津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

江戸証人のこと-- 1

2008-09-12 11:45:14 | 歴史
 【熊本県史料・近世編一(部分御舊記・証人并預人部)p467~】から、江戸初期の証人の事情を見てみたい。

 細川忠興が最初に証人として五歳の三男内記(忠利)を江戸に下らせたのは、慶長五年(1600)のことである。次に、これに代わって二男興秋を下らせようとしたが、途中興秋は出奔する。これは興秋の悲劇の始まりでも有る。長岡(三渕)平左衛門重政(藤孝の甥・弟好重の嫡子)が代わった。そして慶長十六年(1611)、忠興の生母光寿院(麝香)が江戸へ下り、長岡重政は豊前へ帰ることと成る。
 元和五年(1619)正月、忠利の弟天千代(忠興五男・元和三年正月生まれ)が江戸へ下り、その後二十二年の長きにわたり江戸で暮らすことに成る。刑部少輔興孝、島原の乱への参陣の願いも入れられず、忠興とも不仲であったと伝えられる。
 そして、興孝に替わり同母兄・立允が江戸へ下ることになるのだが 、これらの事情が次ぎの文書から伺える。
 【文書1】
 「寛永十六年妙解公(忠利)より酒井讃岐守様江被進候御書」
九州なミ次第ニ可仕哉右のことく三月中ニ其元へ参候様ニ可仕哉御内しよう承度候而如此候已上

態申入候我々罷下事三月末ニ江戸へ参著(ママ)候様ニとの御事得其意存候 左候ハヽ二月末ニ可罷出候 次ニ近国之衆正月のすへ二月早々可被上様ニさた仕候 何もはやく可被上候ハヽ我々もはやく可罷上候哉但三月中ニ上候様ニ可仕候哉此段計かたく候間御内談仕事候 此中八代ニ参候 三齋一段無事ニ被有候 其元ニ人じヽニおき申候我々弟の事三齋中たがい切申候間左候へハ其元之人ぢヽいかヽニ候間我々おとヽ立允と申を江戸へ召連下候よし被申候間何も御指図之事ニ候へハ少も我々事も無之と存候てい申候つる 万事三月以面可申述候 三月末ニ罷著(ママ)候へハ二月廿四・五日中ニ在所を罷出可申と内々存候 又何も次第ニ早くとの御返事候うへはいつ比たるへきも不存候 恐惶謹言
                       細越中(御判)
   二月九日
       酒讃岐様
            人々

 忠利は江戸における証人の時期に、家康・秀忠の知遇を得た。家光とも仲がよく、其の事が細川家家督へとつながっている。興孝は二十二年という長きにわたり江戸に置かれたが、父・忠興への不審が仲違いにの原因となった。肥後帰国後の隠居も、忠興への無言の抵抗であったろう。

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