原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ

――世界の潮目を知るために。

S&P社が「米国債格下げ」を発表:ついに“その時”が到来した

2011-08-06 10:58:13 | BREAKING NEWS

5日夜(米東部時間)、米格付け会社であるS&P社が米国債を史上初となる「格下げ」にすると発表した。

 

「想定内」と思われる向きもいるかもしれない。

しかし、実際には全くそうではない。

 

少なくとも私が知る限り、そもそもソヴリン・リスクについてほとんど意識してこなかった感の強い日本勢の損保・生保は言うまでもなく、システム上、米国債を「リスクフリー」として計算してきた多くのヘッジファンドを巻き込み、週明けからマーケット、さらにはそれを取り巻く国内外情勢が大混乱に陥る可能性が既に見えている。

 

当たり前の話だが、“米国的なるもの=米国債、米ドル”には週明けから大量の売りが入る。なぜならばもはやこれらは「リスクフリー」ではないからだ。これまで全く頭を使って来なかった部分で思考を重ねなければならない状況に陥った時における人間の大混乱ぶりを思い起こしてもらいたい。このインパクトはすさまじいものがある。

 

そう、いよいよ「その時」が始まったのである。

「脱アメリカ時代」の始まりだ。そしてその向こう側に一体何が私たち日本勢を待ち構えているのか??

このことを、今だからこそ冷静に考え、次の一手を素早く打つ気構え。

これが全ての日本人に求められている。―――覚醒せよ!!

 

 

「歴史的な日」に寄せて。

IISIA CEO

原田武夫記す

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【お知らせ】BREAKING NEWS 6月2日(木)掲載分:お休みのご連絡

2011-06-02 20:02:43 | BREAKING NEWS

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BREAKING NEWSですが諸般の事情により
6月2日《木》掲載分についてはお休みとさせていただきます。
申し訳ありませんが次の更新をお待ちください。
よろしくお願いいたします。

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平衡系、あるいは価値へのコミットメント〜そろそろ「政治哲学」に戻りませんか(その5)〜

2011-05-12 16:30:00 | BREAKING NEWS

IISIA 4周年記念に再開しました「BREAKING NEWS」。
本日は5回目をお送りします。

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前回のこのコラムではスピノザの説いた「神権政治」論を振り返った後、東日本大地震という未曽有の事態に襲われた現代日本政治において最も必要なのは「人知を超えた世界」と「私たちが暮らす社会」とを橋渡す能力をもったリーダーであると説いた。そして今や圧倒的な勢いで私たちが暮らす社会を覆い始めた「人知を超えた世界」に対してアクセス可能な人物をどのように選ぶことができるのか、またとりわけ私たちの暮らす日本においてそのことが果たして可能なのかどうかという問いかけを行ったところで終わった。

 

この関連で最近、とみに思うことがある。それは久野収・鶴見俊輔の手による名著「現代日本の思想」にある“顕教”と“密教”の違いである。最近ではあまりに日本の言論界でも語られなくなったような気がするけれども、この二つの伝統こそが私たちの国・日本を貫くものであり、かつ同時に冒頭で立てた問いに対する答えへの近道を示すものなのだと私は考えている。

 
現代日本の思想―その五つの渦
久野 収 (著), 鶴見 俊輔 (著)

もっとも久野収・鶴見俊輔が語る「顕教」と「密教」と、私が意図しているそれとがやや違うことも事実である。彼らは戦前日本における思想空間を分析するにあたり、国家エリートだけが知っている「本当の世界」に関する知識(例えば天皇が“人間”であるといった事実に関する知識)のことを密教といった。何故「密」教なのかといえば、旧制中学・高校・帝国大学という閉ざされた世界においてのみ、それが共有されていたからである。

 

(旧制高等学校・・・国家エリートによる栄華の時代)

これに対して「顕教」とは、一般庶民が習う知識のことだとそこではされていた。簡単にいえば「私たち日本人は現人神である天皇陛下の赤子である」といった“知”である。これはどこでもあからさまに語られることであったため、「顕」教とされた。

 

しかしここで私が取り上げたい「顕教」と「密教」はこれらとは大きく異なっている。まず「人知を超える世界」へのアクセスは、かつて天武朝の頃より陰陽寮という場で習うことのできる技術であるとされていた。しかし前回のこのコラムでも記したとおり、そうした場であったはずの陰陽寮は「文明開化」とは最も逆行するものとされ、明治維新と共に即座に廃止された。ところがその後もそこで培われた知・技術は我が国の中で密かに脈々と受け継がれてきたことも事実なのである。そのことは私たちが「陰陽」といってもピンと来ないが、少しだけ言い変えて「風水」と言うとすぐに何のことを指しているのかが分かることからも理解できるのである。

だが、「風水」「陰陽」はあくまでも密教である。そのことについて研究することが依然として確立したものとしてアカデミズムからはとらえられていないきらいがあることからも、そのことは分かるのである。「陰陽」の世界とは、要するに天と地について知ることであり、現代流でいえば地球物理学に他ならないのであるが、人はなぜかこれを忌み嫌い、避けようとする。だから徹底して「密教」なのである。

 

これに対して、「人知を超える世界」へのアクセスを徹底して拒否するところがから始まっているのが、いわゆる西洋流の合理主義的伝統なのであった。明治維新によってまずは始められたそれによる日本社会への上塗りは、第二次大戦における敗戦、そしてGHQという名の敗戦、そしてそれに伴う「米国流実用主義」による席巻で圧倒的なものとなった。つまりこれが「顕教」となったというわけなのである。

 

このことはとりもなおさず、戦後日本の教育制度、いやもっと言えば国家エリートの選抜制度において、徹底して「顕教」に対する習熟度だけが試され、「密教」については一切問われないというタテマエが取られることへと連なって行った。当たり前のように聞こえるが、陰陽寮は現在の日本の国家官僚制度においては存在しない。それは「東大地震研究所」と「国立天文台」へと分化されており、しかもあくまでも「顕教」の枠内においてだけ継受される形をとっている。その意味で日本の中にもはや「密教」は国家エリートとの間でリンケージを失い、これからも顕教による密教の圧倒という状況が続くかのように見えなくもないのである。

 

しかし、である。そのように考えるのは全くもって間違っている。ここでいう「密教」であり、「人知を超えた世界」へのアクセスを旨とする修養を行う“リーダー候補生”たちは現に日本にも存在しているのである。「まさか」と思われるかもしれない。「どこぞの宗教団体を指すのでは」といぶかしく思われるかもしれない。しかし、そうした疑念は全くもって的外れである。なぜならばそうした「密教」を伝授し、もってこの国の危うい存続を維持しようとする人的ネットワークは現に存在するのであるから。

 

実はこのことは、世事に疎いと思われがちな日本の大企業であっても最高幹部にまで登りつめた時、ようやく前任者から伝授されることなのである。知られていないのは、単にそこまで登りつめることのできる人物でなければ口伝によって知らされることが無いからである。正に「密教」の真骨頂といったところであるが、いずれにせよ徹底した秘匿主義がとられている。もちろんそのことには理由がある。

 

(さすがにここまで達観せずとも・・・いよいよ知るべきなのかもしれません)

 

事柄の性質上、詳細を語ることが出来ないのをお赦し頂きたいのであるが、端的にいうとこういうことになるだろう。−−ある物事がある場合、それを「まさか、そんなことはあり得ない」と思う人がいる。しかし必ずその裏面には、ごく少数ではあるものの「いや、そうである可能性(危険性)が高い」と考える人も確実にいるのである。大多数の人々は前者なのであるが、なぜそうなのかと問われた場合、意外にも根拠が無かったりするのである。あえて言えば「皆がそう考えているから」といって話は終わるのかもしれない。一方、えてして絶対的な少数者である後者のタイプの人々を巡る状況はもっと貧弱だ。なぜなら「大多数がそう考えているから」という理由づけすらないのであるから。しかし不思議なことに彼らの発言はあまりにも確信に満ちている。しかも常に一定の割合で、そのように「人が気付かないこと」に気付くことができる人物たちというのがいるのである。

 

ここにおいてこのコラムが問題視してきた論点へ至る道筋が見え始めてくる。そもそも東日本大地震、さらにはそれに伴う福島第1原子力発電所の被災という「現実」は“想定外”のものであった。いや、正確にいえば“想定内”だったのであるが、それを専門家たちはそのようなものではないと公然と語り、「大勢がそう信じているから」と私たちの大多数はそうした現実が無きものとして日々の生活を過ごしてきたのである。しかしその結果、大地震による放射性物質の大量拡散という「人知を超える世界」が露呈する、強烈な日常にさらされることとなる。

しかしほんのわずかではあるが、後者のタイプの人々は、徹底して言い続けてきたのである。そうした“想定外”こそ、“想定内”であり、日常となる日々がやってくる危険性がある、と。それはあまりにもかぼそい声ではあったが、確実に続いてきた声ではあった。しかもより注目すべきなのは、ある意味、趣味や価値観の問題としてこのことについて「言論」するのではなく、正に今回の「人知を超えた世界」が露呈する直前から、そうした事態への警鐘を突然鳴らし始め、警戒を呼び掛け始めた人々というのが現に一定数いるのである

 

私はここでいう「後者のタイプの人々」の中でも、とりわけ最後に述べたモデルの人々に注目している。なぜなら、後者のタイプの人々でも最初の類型の人々、すなわちpersistent objector(絶えざる反対者)はえてして権力への憧れの反対としてそうした言論を展開していたに過ぎない場合があるからだ。極小政党であり、それまでは全く歯牙にもかけられなかったイデオロギー政党がいきなりキャスティング・ヴォートを握ったため、「現実路線」を堂々と選択し、権力の座に居座ろうとするのが正にその典型である。

