津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■亥の子餅

2016-11-02 11:02:40 | 徒然

旧暦十月の亥の日には「玄猪の御祝」が行われ、亥の子餅を食べる習慣があった。今年は11月1日にあたる。歳序雑話には次のようにある。
十月以亥日曰玄豬為佳節、入夜有拝賀、賜餅於群臣、亥日有或二或三、有三則用中亥日、有二則用初亥日、為倭国古今之礼節、上自朝廷下至民家 
(十月の亥の日を以て玄豬といい佳節となす、夜に入りて拝賀あり、餅を群臣に賜う、亥の日が或いは二回或いは三回ある、三回有る時は中の亥の日を用い、二回有る時は初の亥の日を用いる、倭国古今の礼節となす、上は朝廷より下は民の家に至る)

細川家においても規式としての定めがあり「年中行事抜粋」(四十一)玄猪御禮之式にその詳細を見ることが出来る。

綿考輯録第一巻p57(出水叢書)にある史料によると、もともと各家で「玄猪の御祝」が行われていたことが伺えるが、特に細川藩では下に記すような由来を以て規式化されたことが判る。

(前略)有吉将監立言は京都御屋敷御長屋ニ居候に、御出陳玄猪の日にて、立言餅を祝ひ立出ける時、妻心付、殿にも御祝可然と申て急なる折節故、器物も不有合、山折敷の有けるに乗せ持出候へは、藤孝君はや御馬に召れ候所に、玄猪の餅御祝被成候へと云て差上けれは、御出馬の折節、玄猪は能心付也と被仰馬上にて御祝、目出度御帰陳可被成と仰候、即御勝利なりけれは、御帰陳の上にても猶御賞美被成候、後々まて山折敷にて玄猪の餅差上候事は、段々御領知も重なり、旁以御吉例に被思召候に付、向後無懈怠差上候へとの御意有之候故と (綿考輯録第一巻p57)

猪は多産であり子孫繁栄につながる為、武士にとっては大変大事な行事であった。
今日は牡丹餅でも買ってきましょうか。
ちなみに季語としての「亥の子」は「冬」として扱われている。

     夏目漱石に次の句がある。  到来の亥の子を見れば黄な粉なり  

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2 コメント

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玄緒私見 (有吉登聖)
2016-11-04 04:55:32
大変ご無沙汰いたしております。
玄猪の祝は宮中では古くからされていたようです。私の師事する茶道のお家元は炉開の際に亥の子餅を食べるのは宮中の例に倣ったものと言われています。先代お家元も炉開きの亥の子餅は宮中の例が民間に伝わったものと書いておられますから、京都ではそのようにお考えのようです。
私は武家が玄猪の祝を大切にしたのは、子孫繁栄の意味もあるのかもしれませんが、イノシシが摩利支天の使い神であるからと思います。
摩利支天は陽炎の神格ですから、突いても切っても傷つかず、火を放っても焼けない、不死身です。そのため、武家は摩利支天を信仰しました。出陣が亥の日であれば、摩利支天にあやかるため、亥の子餅を食したようで、その逸話が幽斎公に玄猪の餅を差し上げた立言の話でしょう。
江戸期に入り、戦がなくなってからは、摩利支天の不死身性から不燃性へ信仰面が強くなったのでしょう。亥の月亥の日は今の11月初旬にあたりますから、さすがにその頃には炉を開けないと寒いのですね。昔は出火が一番の災難でしたから、炉を開く、火を室内で使うことには特段気を遣った訳で、それで摩利支天にあやかった日に火を使い始め、使い神にあやかり猪子餅を家臣に与えたのでしょう。
Unknown (津々堂)
2016-11-04 09:25:46
ご教示有難うございました。
古い行事や言い伝えが忘れられていく中、折に触れこのような事に思いを致して参りたいと思います。
立言公の奥方様のさりげない行いが、映画のシーンのように目に浮かぶ思いです。
「イノシシが摩利支天の使い神」であったということ、誠に勉強不足で御座いました。御礼申し上げます。

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