小林秀雄の全集は、以前新旧二組持っていたが、引っ越しの際に古い方を処分した。その残った新版の方は、購入直後から何故か著者から心が離れ、紐解くことが少なくなっていた。しかし、プルーストからフローベール、ウルフと翻訳文学への熱中から、日本古典文学へと興味の対象が変化し、それをテーマに「日本の絵画」を描こうとしている今、気になっている小林秀雄の随筆がある。
「光悦と宗達」、この一文は、若い頃から、現代に生きる画家として問題を突き付けられているようで、忘れられないものだった。しかし、今、読み直してみると、以前よりその問題が増えて見える。
不当に無視された「古今」「新古今」の形式美は、現代に於ける形式の混乱に、無言の復讐をしてはいないか。形式美は遂に形式美より他のものを現さぬという粗末不遜な考えの極まるところ、僕等は心の美しさも失わざるを得ないのではないか。(小林秀雄)
アルカイックを、中世美術を、持ち上げていれば「教養人」であると言うような通念から、私は万葉集を見てはいないかと自分を訝って見るべきだ。
この歌巻の表現しているものは、極まるところ、幸福というものの秘密ではないだろうか。この考えは、光の様に、僕を照らしたが、すぐ消えた。恐らくそれは、僕の不幸を照らし出したが為である。(小林秀雄)
芸術に限らず、私達は、自由と自己主張を得た引き替えに、幸福を失ってしまったのではないか。小林秀雄はこう続ける。
幸福は、己れを主張しようともしないし、他人を挑撥しようともしない。言わば無言の智慧であろうが、そういうものも亦大思想であると考える事が、現代では、何んと難しい事になったか。(小林秀雄)