これに対して、ここでいう「人知を超えた世界」へのアクセスを正に必要なタイミングで行うことがどうやらできそうな類型の人々とは、仮にリーダーの座に据えられたとしても、決して「権力」に固執することなく、その役割を粛々と果たすような人物である可能性が高いように思えるのである。このようにリーダーであるということと、権力者であるということを区別する議論がえてして混在しているところに、そもそも選ばれし者が「人知を超えた世界」へのアクセスを術として知らない我が国の政界(いや、もっといえばより広く政財官を問わずリーダーシップの世界)における惨状の根源となっているように思えてならないのである。

 

それでは「そのこと」が起きる直前に“想定外”を多勢の声にもかかわらず“想定内”と言うことのできる者たち(=絶対的少数者たちであり、同時に「権力」への欲望とは無縁な人々たち)は、なぜそのような術を自ずから身につけているのであろうか。もっといえば、それは先天的なものなのであろうか。あるいはある種のトレーニングによって身につけることができるものなのであろうか。そして、「人知を超えた世界」から降りかかるであろう危険・リスクを察知するこれらの人々が、今後、「密教」という既存のフレームワークを越えて、果たして「顕教」とその地位を逆転することがあり得るのであろうか。

さらに言えば、そうした特別な資質をもったほんの一握りの人間が仮にリーダーシップをとった場合、それは私たちが今現在慣れ親しんでいる(ことになっている)民主主義という政治原則と相容れるものなのであろうか

次回はいよいよこのコラムの核心とでもいうべき問題に迫ってみることにしたい

(諸般の事情により5月19日《木》掲載分についてはお休みとさせていただきます。申し訳ございません

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平衡系、あるいは価値へのコミットメント 〜そろそろ「政治哲学」に戻りませんか(その4)〜

2011-04-28 16:00:00 | BREAKING NEWS

前回のこのコラムは、事ここに及んで全く無効になってしまった「民主主義」という地平線の向こう側に「神権政治」を巡る再解釈の必要性を示唆したところで終わった。今回はその続きということになるわけだが、予告していたとおり、いきなりスピノザの議論に入るのではなく、その大前提を議論しておくことにしたいと思う。

その「大前提」とは何を隠そう、これまでの時代はあまりにも幸せだったということである。ここでいう「これまでの時代」とは、18世紀も後半から「つい先日(Only Yesterday)」までの期間を指す。

それではなぜこの時代があまりにも幸せだったのかというと、地球全体が相対的な意味で温暖期だったからである。もちろん浮き沈みはあるものの、「温暖期」である以上、総じて人々は食べ物には困らない。飢えというものが問題になる度合いが(これまた相対的にではあるけれども)減ってくる。したがってイングルハートではないけれども、食べ物の争奪戦、あるいはそれに伴う殺し合いという歴史から、徐々に脱物質的な価値観を巡る争い(それに伴う殺し合い)の歴史へと世界史は移行していくことになる。平たい言葉でいえば「食うや食わず」という純粋な意味でのゼロサム・ゲームではなく、全体としては“食える”のだけれども「よりおいしいもの」「よりたのしいもの」を求めるという贅沢な争いへと人類の歴史は移行していったというわけなのだ。

なぜこのことが重要なのかといえば、こうした「あまりにも幸せ」な時代におけるリーダーとは、結局のところ世の東西を問わず、人知で判断できる世界のことを極力「丸く」収める資質を持っているような人物となるからだ。究極の意味でのゼロサム・ゲームでは「分配」の問題など発生しない。“ある程度余裕がある”からこそ、やれ「誰だれが多く取った」「いや取っていない」といったヒマな論争が生じるわけなのである。

しかし、である。地球の長い歴史を振り返ってみると、決して温暖な時代ばかりが続いてきたわけではないことに気付く。いやもっと正確にいうと、地球の歴史において寒冷期はつきものであり、これは人間が何をどうしようとも避けられるものではなく、哀れな人間はといえばただただひたすら土地を捨て、逃げまどうしかなかったのが世界史の真実なのである。

 

さて、問題はここからである。――「人知を超えた世界」が支配的になる時、「あまりにも幸せ」であり、その意味で“ヒマ”な時代における政治システムは全くもって有効性を失ってくる。なぜならそれはあくまでも「人知の範囲内での(ある意味どうでもよい)出来事」との関係だけで有効だからだ。しかし、人々の生活はそれでは全く済まないのである。「地震」「津波」「洪水」「大雨」「台風」「噴火」などなど、人知を超えた世界が全くもって支配的になったとしても、私たち人間は何としても生きていかなければならないからだ。

ここにリーダーシップを巡る大転換点が見えてくる。これまでの「あまりにも幸せだった時代」において、リーダーシップとは要するにうまく人々を言論によって納得させること、それによって成り立つ資質のことを指していた。しかしそうではない時代、「人知を超えた世界」において様子は全く違ってくる。端的にいえば「人知を超えた世界にアクセスできるかどうか」、その能力こそがリーダーには求められてくるのである。その結果、いわゆる神権政治の時代が到来(再来)することとなる。

 

神権政治について、一般に私たちは頑迷固陋で意味の無い、迷信に基づく遺物だと考えている。しかし、去る3月11日午後2時46分に発生した東日本大地震を契機として、わずか5日ほどの体感ではあったものの、私たち日本人は今までとは全く違う「何か」を感じ取った。絶えず揺れ動く大地、被災して放射性物質を拡散し始めた原子力発電所、そして続々と明らかになる数百人単位での津波死亡者の数・・・。ところがその一方で「政治」は何をしていたのかというと、全くもって無意味だったのである。総理以下、いくら作業服を着て、臨場感を出したところでこの「無意味さ」には全くもって何も変わりはなかった。圧倒的な無力感。何に対する??−−“人知を超えるもの”に対する、である。

 

(2011年3月11日・・・それは“人知を超える世界”の始まりであった)

 

“人知を超えるもの”はあまりにも圧倒的である。なぜならば「これから」が分かってしまうのであるから。そのため古代においてその権力はえてして圧倒的であり、今でいえば途方もないくらいの「人権侵害」が神権政治の名の下でまかり通っていたことも事実なのである。

そのため、「あまりにも幸せだった時代」に慣れ過ぎてしまった私たちはそうそう容易には神権政治に戻ることはできないのである。そこでスピノザの登場ということになる。

 

「ホッブズと比較しても、スピノザの旧約解釈はきわめて独特である。たとえばホッブズによれば、モーセの神聖国家における神と民との信約(convenant)は、アブラハムと神との契約を更新したものであり、神とアブラハムが契約を結ぶ以前にアブラハムはすでに主権的権利(sovereign right)を確立していたという点に、信約の特徴がある。神が契約を結ぶ相手は主権者のみであり、各人が勝手気ままに神と契約したり、神の言葉を判定・解釈すべきではない(中略)というホッブズの主張は、彼が、アブラハムやモーセを世俗的主権者であると同時に『主権的預言者』、すなわち国教会の首長として正当化する意図をもっていたことを明白に物語っている。

 他方スピノザの聖書解釈によれば、神の奇蹟に驚嘆したヘブライの民は、各人の自然権を全面的に神に委譲するとの契約を神と結び実行したが、『すべての人々はこの契約によって完全に平等の立場にとどまり、統治権におけるすべての行政に等しく参加した』(中略)。そのときモーセは主権者ではなく、賢い忠告者・指導者にすぎず、この段階でヘブライ国家は民主政に近い政体だったと解釈される。

 しかし民がそれぞれ神の前に進みでて、モーセを介することなく神の言葉を聴き解釈しようとしたとき、民は死の恐怖を感じ、『最初の契約を廃棄し、神にうかがいをたてる権利、ならびに神の命令を解釈する権利をすべてモーセに委譲した』(中略)。結局モーセは主権者となるが、彼は後継者を指名する権利はなかったから、君主制ではなく神権政治(imperium theocraticum)という政治体制が遺された。それは、律法の解釈権と執行権が相互補完しつつも別々の組織によって担われ(中略)、人民全体が十二支族の分権体制をくみ、行政が『万人に十分明白な成文律法』にしたがって行われるような(中略)、ある種の共和主義的体制である」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治 スピノザからレオ・シュトラウスまで」東京大学出版会 第81ページから82ページより引用)

 

『リベラル・デモクラシーと神権政治
―スピノザからレオ・シュトラウスまで』
柴田 寿子・著

以上の様な神権政治を巡る「解釈」を踏まえ、スピノザはいうのだ。―――「ヘブライ国家の衰亡は、この神権政治の政治システムを維持できなかったことに起因する。しだいに各支族間の同等の権利が崩れ、宗教的権威が王に移り権力集中がなされるにつれ、似非預言者が現れ、扇動された人々による騒乱と各宗派相互の内乱が絶えなくなる。」(同上 第82〜83ページ参照)

ここで注目してきたいのが「似非預言者」という表現である。「似非預言者」、つまり預言者を装いつつも、その資質の無い者は“人知を超えた世界”にアクセスすることが本当のところはできないため、結果として「これから」をあらかじめ知り、人々に指し示すことができない。しかしだからこそ自己の「預言(=その実、“主張”)」をゴリ押ししようとし、様々な形で扇動を試みようともする。そのことが社会全体においては混乱を招き、争いを惹起し、やがては社会全体の「崩落」へと陥ることになる。

 

それではこうした最悪の事態に陥ることを防ぐにはどうしたらよいのか。その方法はたった一つしかない。人知を超えた世界”へのアクセスのできる人物をリーダーとして認め、彼・彼女の宣う「預言」なるものがその後の現実と合致する範囲においては信認を与え、統治を認めるとのシステムを確立すればよいのである。そうすれば仮に「似非預言者」が真の「預言者」の座を狙ったとしても意味がないことになる。なぜならば、彼らのいうことは“当たらない”からだ。したがってどんなに「民主的な手段」を用いたとしても、彼らに統治者としての信認が与えられることはあり得ないのである。その結果、“人知を超えた事態”が日常となる中でそれに伴う危機を伴う真のリーダー(=“人知を超える世界”にアクセスが可能であるリーダー)の下、その能力による恩恵を受けた人々がかろうじて危機を乗り越え、未来へと向かうことができるようになる。それが神権政治、なのである。

 

東日本大地震発生直後から5日間ほどの間、東日本を中心にみなぎった、あのたとえようのないほどの「緊張感」。しかしそこではやり場のない焦燥感もあったことを是非、あらためて想起してもらえればと思う。−−「このリーダーシップでは乗り切れない」「一体、どこに真のリーダーがいるのか」と。

 

(天皇陛下によるビデオ・メッセージ・・・今回の大地震がいかなる意味を持っていたのか?)

