津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■幽齋女加賀殿のDNA

2016-10-18 10:35:48 | 熊本地震

 細川幽齋女・加賀は豊臣秀吉室高台院の甥・木下右近太夫延俊に嫁ぎ三人の女子を生した。(継嗣は側室の子)
高台院から随分可愛がられたという。
於岩は 松平忠重(上総佐貫→駿河田中→遠江掛川藩主)室、於豊は 本家・木下利當(備中足守藩主)室、於栗は梅松院室となった。

於岩が嫁いだ松平忠重を調べていたら数代下って、又細川家に繋がっていることに気づいた。

                                                                    +---加藤明尭(水口藩主)
                                                                   
忠重---忠俱(遠江掛川→信濃飯山藩主)→忠喬(信濃飯山→遠江掛川→尼崎藩主)→忠名(尼崎藩主)---+--
忠告(尼崎藩主)
                                                                   
                                                                    +---土井利厚(老中・古川藩主)---栄昌院
                                                                                            ‖
                                                                                         細川立之(宇土藩主)・・・立政(齊護) 

 細川立之は宇土細川藩の八代藩主である。父は立禮、義兄である本家九代藩主・治年の跡をうけて十代齊茲となった。
その為わずか四歳で宇土細川藩の藩主となった。享和二年老中土井利厚女・福姫(栄昌院)と結婚した。木下岩姫から五代目の孫である。
細川本家十代齊樹の病が重篤になり、立之の嫡男立政が養子として宗家を継承した。十一代・齊護である。
この立政が本家相続するに当たり、生母・栄昌院が立政に送った書簡がある。「齊護公へ御教訓の書」とも呼ばれるものである。

 

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 このたび存じがけなく龍之口ご相続の儀、まことに御身においてこの上もなき御誉、この身迄も面目これにまさり候こと無く候 ついては御心得の端にもと及ばずながら書き付け候 第一御身もち正しく人々に情深く公の御勤め怠りなく、御家ご大切にご家風みだれざるよう御政道能々お心かけられ、大小のこと共御家来中衆議をお聞置き得中、ご勘弁の上にて取り行われ万事ご一存にて無きようお心がけらるべく候 ご家来中多く候えば万事御心くばりのこと共に候わんか、いかようにお心を労され候でも御落度なきよう能々お心得ありたく候 御大国の御あるじとなり候ことは容易なきことにてはなく候あいだ、よくよくご思慮ありたく候
まさに日々のおこないには毎朝ご神拝の後、ご先祖様のご拝礼一日も怠りなくご養父様は御存生の如く何ごとも置かせあそばされ候ことは当分そのままに御改めなく随分ご大切にあそばされ候と人々も存じ候様になされ、何ぞのかど目にはまづご吹聴仰せあげられ候ようにありたく候 自然ござ候はぬお方はついつい御礼儀も疎かになり候ようのこともありがちなるものゆえ、能々ご失念無くお仏参りなどは尚更御怠りなきようにと存じ候 御暇々にはご学問お心にかけられ弓馬諸芸ともにご出精なされ、ご家中の励みにもあいなり候ようにと思召しにてご自身ご出精第一に候 御前様へは能々朝夕になにくれとこまやかにお心をつけられますよう、このところはこれまでも私へ御仕え候もこまやかに候へば安心に候 お上にはことのほかご孝心に居られそうろうだん承り及び候へば、尚さらその心にて万事ご孝行を尽くさるべく候 奥方様おいでの後はことさらに奥向最初よりよく取締り、乱りがわしきことども随分御慎みなされ、自然召遣いの人などでき候とも常々も申し候とおり我ままにならぬよう姑より能くお仕置き候よう、家風など乱れ候は兎角寵愛の過ぎ候より起り候 唐土にも大和にも昔より様々のためし有り候ことに候ゆえ、このところ能々わきまえ召遣われ候よう専一に存じ候 若きうちは随分と慎み深き人も年積りて却つて心緩み我儘募り身持悪しくなり候も間々あり候 なにごとも自然と御心にまかせ候節にいたり、御慎み肝要に候 無益の御驕りなど無く候ようなに事もこの方にて是まで種々心苦致され質素に暮しおり候を、かつてお忘れなく身に不足なときには昔のことはついつい忘れ候ままくれぐれも元を忘れぬよう朝暮お心にかけられ、だいたいお家のためご大切にたることをしばしば思召し忘れず候よう、第一にお心かけらるべく候 このたび加様に御めかねにて御譲りなされ候御家ご大切たることは幾度も申し候如く起臥にもお忘れあるまじくと存じ候 泰崇院様遠行ののちは別して此方家来共々入に心を砕き、丹精をこらし勤めまいらせ候人々のことをも思召しだされてしかるべく候 これ迄も孝心深くかねがね家居をさへ一つに住居候ようにとまで思召され候お心差し恭くとも嬉くとも言葉なく、さばかりのお志を頼みにてかかることとも書記しるし候 必ず別れ候てもその志空しからず候は、このしるし候こととも能々御守りたまわり、万事御身を慎み永く人々の尊敬したてまつり候ように御取治め下され候は、いかばかりの喜び、且は此方御先祖様・泰崇院様・寛敬院様までも御誉たるべく候 まことにかい無き心にてただただ心りに候へば、存じ候方端をだにとしるしつけ候まま、対面と思召しこの書折々ご覧賜り候べく候 御身養生専一に候へばこれ迄のとおり灸治等をも役目にて御すえなさるべく候 すすめ候人無きちきは怠り申すべく候 何くれを案しられ候あまりに、かかる事迄書き付け候も心のやみにて候 お許し賜るべく候 あなかしこ

        中務少輔殿                         栄昌院

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 立政は文政九年三月二十九日本家相続を命ぜらる。同四月十八日越中守と改む(23歳)
尚、栄昌院は立之の嫡男・雅之進(のち慶前)が、天保五年正月本家に入るまで(当時10歳)、その養育に尽力した。宇土細川家は栄昌院の二男・行芬が襲封した。
この文章は細川護煕夫人佳代子様が講演等でよくお話になるとお聞きする。護煕様に栄昌院様の血が流れていることは紛れもない処である。

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