに本の記述だけを頼りに重いカメラバックを肩にかついでてくっていたわけだが、気持ちはみょーに高揚していた。そして、小一時間後、日が昇る頃には朝もやに包まれた校舎の前に立っていた。すでに雑誌で長野県の県宝に指定され、取り壊しを免れたことを知っていたが、校舎の周囲には鉄条網が巻かれたままの、「青春風土記」で綱淵氏が書いていたとおりの状態であった。

(つづく)