 

世界に先駆けて“人知を超えた世界”へと旅立ち始めた私たち日本人が想起すべきは、この意味での「神権政治」への回帰に他ならないのではないだろうか。そもそも考えるに、「天皇制」とはその中心に存在する天皇自身が陰陽道の達人であり、“人知を超える世界”へアクセスできることが絶対的な条件となる人物なのであった(稀代の陰陽師であった天武天皇を思い起こせばそのことは分かる)。しかし、「西洋化」「近代化」はこうした伝統を私たち日本人から奪い去る。1868年、陰陽寮が廃止され、「陰陽」という考え方そのものが“密教化”してしまったのである。

それではこの意味での「リーダー」とは本当に日本で今後、存在しえないのか?逆にいえば、これからの日本にとって必要なリーダーシップを担う人物とは、いかなる条件を満たす存在でなければならないのか。次回はこの点を中心に論究を進めていくことにしたい。(続く)

 

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平衡系、あるいは価値へのコミットメント 〜そろそろ「政治哲学」に戻りませんか(その3)〜

2011-04-21 16:00:00 | BREAKING NEWS

前回のこのコラムでは、あり得べき“デフォルト(国家債務不履行)”を暗黙の前提として、それに至るまでの道のりとして「財政調整」と「債務交換」が行われなければならないこと、そして前者へのコミットメントが特に1990年代からつい先日までの日本政治では暗黙の「価値」として共有され、これを盲目なまでに推奨することが中央・地方を問わずあらゆるレヴェルでの選挙における「必勝パターン」として(余りにも無自覚に)用いられてきたことを説明した。

 

しかし、3月11日に発生した東日本大地震とそれに伴う福島第1原子力発電所からの放射性物質の拡散という“新しい現実”の中で、これは全くもって「過去のもの」となってしまっている。震災復興のための巨額の需要が2万人余もの寡黙な東北の人々の犠牲の上に創出された今、平時における「財政調整」はもはや不可能な状況に我が国が置かれたことは明らかだからだ。

 

つまりこれによって我が国において求められる「政治哲学」は全くもって変わったそのことをまず認識しなければ、日本の政治に明日はないのである。

 

ここで一つ、用語の整理をしておきたいと思う。「政治思想(political thought)」と「政治哲学(political philosophy)」の違いについてであるここではヴァイマール期の亡命ユダヤ人思想家として知られるレオ・シュトラウスの定義に基づいて議論を進めることにしたい(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治 スピノザからレオ・シュトラウスまで」東京大学出版会 第10頁参照):

 

『リベラル・デモクラシーと神権政治
―スピノザからレオ・シュトラウスまで』
柴田 寿子・著

(追悼・故柴田寿子教授) 

 

●政治思想とは?

 堅固な信念や活動を促す神話をはじめ、幻想、意図、種概念、その他精神が思考しうる諸々すべての政治的諸観念を扱うもの。ある「体制(regime)」を前提とし、そこから生じる「法」を取り扱う。

●政治哲学とは?

 上記の様な様々な「意見(opinion)」を、善悪や正義・不正義といった基準をともなう政治的なものの本質への問いと、政治的諸基礎に関する真の知識へ置き換えようとする、首尾一貫した意識的な努力のこと。そこで取り扱われるのは、人々が共に生きる社会を特質づける形式という意味での「体制」である。

 

以上の区分けを前提としてこのコラムでの議論を続けてみる。すると今、私たち日本人が直面している「問題」は次のように言うことができるだろう

 

前々回のこのコラムにおいては、マイケル・サンデルの議論を取り上げつつ、彼のいう「コミュニタリアニズム」における暗黙裡の前提として“価値”の存在に着目した。いわゆるリベラリズム批判の中で伝家の宝刀として用いられたのがこの“価値”(の不存在という批判)だったわけであるが、ひるがえって考えてみるに特に小泉純一郎流「劇場政治」の展開が続く中でここでいう意味の“価値”(=ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を未然に防ぐための防波堤としてヴァイマール共和制下で考えられていたはずの「基本権」「人権」に匹敵する、平たい言葉でいうと“生き死に”にかかわる選択の問題)は日本政治の中で明らかに後退していき、これまた平たい言葉でいえば「趣味の問題」(=直感的、直情的、非論理的、扇動的)として政治が推し進められていった

●さりとてそこで擬似“価値”が無かったわけではない。そのようなものとして無意識かつ暗黙裡に取り扱われてきたのが「財政赤字削減」という目標へのコミットメントであった。「構造改革」というタイトルで喧伝されたこのコミットメントは、そもそも何が真であるのかという問いを許すものではなく、「コミットするのか、それともしないのか」という2者択一で有権者の“趣味”を聞くものであった。小泉純一郎流「劇場政治」からという川上から徐々に地方政治という川下へとこの「必勝パターン」が流用されていく中でこの傾向はますますひどくなり、そもそもそうした選択を迫る人物そのものに対する「好き」「嫌い」が、擬似ではあっても“価値”の選択そのものと置き換えられるようになってしまった。

 

(辛坊さん、原口さん・・・「そんな場合」なのですか??)

 

つまりそこでは「財政調整、債務交換を経ないと“デフォルト(国家債務不履行)”になる危険性がある。だからこそ今、まずは手段としての財政調整(=財政赤字の削減)にコミットしなければならないのだ」という本当の選択すら隠ぺいされ続けてきたのである。本来そこには「破産した国家はもはや人々が共に生きる場の形式としての意味合いはない」という“価値”判断があったはずなのであるが(そのレヴェルでは「政治哲学」の議論)、もはや政治選択が「趣味の問題」となってしまった今、日本ではせいぜいのところ上述の意味での「政治思想」の問題だけが語られるようになってしまっている。

●しかし3月11日から続く“新しい現実”の中でこうしたものの全てが吹き飛んでしまった。なぜならばもはや趣味の選択にまで堕してしまっていた日本政治がここに来て暗黙裡に大前提としていた「“デフォルト(国家債務不履行)”の回避」とそのさらに前提にある「体制」に関する"価値”判断が、巨大な復興需要の出現によって一気に吹き飛んでしまったからである平たく言えばもはや人知を超えたところでうごめく、この地球(ガイア)のうねりそのものに我が国は巻き込まれてしまったのである。そこで人はもはや“選択”の権利を持たず、ますます暴れまくる地球(ガイア)をただただおそれおののき、これに恭順するしかない。

 

(人知を超えた存在・・・地球(ガイア))

 

さて。ここでさらに思考を進めてみる。

本来ならば「体制」の選択、つまり人が共に生きる場の形式を巡る議論などそうそう問題になることはない。それは多くの場合「所与」なのであって、むしろそこから演繹的に導かれる「法」について最終的には趣味的な判断を行うという在り方、これが民主主義(デモクラシー)なのである。多くの場合、私たちはこの在り方、ゲームのルールを所与の「体制」にとって絶対的なものであり、最善なものであると信じ込んでしまっている。

 

しかし果たして本当にそうなのであろうか。所与とされていた「体制」の問題について、もはや人知を超えた力によって本質的には揺り動かされることが明らかとなった今、私たちは趣味的な判断でしかないゲームのルールをもって、この「体制」を超える何かを考えてしまって良いのであろうか(上記の用語法でいうと、「政治思想だけを論じて、政治哲学を論じなくてよいのか」ということになる)。

 

実は歴史を紐解いた時、人知を超えた何かの力そのものを前提とする「体制」を人類が選択し、それによって日々の営みを続けていた時期があった。「神権政治」の時代である。神権政治とはここでいう「人知を超えた」存在として“神”を措定し、その意思がなんらかの手段によって知ることのできる媒介者(預言者)を経る形で伝わるとし、この意思(神意)にしたがって粛々と営みを行うことこそあるべき人の姿であるとする「体制」のことを指す

 

いわゆる「戦後民主主義教育」の中で私たち日本人はこうした「神権政治」的な要素を徹底して排除すべきだと繰り返し刷りこまれてきた経緯を持つ。むしろそれを否定したところにある在り方をあるべき「体制」であると規定され、その枠内において趣味の判断を行うという「民主主義」こそ絶対的なものだと教わってきたのである。しかし全くもって3月11日より生じている“新しい現実”の中でそうした否定論的「体制」はもろくもその有効性を完全に失った。人知の範囲内で全てが動くことを前提とした「体制」から紡ぎだされる「法」に余りにも従順な集団として選ばれてきた菅直人民主党政権は、「人知の範囲外」を知らないからである。放射性物質の拡散を巡る一連の騒動と広がるその被害は、そのことを如実に物語っている

 

