津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■九州御動座記(ニ・1)

2017-05-04 09:35:44 | 史料

廿八日 九州之内 赤間関より海上 舟付
一豊前小倉迄      三里
廿九日
一同国馬之嶽      七里
  但中一日御逗留、此馬ノだけは長野と云侍数年相踏たる山城也。二千計の人数持也。
  去年より無二ニ御味方申仁也
四月朔日        
一同国巌石ノ麓迄    六里 
  此がんじゃく無隠名城也。高山ニ而つづく山なし。然を蒲生飛騨守・前田孫四郎両人として被申請。 
  是非共両人ニ城責の儀被仰付候様ニと達而被申、先陳を給候て被押詰候へ共節(ママ)所の事に候へは無左右乗破難き
  処ニ、上様右之山の麓迄陳かへニ而助勢ニ丹波少将をさし被加候。以其競御陣替之日四月朔日ニ落城。丈夫ニ難相支
  候御馬之前之事ニ候ヘハ四方より乗込大将を始一人も不残被討果候。此城ハ筑前の国主ニ秋月と云者の取出也
           
(参考)綿考輯録にみる秀吉の九州平定・1
二日
一筑前尾熊       四里
  此所ニ中一日御逗留中ニ筑前ノ国主秋月居城を浅野弾正・森壱岐守ニ相渡候てかしらをそり、父子共ニ御礼ニ罷出候。
  此秋月と云者、筑前一国と筑後半国・豊前半国ノ屋形と被仰候て、今迄廿一代世をたもちたる侍也。秋月云所非海道、
  山中節所ニて旅人なとの通用稀ニ而、他国ヘハ其名の不聞者也。秋月ハ在名則古所と名を付候。家数数多なる所也。
  数千間何レもをたゝ敷体也
四日         山路也
一同国秋月迄      四里
  但中五日御休息ニ而咲へ兵糧の調儀なと被仰付候。爰ニ而秋月息女十六ニなる人質ニあけ、其上ニ日本ニ無其隠なら
  しばと云かたつき金百両・八木弐千石進上申候得。彼秋月事ハ今迄相構表裏立身ノ者ニ候間、命をたすけさせられ候
  上ニハ何を進上申候ても御不足ニ思召事候
一筑後高良山迄     六里
  但此所へ肥前国主竜造寺と云仁御礼申上候。此竜造寺ハ肥前一国と筑前半国の主也。元来嶋津親の敵ニ意趣雖在之時
  の権に随候而、近来ハ属嶋津ニ候へども去年御味方申上無二ノ者をかんじ被思召候て、九州御国分の時も肥前一国御
  扶助候、九州ニ而第一の大国也
十一日
一肥前南関迄      八里
  但中一日御休息
十三日          舟入
一同国高瀬迄      五里
  但此所ニ舟渡有。大雨降て中二日御逗留被成候
十六日
一同国隈本迄      六里
  但此所は肥後国ノ府中也。城十郎太郎と云者相踏候。数年相拵たる名城也。五千計の大将さしも嶋津一方のかためを
  為頼侍といへとも就御動坐無一支居成ニ降参申証人ヲ出御味方参候。爰ニ中一日御休息候事
十八日
一同国隈庄迄      六里
十九日          舟付へ一里
一同国八代       八里
  但此地ハやつしろとて無隠名城也。瓦崎舟ニ八ツ城を拵候所也。嶋津身二かハらさる者数千人入置雖相防恐御動座無
  一支敗北候。先鋒追懸数多追討ニ申付候。此所ニ中四日御逗留被成候事
廿四日
一同国田ノ浦迄     五里
廿五日          舟付
一同国佐敷迄      三里
廿六日          舟付
一同国水又(ミナマタ)迄  六里
廿七日
一薩摩出水迄      四里
  但此所ハ無隠名城ニ而嶋津名字惣領ニ薩摩守と云侍相抱候。五千ノ大将・数千間家数在之大庄也。就御動坐無一支人
  質ニ実子ヲ奉候て降参申候事。爰ニ中二日御休息也
五月朔日
一同国あくね迄     六里
二日
一同国高城(タキ)迄   六里
三日           舟入
一同国大平寺迄     壱里
  但此所より嶋津居住鹿児嶋までハ相隔十里余たる。既可被寄御坐之由候処ニ日向口中納言殿(秀長)へ嶋津降参之御
  詫言として家老ニ伊集院右衛門大夫走入ニ付而中納言殿より嶋津命ノ御懇望ニ付而鹿児嶋へ之被止御動坐候。就ては
  同八日ニ嶋津修理大夫義久かしらをそり出仕申。家老共四五人同黒衣ノ姿ニ而御礼申上候。猶証人ニ実子十六ニ成息
  女出候事。是より可為御帰坐ヲ今少山際なとニ構節所嶋津にも不随就在之被成御坐候事。
  爰ニ中十四日被成御逗留候也
          
参考 綿考輯録にみる秀吉の九州平定・3
十八日
一同国平佐迄      壱里
  但雨降。中一日御逗留被成候
廿日
一同国山崎迄      六里
  但雨降。中一日御逗留被成候
廿二日
一同国鶴田迄      四里
  但爰ニ中三日御逗留。此所ニ而嶋津修理大夫弟兵庫頭御礼申上候。此兵庫ハ修理弟なから五三年以前より家をゆつり
  候。是も義久男子無之故義久同前ニ大平寺ニ而御礼可申上之処ニ中納言殿と上様二手ニ御働被成候て日向口を相防候
  故延引申鶴田ニ而出仕候。剋兵庫惣領十五ニ成男子人質ニ出候事
          
参考 綿考輯録にみる秀吉の九州平定 4・了
廿六日
一大隅曾木迄      四里
  此所ニ而新納武蔵守出仕申候。継而御礼申上之処ニ無事ノ果口を不知候事を義久、伊集院ニ不足ニ付而嶋津落著の後
  まで御敵を申候キ。嶋津家老と申なから武者の覚、又人数持候て千石権兵衛尉討負候時武蔵守先陣と相聞候。
  此所より還御なり
    以上百九里也
   都合二百四拾六里
  右是迄御道行分也。何も丗六町積ニ書付候。筑紫の内ハ五拾町壱里ニ候。引合算用候ヘハ勿論三百里ニ余候。右之曾
  木より還御也。道ハ前の道ニ而候間次第不能具候
        
  

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