津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

「阿部一族」--後日談・・2

2008-02-03 10:35:35 | 歴史
 「阿部一族」誅伐の討手に選ばれた竹内数馬は、選任された時討死を覚悟した。それは藩主光尚の側近林外記の指図によるものだが、外記の陰湿な企てによるものである。兄某も数馬の助太刀に入ったが、数馬の死を止められなかった事を理由に謹慎の処罰を受けた。討手の次将の証言により、一番の働きとされたのが栖本又七郎だが、本来は違反行為であり、藩庁の処分のいい加減さがうかがえる。近所に住まいした山中某は「火の用心」に気をつけるよう沙汰されこれに勤めたが、栖本の働きが評判を呼ぶと一変白い目で見られるようになる。居たたまれなくなった山中は、離国を願い出るが、光尚から止められている。あの山中鹿之助の子孫である。事件の処分に筋の通らない曖昧さがある。

 光尚の歿後、側近で大出頭人の林外記は当然殉死するだろうと囁かれた。その気配はうかがえないし、重臣某は「夫々の想いがあろう」と擁護すらしている。
数ヵ月後、佐藤傳三郎なる者が外記の家に討ち入り、外記を討果すという事件が勃発した。傳三郎は、嶋原一揆の折、幕府軍大将板倉重昌に付け置かれ名誉の戦死を遂げた伊藤十之允の嫡子である。従兄弟左内も傳三郎と行動をともにし討ち死にした。事件の原因がハッキリしないが、傳三郎は処罰される事はなかった。はたして何が原因であったのか。かえって重臣某の労いの言葉があったというから、不思議な話では有る。光尚存世時の諸書状に外記の名前が数多く見受けられ、その権勢振りがうかがえるが、光尚の死とともに家老による治世に移行すると、寵臣外記の存在はもろくも崩れ去った。わずかに残る史料からは、事件の深淵にたどり着く事は不可能である。

  ・佐藤傳三郎(実・伊藤十之允嫡子 母方の祖父佐藤将監の養子となった)
     御児小姓并御伽衆共 三百石 (肥後御入国宿割帳)
            三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
     慶安三年七月朔日林外記を討果たす

    ・同上事件参考文書:林外記打果し書付 (写・上妻文庫-90等)

    ・林外記(ニ)意趣有之、慶安三年外記宅にて討果候、其時伊藤左内も罷越・・
     左内ハ伊藤十之允兄次兵衛子にて、伝三郎とハ従弟也 
                             (綿考輯録・巻60-P256)
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