「人知を超えた世界」によって圧倒されるうねりの中だからこそ、それに直接コネクト(接続)し、さらにはそれに適合的な営みへと人々の生活を適応させることのできる媒介項。これを今や我が国のみならず、加速度的に放射性物質が拡散される世界全体が待ち望んでいるのである。ただしそれは慣れ親しんだ形でのゲームのルール、すなわち「政治思想」としての民主主義とも相容れない限り、人々の受け入れるものにはならないであろう。つまりここに「預言者」と「民主制」、あるいは「政治哲学」と「政治思想」という二つの時に相容れないものをブリッジする原理が求められてくるのである。

 

 

「神権政治」と「民主政」・・・この一見したところ解くことのできない連なりの中で、見事に「永遠のパズル」を解いた先人がいる。バールーフ・デ・スピノザである。次回はその「神権政治」解釈を振り返る中で、“新しい現実”の中で求められるべき「政治哲学」の続きを考えてみることにしよう。

 

(続く)

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平衡系、あるいは価値へのコミットメント 〜そろそろ「政治哲学」に戻りませんか(その2)〜

2011-04-14 16:00:00 | BREAKING NEWS

初回であった前回のコラムでは、マイケル・サンデルの議論を中心に据えながら、彼のいう「コミュニタリアニズム」といわゆる「リベラリズム」との大きな違いが価値へのコミットメントにあること、そしてそこでいう「価値」とはヴァイマール共和制の遠い記憶に照らし合わせるとユダヤの哀しき歴史へとたどり着くことなどを考察した。

本当はここで「では私たち日本人にとって腹の底からコミット出来る“価値”とは一体何なのか?」という問いかけに真正面から答えようと思っていた。しかしそれとも関連する事象ながら、ここにきて大きな出来事が一つあったので今回はそれを題材にしながら「政治哲学」を再構築していきたいと思う。

その出来事とは・・・去る4月10日に投開票が我が国で行われた統一地方選挙である。

 

率直にいって今回の「統一地方選挙」ほど盛り上がりを見せない選挙は無かった。私自身はNHKラジオ第一にレギュラー出演しており、いわゆる「NHK言論人」の端くれである。そしてこれはあまり知られていないことなのだが、公共放送である「NHK」は選挙になって特定の支持者を支援する言論人を出演させないという暗黙のルールを保っている。そもそも“情報リテラシー”を説くという立場からいえば、そのレヴェルでの特定の価値判断は無用であるとあらかじめ心得ているので、私は特定の支持者を公言したりはしない(もちろん公民権としての「投票権」の行使はするけれども)。しかしそうではあっても選挙に先だって、立候補予定者から色々な声が聞こえてはくる。今回も、とある政令指定都市の立候補予定者からの声が聞こえてきたことがあった。内容はともかくそのタイミングは昨年(2010年)11月終わり頃のことだ。

そのことを思い出し、今回の選挙を「戦った」候補者の皆さんが少々可哀そうになってしまった。なぜならばその後、3月11日に発生した東日本大地震の結果、選挙の様相が一変してしまったからである。

 

(石原慎太郎氏・・・何がしたいのか?)

全くもってその典型が「東京都知事選挙」であった。芸能人OB(?)や経済人が続々と立候補し、やや華やかな選挙になるのかと思われたのも束の間、大地震の発生によって(大変申し訳ないが)そうした「華やかなキャラ」のお歴々は全くもって無意味となってしまったのである(といっても、最終的に「選ばれた」御仁がベストの選択であるとは思えないけれども)。

 

視野を広くとって我が国全体を見ても、状況は全くもって同じであった。もちろん候補者たちは必至で有権者たちに訴え続けていた、従来の手法で、従来のメッセージを。そして事後的に見てみると、多くの場合、彼らの主張は次のようなものだったのである:

 

●役所の無駄はやめさせなければならない

●そのためには徹底した歳出削減、緊縮財政が必要だ

●憎むべきは役人たちによる「無駄づかい」。徹底してこれを切り落としてこそ、未来がある

 

開票が始まってからTVは続々とそうした「候補者たちの主張」を映し出した。率直にいってどこの誰をとっても全くもって同じ主張だらけ。「他に主張はないのか」と思わずブラウン管に向かって叫んでしまったほどだ。

 

このコラムの文脈でいえばここで見え隠れする「問題状況」とは次のように言いかえることができるだろう:

●リベラリズムを排したところにあるコミュニタリアニズムへの回帰がトレンドであるとして、そこで求められるのは何といっても「価値へのコミットメント」である

●それでは今回の統一地方選挙における「価値」とは一体何なのかといえば、何といっても「歳出削減、緊縮財政、無駄づかいカット」に尽きるというべきだろう。なぜならそればかりが連呼され、そう唱えていた候補者たちが選ばれることになったのであるから

 

誰でも自分の出したカネが無駄づかいされていては気分が悪い。その限りにおいてこうした「主張」は一定の影響力を持つことも事実ではある。

しかし、何ゆえに猫も杓子も、選挙というと「無駄づかいカット」を連呼するのかといえば、率直にいうとそこに高尚な理由などないというのが真実なのではないか。人は安直な人であればあるほど決まった「必勝パターン」をどうしても真似したがるものである。そして我が国における直近の選挙における「必勝パターン」は何かといえば、何といっても2000年代初頭を華々しく飾った小泉純一郎総理大臣(当時)による「劇場政治」に他ならないのである

 

 

(小泉劇場政治の始まり・・・喜劇の始まり、悲劇のスタート)

 

小泉純一郎流の「劇場政治」について私は日本における処女作となった拙著『劇場政治を超えて』(ちくま新書)で分析を施したことがある。そこで述べたことも踏まえつつ、ここでいう「必勝パターン」のポイントを述べるならば次のとおりとなるだろう:


劇場政治を超えて―ドイツと日本 (ちくま新書)
原田 武夫・著

 

●立候補者はまず「敵」は誰か、その照準を合わせなければならない

●ここでいう「敵」は税金を無駄づかいするためのスキーム(=「構造」)を我が国の至るところに網の目の様に創りあげてきた官僚たちである。このように官僚たちの創りあげた「構造」は徹底して破壊されなければならない。

●官僚たちはどんなにバッシングされても、かつての「国王無答責の原則」の延長線上で基本的に反論することはない。そこでメディアに対しては徹底して「官僚制こそ巨大な敵だ」と言いふらし、そこに単騎で立ち向かう勇者として自らを描き出すことで人気を博す。なぜならば日本人はどういうわけか弱き正義の味方が大好きだからだ(判官びいき)。

 

したがってこの劇場政治、仕掛ける側からすれば正に「やりたい放題」というわけなのだ。政治家だけではなく、そこに寄生するマスメディア、さらにはさらにそこに寄生する怖いもの知らずのフリー・ジャーナリスト諸兄がよってたかって「劇場政治」「小泉政治」を盛り立てた。

 

だが、ここで是非考えてみて頂きたいのである。私たち日本人はいつ、明示的な形で「歳出削減こそ善、無駄づかいこそ選ばれざるべき道」と考え、それが体現する”価値”へのコミットメントを行ったのであろうか。そのことが持つ本当の意味合いを理解した上で、私たちは投票行動を行ってきたのだろうか。

答えは恐らく・・・限りなく「NO」であろう。しかしそれでもなおこの「必勝パターン」は当面の間、有効であり続けてきた。少なくともonly yesterdayまでは。

 

しかし状況は明らかに3.11で激変した。確かに各候補はこの「必勝パターン」を連呼し続けてはいた。だが誰の目にも明らかなとおり、それはあまりにも空々しく、無意味だったのである。

 

その理由はただ一つ。

大地震の発生によって情勢は明らかに「復興需要優先」へと180度転換したからである。そもそも歳出削減が叫ばれ、緊縮財政が求められてきた背景には来る2013年には実に対GDP比で270パーセントにも及ぶと推定されている、我が国の抱える巨額の財政赤字の問題があった。

藻谷浩介氏の著作『デフレの正体』(角川書店)ではないけれども、私たち日本人は少子高齢化という問題を抱えている。これまではこうした赤字国債を、右肩上がりの高度成長期にたんまり資金を貯め込んだリタイア組がしっかりと買い込んでくれてきた。しかし、少子高齢化となり、しかもこれらリタイア組がいよいよ年金の受け取り手になるならば状況は全く変わるのである。国内でファイナンスが出来ない以上、やるべきことはただ一つ。「外債の発行」である。しかし多額の外債発行はやがて“越境する投資主体”たちによって売り崩される危険性を常にはらんでいる。


デフレの正体 経済は「人口の波」で動く(角川書店)
藻谷 浩介・著

 

「まっすぐ進めば落とし穴。後退しても地獄」

我が国はここに来てそうした状況にまで追い込まれていたというわけなのである。

金融財務当局からすればこうした状況は全くもって耐えきれない。そこで次のようなことを行うことになる。いずれも、いざという時には“デフォルト(国家債務不履行)”宣言を行うための準備として、いわば国際ルール化しているものだ:

●財政調整(fiscal adjustment):無駄遣いは徹底してカットする。「へそくり」である国有財産は徹底して売却する

●債務交換(debt swap):債権者との間で債務の減額および繰り延べを交渉する

 

これをご覧になって賢明なる読者の皆さんは必ずや気付かれたのではないかと思う。そう、これまでの選挙における「必勝パターン」とは要するに知らず知らずのうちに、ここでいうお作法としての「財政調整」を良しとする“価値”へのコミットメントを求めるやり方に他ならなかったのである。政治家も、メディアも、皆が「劇場政治」でふるまわれる美酒に酔いしれた。しかしよくよく考えてみるとその先にあるストーリーがあったというわけなのである。しかしこの「その先」を語ってしまってはストーリーが完結してしまい、詰まれないので誰も語ろうとしなかったのだ(国会議員諸兄にそこまでの「先見の明」があっての話だが)。

