津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■元田永孚誕生地碑は何処へ?

2015-05-14 18:59:44 | 熊本

                                                                            新しいウィンドウで写真1の拡大画像を開きます

 明治天皇の侍講を勤めた宮内官僚、後に「教育勅語」を起草したことで知られる元田永孚は、文政元年の生まれだがその場所は現在の地番では桜町三丁目あたりだとされる。昭和14年元田永孚誕生の地の碑を建立するに当たり、旧屋敷跡の場所を特定して、当時建設された専売局の東側、南出入り口前に建てられた。その後「岩田屋伊勢丹」デパートの新築にあたり一階の南面壁面に動かされた。
のちに県民百貨店に経営が移ったが、今般桜町一帯の大規模な都市開発事業により交通センターを含めて取り壊されることになった。
さて、この「碑」の運命はどうなるのであろうか・・・・・
                       元田永孚生誕地(もとだながざねせいたんち) 熊本市

        明治ノ功臣甚ダ多シト雖モ就中文勲第一ト称セラレル者ヲ吾ガ元田永孚先生ト為ス。先生ハ文政元年十月一日熊本城下山崎町ニ生ル。
   安政五年家督ヲ継ギテ大目付ノ職ヲ奉ジ、後屢累進シテ側用人兼奉行ト為ル。而シテ此ノ地ハ明治元年城東大江村ニ隠棲スルニ至ルマ
   デ、先生五十年間ノ居宅ナリ。明治三年再ビ廬ヲ出デ明年藩公ニ召サレテ上京ス。先生既ニ西帰ノ志アリ。偶知友先生ヲ明治天皇ノ侍講
   ニ推サント欲ス。固辞スレドモ可カズ。五年五月宮内省出仕ヲ拝命シ、爾来二十年蹇蹇匪躬沃輔導ス。若シ夫レ勅語発布ノ獻替ニ至りテ

   ハ、贅スルヲ須キズ。二十四年一月二十二日歿ス。年七十三。前日特ニ華族ニ列シ男爵ヲ授ケラル。本会邸阯ノ湮滅ヲ□レ碑ヲ建テ聊カ
   先生ノ行歴ヲ書シテ長へニ景仰スル所アラシム
              昭和十四年二月                               熊本県教育会 

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3 コメント

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Unknown (三左衛門)
2015-05-15 10:21:15
青山霊園に元田先生の墓所がありますが、前の震災のためか、倒れそうで墓域は立ち入り禁止のテープが貼られていました。
元田先生生誕地碑の所在 (徳永洋)
2019-12-07 22:31:47
元田先生生誕地碑と解説文碑は、熊本市琴平の産交
バスの車庫(屋根なし)に捨てられたように置かれていま
す。嘆かわしいことですが、四年前の熊日新聞記事では一時撤去し産交ホールディングス開発部は、再設置すると言っていましたが。守られていませんが、申し訳程度に
新しい桜町のビルの地下の隅の壁に解説文碑を丸写しにした文章を書いた、うすっぺらな碑を埋め込んでおり、これで終わりとしたい意向です。
徳永洋先生 (津々堂)
2019-12-09 16:16:23
過日のTVで放送していましたが、余りの扱いに唖然としています。熊本からこうした記憶がだんだん消し去られていく事に大いなる危惧を感じております。

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