それどころか議員先生方は相も変わらず「必勝パターン」にしがみつき、ついには総出でやいのやいのと官僚バッシングに邁進した。それがあまりにも滑稽なほどにまでなっていたのは、原子力安全対策の費用まで「必要?」と揶揄し、削り取っていたという、ほとんど冗談でしかない「事業仕分け」で明らかだったのである。

 

だが、繰り返しになるが、この「必勝パターン」はもはや“必勝”ではなくなったのである。なぜならば総額20兆円近くもかかると一部には言われ始めている「復興」こそが今の政策目標である以上、もはや無駄遣いも、歳出削減もへったくれもないのである。大好きな「花見」すら自粛と言われれば自粛してしまうおとなしい我が国国民のことである。「復興」といわれれば「復興」に狂奔するのは目に見えているのであって、その内、”Everything like 『復興』 is right."となるのは目に見えているのだ

 

しかし単なる「箱モノづくり」だけが“復興”であって良いのかという議論もあり、そう簡単に次なる「必勝パターン」が出来あがるとは思えないことも事実である。去る1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で私たち日本人は少しだけ賢くなっている(はずだ)。ハードではなく、ソフト面での「復興」を求め始めた時、そこでいかなる議論の収れんが見られるのかは予断を許さない。

 

だが、一つだけ言えることがあるのだ。

2万人以上という尊い犠牲を伴った東日本大震災。これによって明らかに紋切り型の「劇場政治」とその背景としての経済情勢は大転換の時を迎えたのだと。その意味でも我が国は今、全く新しい政治リーダーの誕生を求めていると私は考える。

それでは彼ら・彼女らが指示し、追い求めるべき「価値」とは一体何なのか??

 

議論は再び振り出しに戻ったところで、この続きは「次回」ということにしよう。 (続く)(※次回は4月28日の予定です。)

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平衡系、あるいは価値へのコミットメント 〜そろそろ「政治哲学」に戻りませんか(その1)〜

2011-04-07 16:00:00 | BREAKING NEWS

 

しかし2011年3月11日午後2時46分。世界は確実に変わった。東日本大震災の惨劇、そして放射性物質の持続的な拡散という“新しい現実”しかもそれが加速した時の中で着実に進展しているという事実。

そのような中でIISIA創設5年目を迎えるにあたり、私は思ったのだ。――そろそろ『政治』に戻ろう」と。「政治哲学に戻ろう」と。

 

早いもので「株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)」を立ち上げてから丸4年が経った。

この4年の間、手がけてきたことはたくさんある。学んできたこともたくさんある。そしてたくさんの人たちと出会ってきた。

そこで学んできたこととは、一言でいえば金融資本主義とは一体何なのかということだった。もちろんこの壮大なテーマを学び切ったなどというつもりはさらさらない。学んでも学んでも、次々に「学ぶべきこと」が湧き上がってくる。

 

日本の政治。それは「仕分け」であり「領収書」の話になってしまっている。あるいは山のような「ゴシップ」とでもいうべきか。

しかし、ここであらためて読者の皆さんに問いたいのだ。「本当にそれで良いのですか?」と。政治とは「善きもの」「あるべき世界」を創るためにあるものではないのですか、と。

仕分け、仕分けとぶち壊してばかりいては何も始まらない。「政治とカネ」と連呼したところで善き世界は現れない。

こうした現状は変わらなければならない。いや、変えなければならない・・・。

そこで4周年企画として再び期間限定で始めるこの連載のタイトルも、こうした全うすぎるほど全うな問いかけに真正面から答えるものとした。

題して「そろそろ『政治哲学』に戻りませんか」。

“真っ当なことを真っ当に議論することで、この未曽有の危機を乗り切りたい”と考えている全ての日本人のために。この拙文を綴って行くことにしたい。

・・・・

昔から私は「流行りもの」を一切読まないし、見ない。子供の時からそうなのだが、むしろ目線はいつもpositive devianceの方に向かっている。メイン・ストリームから逸脱したもの、そこに「次のフェーズ」が見え隠れしている。それを追うのがいつしか私の習性となっていった。

そのような訳で人が「サンデル!サンデル!」、あるいは「白熱教室!白熱教室!」と叫んだところで全くもって関心が無かったのだ。私の研究所(IISIA)では学生諸君に対して社会貢献事業としての“情報リテラシー”教育を無償で展開してきている(IISIAプレップ・スクール。2008年より)。そういうわけで自分もどこかしら「教師である」という自己認識が潜在的にはあるのかもしれない。あちらが「白熱した教室だ」と聞くと、ついつい「こちらもそうですよ」と思ってしまうものなのだ。

しかし、いざ「政治哲学をそろそろ考えてみようか、しかも未来の日本のために」と考えた時、何かしらとっかかりがいることも間違いない。かつて大流行してからしばらくたった後、「村上春樹」の小説を手にとり、その後、(当時出ていた)全作品を通読したのと同じくらいの勢いで、今度はサンデルの紹介本を手にとってみた。小林正弥『サンデルの政治哲学 <正義>とは何か』(平凡社新書)だ。

 


ンデルの政治哲学-<正義>とは何か (平凡社新書)
小林 正弥 (著)

 

Justice: What's The Right Thing To Do? Episode 10: "THE GOOD CITIZEN"

最初は何気なくパラパラをめくっていたのだが、やがてこの本、私を見事にコンテキストの海へと引きずり込んでくれた。なぜか?

その理由は簡単だ。私が母校・東京大学に入学したのが1990年。その後、法学部に進学することになるのだが、そこでしきりに耳にしたのが「憲法だからこそ手続を大切にすべきだ」といった議論だった。その後お世話になる樋口陽一先生はフランス憲法学だから「人権」という価値にコミットしており、そうした「手続重視型憲法論」を安易に口にされることは無かったものの、その勢いはある意味、すさまじいものがあった。

時代は1990年代前半。バブルがはじけたとはいえ、まだその余韻は十二分に残っていた。今活躍している政治家先生方がやれ「日本新党」だ、「新党さきがけ」だと登場し始めた頃の話だ。冷戦構造下での閉塞感が日本社会には多分に残っており、いまさら「人権を尊重せよ」と叫ぶ東大憲法学よりも、「国家が守るべきは手続。その手続が守られている枠内においては人間、自由に何をやっても良いではないか」と叫ぶ(当時は傍流であった)新しい憲法学の方がどことなく学徒たちの耳には聞こえがよかったような、そんな時代だった。

読みやすい文体で文章をつづって行く小林正弥のこの本を読みながら、ふとそんな時代のことを思い出した。なぜなら次のような記述に出くわしたからだ:

 

「切り札としての権利、中立的国家、そして家族などの負荷なき自己というリベラルな考え方が、最近数十年の憲法や家族法に大きな影響を及ぼしてきた。手続き的共和国の寛容は、諸行為の価値を棚上げし、人々の確信や生にふさわしい評価を涵養するものではなく、『負荷なき自己』として尊重するだけなので、社会的な共存や平和を作ることはできても、一人ひとりの『固有の善を評価し、肯定するような、人格および共同体』・・・(中略)・・・から醸成される高次の多元性が実現される可能性はほとんどない」(同第185頁より引用)

 

なぜこの文章が特段目にとまったのか。それにはもちろん理由がある。

東京大学を3年で「中退」した後(当時の外務省は外交官試験を20歳で受けるようにしていたのだ)、1年間の“雑巾がけ”を経て、私はベルリン自由大学に留学した。「在外研修」だ。当時のドイツは統一(Deutsche Einheit, Wiedervereinigung)で日本において人気こそあれ、「では一体何をベルリンで学ぼうか」と思っても、今一つピンとこない感じがしていた。そこでそれこそブラント首相(当時)がデタント時代に展開した「東方政策(Ostpolitik)」でも勉強するか、などと東京・赤坂にあるドイツ文化会館図書室で一人思ったことを今でも懐かしく思い出す。

そしてラヴ・パレードに沸くドイツ・ベルリンに投げ込まれることになるわけだが、そこでどういうわけか気を引いたのがヴァイマール憲法学の泰斗カール・シュミット(Carl Schmitt)の著作だったのである。私が所属していたのは政治学部(Otto-Suhr Institut)で、当時の学部長はゲジーネ・シュヴァン(Gesine Schwan)。後に連邦大統領選にまで立候補することになるシュヴァン学部長はかつて政治学者として鳴らしたアレクサンダー・シュヴァン(Alexander Schwan)の遺した妻としても知られていた。真っ赤なスカートでハイヒールをならせながら大教室に入ってくるシュヴァン学部長はいかにも颯爽とした欧州左派知識人で、「ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)もきっとこんな感じだったのだろうなぁ」などと思ったことを思い出す。

さて。そうしたSPD色の強いベルリン自由大学政治学部の中にあって、当時、最も論争の的となっていたのがカール・シュミットだったというわけだ。しかも論点はずばり「カール・シュミットはヴァイマール共和制を護ろうとしたのか、それとも破壊しようとしたのか」。後にナチス・ドイツのヒトラー「総統」の登場を理論的に準備したと糾弾されることになるカール・シュミットについて再評価すべきか、あるいは歴史の藻屑と消え去ってもらうべきなのか。激しく議論されていたのである。

 

 その後、私は一貫してカール・シュミットを読み漁ることになる。日本での処女作(「劇場政治を超えて」(ちくま新書))も実際のところ草稿は「カール・シュミットと現代日本」というタイトルであったほどだ。


劇場政治を超えて―ドイツと日本 (ちくま新書)
原田 武夫・著

ではなぜ、そこまでカール・シュミットにこだわったのかといえば、彼独特のある意味トリッキーな憲法擁護論に惹かれたからだ。非常に複雑な彼の議論を簡単に説明すると、たとえば次のように言うことができるだろう:

  • ヴァイマール憲法がドイツ革命の結果、1919年に採択された際、人々が選びとったのはその法文そのものというよりも、そこに記されている「価値(Werte)」である。
  • したがって如何なる統治者であれ、この「価値」に反したことを行うのは許されない。逆にいえばテキスト(法文)としてのヴァイマール憲法にとらわれることなく、そこで選びとられた「価値」を護るためであれば、独裁(Diktatur)であっても許される

しばしば誤解されることだが、カール・シュミットがここで「独裁」を導き出した最大の理由は、何を隠そうヒトラー率いるナチズムによる政権掌握という最悪の事態を防ぐためなのであった。しかし結局はドイツ国防軍、さらには政治家たちが腰砕けとなり、いわば「梯子を外された」形となってこの構想は頓挫する。そしてその残滓だけが都合よく解釈され、悪しき意味で「独裁者」となったヒトラーに、消極的な選択肢として望みをかけたカール・シュミットは、徐々にその支配体制の理論的支柱の立役者としての役割を果たしていくようになる。

日本の言論界では不思議と語られないのが「ユダヤ人問題」なわけであるが、これを語る時、特に米国勢の知的エリートを構成するユダヤ系の人物たちと議論するにあたって、暗に前提となるのがこの点であることを読者は忘れてはならないだろう。彼らの多くはナチズムが吹き荒れる欧州から逃げてきた一族だ。「手続」だけで自由が確保されるものではなく、そこで担保されるはずの「価値」そのものこそ、自由を確保してくれるものであるという確信がそこにはある。

ここに「白熱教室」のサンデルとの"邂逅"がある。先ほど示した引用文で小林正弥が述べているとおり、サンデルがコミュニタリアニズムを語る時、そこで念頭に置かれているのはあくまでも「価値」、そしてその発露としての「善」である。これに対するコミットメントを抜きにしてコミュニタリアニズムはなく(単なる多数決主義との違い)、手続国家論的なリベラリズムの欺瞞も正にそこにあるのだという。――むろん、明確に語られてはいないものの、ここに「ヴァイマールの亡霊」が見え隠れする。

ベルリンにおいて在外研修中、不躾にも書状を認めた私に対して、樋口陽一先生は概要次のようにお応え下さった:

「ヴァイマール共和制の時代には、これからの日本、そして世界で生じる問題のほとんど全てが起きました。あなたがその時代について勉強されていることはきっとこれからのために意味のあることでしょう。しっかりと勉強してください」

正にそのとおりであった、とあの頃を振り返ってみてそう思う。もっとも日本の街中にある書店で指さしをするサンデル教授の写真が表紙になっている書籍を眺めながら、「ヴァイマールの亡霊」を思い出している者など、ひょっとしたら私だけなのかもしれないが。

 

・・・さて、話を元に戻す。

「手続国家論」「手続き的共和国論」が排斥される時、そこで切り札となるのが「価値」へのコミットメントである。しかしここであえて問いたい。「価値」とは一体何なのか?「善」とは一体何を意味するのか、と。

古代よりさ迷える立場にいたユダヤ人たちは、常に追われる立場にもあり、そうした彼らが20世紀を迎える頃に思いついた議論。それが「人権」であり、「基本権」だった。したがって一見すると普遍的に見えるその議論ではあっても、最終的にはタルムード(ユダヤ教の宗教的規範)の香りがする。やや文脈はことなるが、サンデルについても小林正弥はその点を鋭く見抜いている(同第290頁)。

一方、戦後日本に生きる私たちは「普遍的人権」へのコミットメントを当然のことと教わり、暮らしてきている。それは確かにそうなのであるが、そうであるからこそ私たち日本人は今こそあらためて手を胸にあてて、一度考えてみるべきなのだ。果たして本当に「普遍的人権」なるものに心の底からコミット出来るのだろうか、と。

これまでいわゆる左翼憲法学は戦後日本において懸命に「人権」の日本における歴史性を説いてきた。曰く「日本人は権力によって抑圧されてきた。そこから逃れるための切り札としての人権は絶対に日本でも必要。その意味で人権は日本においても歴史性を持つ」、と。

だがここで端的に言おう。日本民族はこれまで「追われる立場」には全く無かったのだ。絶えずディアスポラを経験し、辿り着いた先においてもなお迫害される身であったユダヤ人たち。彼らが辿り着いた先において身を護るための最後の切り札、それが「普遍的人権」だったのである。その意味で「人権」というと全くもって甘い表現の自由、しかもポルノ雑誌が表現の自由だどうのこうのといっていた日本人の緩さとは比べ物にならないのである。

したがって日本人のいう「人権」は本来的な意味での「人権」ではない。生きるか死ぬかという意味での「切り札」ではない。心の底から、民族の生存をかけてコミットしている「価値」などとはおよそ呼ぶことが出来ない。−−そういうものなのである。

そうであるならば私たち日本人が依拠し、素直にコミットできる「価値」とは一体何なのだろうか。そしてそれを通じて創り上げるべき「善」と一体何を意味しているのだろうか。

次回はそうした問いかけを立てた上で、私たち日本人にとっても「腑に落ちる」、コミットすべき価値とは何かを探ってみることにしたい。

 

IISIA CEO

原田武夫記す

(2011年4月14日《木》に続く)

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〜原田武夫による書評のご紹介〜 「お父さん!これが定年後の落とし穴」

2009-10-08 20:00:00 | BREAKING NEWS
本日は、IISIA代表・原田武夫による書評をご紹介いたします。


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  「お父さん! これが定年後の落とし穴」 

  大宮知信・著(講談社)


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最近、日本人ならば誰でも知っている著名コメディアンの
公式ブログで次のような言葉を読み、ハッとしたことがある。

「人生において最大の驚きは老年期だ」トルストイ

私はまだ37歳。まだ”老年期”を語るのは早すぎる。
しかし、老いは誰にでもやってくるものだ。
テレビ業界の最前線を駆け巡ってきたこの著名コメディアン氏が
ふっとつぶやいたかのように記されていたこの言葉は、
なぜかしら胸に突き刺さった。

私は父を12年前に失った。
壮年期に入ったばかりに夭折した父のことを思うと不憫でならないが、
その一方で「良妻賢母」を自認してきた母がそれから数年経つと、
それまですることのできなかった様々な活動に首を突っ込むようになり、
それなりに人生を楽しむ姿をしばしば見るようになった。
その度に思ったものだ。
――「老いも・・・ひょっとしたら悪いものではないのかもしれないな」と。

しかし、だ。
独立系シンクタンク”IISIA”の代表として全国を駆け巡り、
“情報リテラシー”を説き続けるようになってから、
どうやらそんな感覚が激しく甘いことに気づいた。
なぜなら、聴衆としてお集まり頂いた方々の多くが
「団塊世代」以上の方々であり、かつ2006年くらいからの株高局面、
円安局面で大量の投資をしたものの、
その後に始まった金融メルトダウンで場合によっては
総資産額の3分の2以上ものマネーを失ってしまった方々だったからだ。

「原田先生、どうしたらいいんでしょうか?」

そう口々に質問された。
しかし、情けないことに私からお答えできることは唯一つだった。
「これから先、チャンスが無いことはありません。
しかし、まずは一旦、ゲームから降りましょう。
考え方を変えて、しっかりと学んでから臨まなければ、
もっとひどいことになります」

「銀行にお金を預けるな、”プロ”が運用する投資信託に預けろ」という
プロパガンダに最後の救いを求めた方々は、
その直後にやってきた2008年1月の日本株投資信託大暴落で息の根を止められた。
それでもかろうじて生き残った方々も、
今度はその夏にやってきたリーマン・ショックで圧殺された。
あの時、すがるような目で質問をされてきた多くの壮年・老年の方々は、
その後、二度と私の話を聞きに現れてくださらない。

大事なこと。
それは、人間は必ず老いるということを知り、
まずは備えることなのだと思う。
それでもなお、誤ったことをしてしまうのは運命であり、
人間の性(さが)というもの。
しかし、不意打ちをくらって全てを失うことほど馬鹿らしく、
また後悔しても仕切れないことはないのだ。

「投資に興味はあるもののいきなり証券会社へ行くのは
抵抗を覚える人が少なくない。
あまり投資をしてこなかった人はとりあえず銀行の窓口に足を運ぶ。
銀行のほうが馴染みがあるし、安心だと思うのだろう。
事実銀行が販売している商品だから元本保証だと思ったという人が多い。
ここに落とし穴がある。
消費者側の認識不足でトラブルになる」(P63)

「戦後政府は一貫して『銀行は安心・安全な金融機関』だとして、
金融のリスクとリターンの基本的な概念を国民に教えてこなかった。
ある個人投資家が言う。
『オレは絶対に銀行では買わないね。
銀行の窓口の連中に株式投資のことはわかんないもの。
だって彼らがいままでやってきたことと仕事の中身が全然違う。
いままで元本保証の貯金係をやってた人にそんなリスク商品
を売れるかというの。安全確実を売り物にしてきた銀行が
リスクのある投信を売るなんて、どうなのかね』」(P64−65)

大宮知信氏の最新刊「お父さん!これが定年後の落とし穴」(講談社)には、
正に“備えるため”の知識が列記してある。
これ以外にも、「ネットビジネスの甘い罠」「未公開株詐欺の横行」
「年金で海外生活の幻想」「はかなく消えた別荘の夢」「失敗しない自費出版」
「妻が突きつける三行半」などなど、ずらりと並ぶ。
「問題は分かった、ではどうしたらいいのか?」
という方にはやや物足りないかもしれない。
しかし、何はともあれ、まずは心を落ち着かせ、
「これから何が起きるのか」について“老い”の始まる前に読むべきだ。
私はそう思う。

冒頭のトルストイの言葉ではないが、
この1冊で一人でも多くの日本人にとって、
“老い”が幸せ一杯のサプライズの連続となることを、
心から願ってやまない。

    (2009年10月 IISIA CEO 原田武夫記す)
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QUO VADIS?―――「世界システムの大転換」に関する私の考え(その2)

2008-07-11 18:43:31 | BREAKING NEWS
次に「破壊から創造への転換、人間性への回帰」について。

画一的な処方箋が全て悪いというわけではない。「これが正解だ」と示されると、人はえてして安心するものである。なぜなら、思考することなく、生きていくことができるからだ。その意味での“安逸”は、既に始まりつつある“分散化の時代”には無い。

上記の世銀報告書を読んでも、必ずしも「効果的な政府」はイコールかつての“開発独裁”におけるような強権的な政府を意味しているわけではないように見受けられる以上、いわば社会が政府(官僚)の側から「答え」を上から承るという姿がそこで絶対視されているわけでもない。しかも、視線をさらに社会そのものへと転ずるならば、実はそこでもさらなる“分散化”が着実に進展し、あるいは仕掛けられているのである。

そのカギとなるのが、インターネット社会の本格的な到来である。この点について、これまで私はこのコラムにおいて「IT2.0時代」に関する考察として繰り返し述べてきた。詳しくはぜひそちらを振り返ってみて頂きたいのであるが、その要点をまとめるならば次のとおりだろう:

●「地上波デジタル放送」への強制転換に伴うテレビ・メディアの低落を筆頭に、大手メディアはもはや瀕死の状態にある。そもそも、リアルタイムで「思考の糧」としての情報を得るために人々が接しようとするメディアであるのにもかかわらず、所詮は一民間企業に過ぎず、その意味で特定のポジションからの情報提供をするに過ぎない大手メディアたちは、徐々に視聴者・購読者を失っていくことになる。なぜなら、大手メディアにそうした役割は期待できず、そうである以上、大手メディアに接することは「時間の無駄(waste of time)」だからだ。
(特に雑誌メディアの低落ぶりは既にすさまじいものがある。某有名雑誌は、編集長が年俸2000万円台を維持している一方で、昨年だけで10億円を超える赤字を編集部単独で抱える(!)に至ったのだと聞く。賢明なる読者は、“赤字なのになぜ高給取りなのか”という単純な算数の問題をまずは考えてみるべきなのだろう。そこには“当座はキャッシュを出してくれる、社外のビック・ブラザーの姿”が見え隠れする気はしないだろうか。)

●その一方で、情報源としてインターネットをより深く人々が使いこなすようになってくる。米国はこうした潮目をあえてすすめるべく、政治におけるIT宣教師とでもいえる存在へとバラク・フセイン・オバマ(民主党)をまつりあげ、盛大なIT大統領選挙を繰り広げつつあり、それがさらに世界のIT2.0化を進めて行く。「あらゆる情報が、まずはネットで検索すれば出てくる」という状況を実現するために米国政府が主導する形ですすめる“情報公開”は全世界に広まっている。

●日本の場合、おそらくは来年早々には導入されるであろうIT選挙(=公職選挙法の改正)がカギを握ることになろう。なぜなら、これによって小口献金のHP経由での集金が可能となり、かつ動画・ブログを通じた積極的な政治活動の展開が可能になってくるからである。その結果、もはや「なぜ、この司会者が政治家(候補)たちを相手に偉そうに議論をぶつのか。何の権限があって、彼・彼女はそうしているのか」、あるいは「なぜここまで政治は茶化されるのか。単純な構図、紋切り型で語られるのか」という疑念が見ていると秒単位で浮かび上がってくるテレビ・メディアを通じた政治(テレポリティクス)は終焉を迎える。当然、これにもっともすばやく対応できた者だけが、政治の場裏で生き残っていくことにもなろう。

しかし、問題はここからである。―――インターネット化は同時に社会の“分散化”を招くからだ。

その理由は二つある。―――1つには、ブログを運営されている方は肌身に感じられていることであろうが、いわゆる人気のアルファ・ブロガーであろうとも、世の中のすみずみまで自らのメッセージを浸透させることは不可能なのである。なぜならば、「与えられるだけ」の大手メディアとは違い、「書き込む」「画像をアップする」ことが出来るWEB2.0化したインターネットの世界には日々、世界中より無尽蔵のコンテンツがアップされ続けているからである。

この時、こうしたコンテンツの受け手である人間は、かえって決定を遅らせ、あるいは選択をしない方向へと向かってしまうことが知られている。つまり、コンテンツの“多チャンネル化”は、けって私たちを狭い空間における安寧へと追い込む効果を持つのである。その結果、私たちはIT2.0の世界において無限大の自由を得たつもりでいながら、実は蛸壺の奥へ奥へと入り込んでいってしまうのだ。これが社会の“分散化”を加速させる第一のドライバーとなる。「

さらに忘れてはならないのは、IT2.0の進展によって以上のとおり「インターネットを使う頻度は日常の中で多くなっているにもかかわらず、ますます蛸壺にはまっていく」という状況の中で、少しでも利潤を他より上げようと企業・組織が努力する結果、かえって”囲い込み“が進んでしまうという事実である。プッシュ型マーケティングのためのツールの典型であるメールマガジン、あるいは会員のみがアクセスできるblogsphereとしてのSNSがまさにその典型例である。

特に世界的な景気低迷が叫ばれる中、企業はいずれも端的に高収益を上げるべく、こうした「囲い込みビジネス」へと殺到しつつある。今や、大企業のHPであっても、フロント画面に「メールマガジン登録」のバナーを見ないことは稀になりつつある。―――正に徹底した“分散化”の時代の到来である。

このようにして進む社会の“分散化”の中で生き残るための道は一つしかない。それは、広大に広がるインターネット空間における「取り分」「囲い込んだ領地」を少しでも広げるべく、そこでにコンテンツを提供し続けることである。つまり、今正に訪れつつある新しい世界システムにおける“覇者”は、いずれも同時にこの意味での“創造者”でなければならないということなのである。

かつてIT革命という言葉があった。単なる技術革新(innovation)に過ぎないのに「革命」とは何事かと物議を醸したものである。確かにその当時(90年代後半から2000年代初頭)におけるインターネット化とはインターネット回線を広げ、高速化し、かつその上で使えるソフトウェアなどのツールを多様化させる(ブログ、SNSなどの登場)に過ぎなかったわけであり、いってみれば、いってみれば「アスファルトの道路を敷くこと」に他ならなかったのである。確かに舗装道路の登場は人間の生活を変えたことは変えた。しかし、本当にそれを変えたのは道路ではなく、その上を走る“自動車”の登場だったはずなのである。そしてたとえて言えば、現在のIT2.0時代とはこの自動車にあたるもの(コンテンツ)を多種多様に開発し、創造していく時代を意味しているのであって、ようやく「革命」にふさわしい展開が見込まれるようになったのだというべきなのかもしれない。

このように、これからの世界における覇者は“創造者”、すなわちコンテンツを創りだす者である。だが、クリエイティビティ(創造性)に長ける猛者たちであっても、徹底した創造への努力の過程においては、必ず壁にぶつかる。時代の流れが一段と速まっているIT2.0の時代では、なおのことこうした「壁」はたちまち訪れることであろう。

そうした時、創造者たちが取る手段は一つしかない。―――それまでの「常識」からして、忘れ去られていたものへと回帰することである。それでは、ここでいう「これまで忘れ去られていたもの」とは一体何なのか?

こう考える時、私は再び、金融資本主義の視点から歴史を振り返らなければならないのだと思う。そして、そこで注目すべきなのが、今、正に大転換しつつある世界システムが始まったのは今から100年ほど前であり、そこで登場したのが“大衆”という巨大な存在だったということなのだ。

すなわちこういうことである。―――現代の金融資本主義を支えているのは、他ならぬ無数の“大衆”が日々の営みで生み出している富である。これをいかにして効率よく、かつ大衆にそれとして気づかれないように巻き上げ続けるか。そのために創られたのが、現在の世界システムなのであり、その根幹には「金融」と「マスメディア」という二本柱があるのである。簡単にいえば、後者を通じて大衆の欲望をかきたて、特定の方向へと誘導することを通じ、ある金融商品へと個々人の富を“投資”させ、結果として彼らの手には戻らないようにするというのがそこにあるシステムなのである。厳しい描写であるが、冷静に考えれば、現在の世界システムとはそれ以上でも、それ以下でもないことに気づかざるを得ないのだ。

「より効率的に大衆を追い込むにはどうすればよいのか?」―――マスメディア(大手メディア)はこの問いかけに対する回答を出すべく腐心し、“より過激なものへ”“より視覚的なものへ”と殺到するに至った。技術革新がこれに拍車をかけたことはいうまでもない。
それでも当初は“創造性”の香りがそこに無かったといえばウソになるだろう。しかし、繰り返しマスメディアで流される中で、こうした視覚的であり、かつ過激なコンテンツや仕組みは、圧倒的に陳腐化し、誰も見向きをしないようになってくる(そのことは、日本のテレビ・メディアの惨状を見れば明らかだろう。「ニュースをエンターテイメントする」ことは、当初、画期的だったかもしれないが、それが陳腐化してしまったことにより、日本にはもはやニュース・メディアは存在しないに等しくなってしまっているのである)。

このように陳腐化が極端にまで進んでしまった現代社会において、「創造性」へと回帰するための手段は一つしかない。それは、素朴な人間生活、もっといえば「人間性」へと回帰することである。

とりわけその一つの潮流として既に見え始めているのが、「画像」から「音」への回帰現象である。最近になって、日本を代表する広告代理店たちが突然、インターネットと親和性が高いのは枯渇感のより強いラジオCMであると言い出したことは、業界関係者であれば誰しもがご存知のことであろう。また、いわゆるオーディオブックに向けられた熱いまなざしは、先般、オバマ候補が世界的に有名なグラミー賞を自著の“朗読”(オーディオブック)で得たことからも感じ取れることなのである。

「分散化するがゆえに、絶えず創造性を意識しなければならない時代。しかし、だからこそ結果として人間性へと回帰することが求められる時代」―――それが、これから訪れる新しい世界システムの一つのプロフィールなのである。

2008年7月11日
原田武夫記す

(続く)
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QUO VADIS?―――「世界システムの大転換」に関する私の考え(その1)

2008-07-11 18:42:39 | BREAKING NEWS
IISIAを株式会社として設立投機してから、早いもので1年3ヶ月以上が経過した。今年が世界システムの大転換が始まる年にあたることから、「今、ここで仕事をしないで、いつするのか?」というマインドの下、志を等しくするスタッフたちと共に、ほぼ休日返上で突っ走る毎日が続いている。

特にここに来て、次なるフェーズを乗り越えるための大増員を決意。3ヶ月ほどかけて新たに5名のスタッフを抱えることとした。そのためだろうか、私の生活はすっかり“経営者然”としたものになりつつある。

IISIAのクライアントの皆様にはプロダクトとして日々、マーケットとそれを取り巻く国内外の情勢分析をお届けしている。しかし、一介の経営者としてはそれを超えて、時に虚栄心の表れともとらえられかねない表層的な“言論”の方は慎まなくてはならないのも現実だ。そのため、ここ数ヶ月はこの公式ブログを通じて、世界と日本の現状に対する私自身のアクチュアルな分析を定期的に公表することを控えてきた。

だが、ここに来て日本のみならず、世界の至るところで、実は既に始まっている「世界システムの大転換」について大所高所から述べる言論が噴出し始めたようである。そのような流れの中、一介の経営者であるのと同時に、マネーが織り成す「世界の潮目」をベースにしながら、金融インテリジェンスの手法に基づき言論を展開する立場にいる私としても、そろそろまとまった見解をご提示すべき時がやってきたのではないかと判断するに至った。

以下は、そうした経緯を踏まえ、あくまでも未だイニシャルな思考に基づくものではあるが、これから起こる「世界システムの大転換」に関する私なりの考えである。


世界システムの大転換を読み解く5つのキーワード

私が思うに、おそらくは100年に一度しか生じないほどのレベルで現在進行しつつある「世界システムの大転換」を読み解くキーワードは次の5つである。

●「分散化する世界」
●「破壊から創造への転換、人間性への回帰」
●「知的財産権による覇権」
●「非炭素エネルギーへの転換」
●「日本へのパワーと資源の集中」



以下、順に御説明を試みることにしよう。

まず、「分散化する世界」について。

私たち日本人が大学も含め、学校教育でまともに習わないのが金融史から見た世界の実像である。すなわちマネーが織り成す「世界の潮目」の連続から世界の実態をつかむということなのであるが、こうした立場から1980年代からの世界史を見た時、そこに流れていた思想は一言いうと、“破壊”の思想であったといってよい。

最近、米国の現状について「軍産複合体」ならぬ「インテリジェンス産業複合体(The Intelligence-Industrial Complex)なる呼び名を提唱し、話題を呼んでいるTim Shorrockの”Spies for Hire”(2008)によれば、80年代初頭より民営化(privatization)という名の“破壊”をまずは米国で推進したレーガン大統領(当時)の発想にまずあったのは、巨大な国家軍事機構を抱え、米国と対立する旧ソ連(および東側世界)だったのだという。その意味で、レーガン大統領にとって「民営化」とはビジネスである以上に、より観念的な思い込みという意味での「イデオロギー」に近いものであったといった方が良いのかもしれない(ロナルド・レーガンは米国を代表するコングロマリットであるGEがスポンサーであるTV番組「ゼネラル・エレクトリック劇場」のホスト役を1962年よりつとめ、GE社内においてその思想を伝道する役割を負うことでのし上がった落ち目のハリウッド俳優であった。そんな彼の脳裏に、ビジネス的な観点が無かったといえば言いすぎではあろう。W.E.Rothschild「GE 世界一強い会社の秘密」を参照)。

そうしたイデオロギー色の強かったこの流れのバックボーンとなったのが、レーガン大統領によって任命され、まずは米国の政府機関を“効率化”という名目の下、切り売り出来ないかを検討するための委員会(The Grace Commission)の長となった(1982年)、W.R.Grace&CompanyのCEO・J.Peter Graceらによる活動であった。たとえば1984年に同委員会が出した報告書には2500もの勧告が記されており、1960年代より提唱されていたものの、それまで実現してこなかった民営化プロジェクトの実現が強く求められられている。イラン危機の中で政権をもぎ取り、自ら“強いアメリカ”を体現したレーガン大統領の強力なバックアップの下、ここにまずは“破壊ビジネス”が米国に根付いていくこととなる。

しかし、米国がいくら広いとはいえ、国内のみでこうした「破壊ビジネス」を展開していたのでは、やがて限界がやってくる。そこでほぼ同時期より、諸外国に対し、こうした民営化という名の「破壊ビジネス」を強制するための理論武装が行われるに至った。これが総称して「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるものである。
この「ワシントン・コンセンサス」がいよいよアジア、さらには日本へとその触手を決定的な形で伸ばし始めた重大な契機となったのが、1997年から98年までに“発生”したアジア通貨経済危機なのであった。そこに至る経緯、さらにはそこで一体何が行われたのかについては拙著「騙すアメリカ 騙される日本」(ちくま新書)に譲ることにしたいが、重要なのはそこで経済危機に陥ったアジア各国に対し、IMF(国際通貨基金)が特定の“処方箋”を提示し、各国は唯々諾々とこれを受け入れなければならなかったという政治的現実である。しかし、そこで飲まされた“処方箋”こそが、グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードへと無理やりアジア各国の背丈とサイズをあわせ、結果として米国をベースとする多国籍企業、あるいはファンドや投資銀行といった“越境する投資主体”がいとも簡単にビジネスをしやすくなる環境を整えるための巧妙な仕掛けであったことは、多くの論者がこれまで述べてきたとおりである。

その上に築かれたのが、米国による覇権構造であった。―――それでは今、過去30年近くにわたり世界を規定してきたこうした枠組みは、一体、どうされようとしているのであろうか。

日本の大手メディアは一切語ろうとしないが、今、マーケットの深遠な世界で強い反響を呼んでいるドキュメントがある。世界銀行(IBRD)が今年5月21日にリリースした「成長レポート(”The Growth Report. Strategies for Sustained Growth and Inclusive Development”)」である。この報告書は、次の時代に向けた成長戦略を世界銀行が探るにあたり、ノーベル経済学賞受賞者であり、現在はスタンフォード大学教授をつとめるMichael Spenceを筆頭とする賢人委員会に討議を依頼し、2年半にわたる議論の結果、とりまとめられたものである。


(Michael Spence (出典:Wikipedia))

その中に次のような一節がある。

“The countries to whom this report is addressed all share a need for faster growth. But they are not otherwise alike.” (P. 8)

極めて短い一文ではあるが、その衝撃度ははかりしえないものがある。なぜなら、この一文をもってそれまで経済成長というと「聖典」であるかのように扱われてきたワシントン・コンセンサスという一つの処方箋の画一的な適用が否定されてしまっているからである。実際、この報告書では単一の処方箋を提示することなく、戦後世界における経済成長例をサンプルにしつつ(その中には当然、日本も含まれている)、全体で4つの望ましい成長パターンを提示しているのである。

それだけではない。この報告書には次のような一節もある。

“That government is best which governs least”, as the motto goes. Fifteen years ago, much of the discussion of government shared this presumption in favor of smaller government and freer markets. Its policy conclusions are captured in the phrase; “Stabilize, privatize, and liberalize.”
While there is some merit what lies behind this prescription, it is an extremely incomplete statement of the problem.” (P. 30)


繰り返し言うが、「ワシントン・コンセンサス」という一つの処方箋を経済成長のための唯一絶対的なものとして掲げ、これに合致しない全てのものを他国の政府に切り捨てさせ(=民営化させ)るというのが、これまでの米国による世界運営のやり方であった。しかしそれが「この問題(=経済成長)に対する甚だ不完全な言明」であると糾弾するのである。―――これを“潮目”といわずに何と言おうか。

かつて90年代後半に米国政府の財務長官をつとめ、ワシントン・コンセンサスの旗振り役でもあったRobert Rubinすら参画しているこの委員会による報告書はさらに、必要なのは「小さな政府」ではなく「効果的な政府(effective government)」であるとし、それは結局のところそこにより集う個人の才能(talent)である以上、「ふさわしい人材を集めることが先決だ(Recruiting the right people is a start.)」と断言する(P. 66)。このようにして、米国が書いた画一的な処方箋から解放され、優秀な人材という“頭脳”を抱えた政府を筆頭とする形で、世界の国々は米国によるクビキから解き放たれる。―――つまりこの意味で世界はまず、“分散化”するのである。

2008年7月11日
原田武夫記す

(続く)

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