津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

書状を読む(八) 烏丸一家を歓待す

2012-05-27 09:43:43 | 歴史

                                         (657)

寛永五年三齋は愛娘万(烏丸光賢室)一家を中津に招いて歓待している。
その経過を書状により追ってみる。

・正月廿九日書状(620)
    万三月初京を立候て當地へ下ニ付 迎船二月廿二三日之比上せ申候 五十丁立之舟ニ屋形
    ノ御入候を船頭一人のせ候て借可給候 櫓を一はい御たてさせ有へく候 水夫ハ此方
    ニ存之事

・二月廿五日書状(630)
    万迎ニ遣候五十丁立之船給候 一段能舟ニ而祝著候

・三月二日書状(631)
    (前略)烏丸宰相殿京を来八日ニ発足之由候 此分ニ天気能候は 當中旬比可為著船と存候
    期面之時候 

・三月十五日書状(632)
        (山田)喜齋事去一日二日之時分京を出候由于今不下候 ふしんニ存候 上関まて迎
        舟を出し置候へとも其左右も無之候 已上
    万下候事侍従(資慶)疱瘡故延引候 はや験にて去八日ニ湯をかけ候由注進候 来廿日
    ニ京都可有発足由候 當月合時分可為下著と存候 廣嶋より参由候て 西條之枝柿一箱給候
    則賞玩申候 味勝候 満足申候

・四月三日書状(633)
    (前略)侍従殿船中にて風邪ひき候てハとの用心ニ相延 今日三日京発足之由候

・四月九日書状(634)
    海上仕合能昨日八日宰相殿(光賢)御著候 然は内々申候 能来十四日ニ興行可申候條 其方
    次第来儀待入候 為其申候 

・六月廿五日書状(650)                  
    如承 宰相殿上ニ天きよく喜悦候 上ノ関まて送ニ遣候者帰申候 二日めニハとも(鞆)
    かしもついまて可為著と申候

・七月七日書状(656)
    (前略)                 今夕御慰と申候へ共 當地ニハ乱舞之事なく候へ
    ハ別ニ何事も無之候 花火仕候者給候 烏丸殿へ此よし申候ヘハ満足かり不大形候 
    我々も見物可申と喜悦候 小倉より参候舟も帰朝之由珎重候 めつら敷花鳥参候由候侍従
    殿逗留之内ニ参候ハゝ鳥を見度由にて候間少之間御かし有へく候 (以下略)

・七月七日書状(657)
    追而申候 車火・りうしや・ねすみ火初ニ見申候 事之外慰申候侍従殿(資慶)其外子たちの面
    白かり無申計候 此地ニハ何も見せ申遊無候 此比ハ徒然處持給候 満足申候

・七月八日書状(658)
    (前略)   万宇佐へ社参申度候間明日召連参候  

・七月十八日書状(662)
    (前略)   万遣舟之祝儀ニ来廿五能興行可申候間 加平次・かすや新九郎・狂言兵吉
    廿三日ニ當地(中津)へ著候様ニ可給候事

・七月廿六日書状(666)
    万上ニ付色々子たちまて被遣一段満足かりにて候 珎鳥とも御みせ候 かうちのきし
    めつら敷候 侍従殿へ鳥三ツ御やり候 禁中へノ進物ニ可仕との事にて廚鬚箸蕕豸
    残ハもとし申候

・八月十二日書状(667)
    万は九日ひる時分大坂へ著候由申来大慶候 よろこひ事ニ四五日中ニ能可仕と存候事

                            (完)

 

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書状を読む(七)  上級家臣閨閥誕生の経過

2012-05-27 09:30:28 | 歴史

 細川家代々三家老の一有吉家四代目興道は、元和四年九月二日三十六歳で亡くなっている。この書状に登場するのは有吉家を相続した弟・立道
(後・英貴)のことについてである。  

     元和八年五月十四日書状(338)

         已上
  小倉より幸便之由候間申候 有吉平吉(立道・英貴)女房共煩候て相果候 然者藪小吉所へ遣候
  伊賀殿(三渕好重)むすめ之いもと候て それを遣度候 但其方無用と被存候ハゝ遣ましく候 六兵
  (朽木昭貞)むすめ果候てから十日之内にて候間 もちろん平吉ニも又いか殿むすめかたへも何
  共不申候 同心ニ候ハゝ来冬之時分可申出候合點之上なりとも先々さためられ候ましく候 無同心
  ハ不及申候 恐々謹言      
                          三齋

          五月十四日           宗立 花押
              内記殿
                 進之候  

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 元和七年十月十八日書状(319)において三齋は「家中縁邊之事我々可存わけにて無之候事」と書き、関知しないといっている。
ところが有力家臣の独り者のリストを準備させるなど、この書状はまったく反故にされている。
隠居して暇をもてあましている三齋は人事や家臣の縁辺(結婚)について差配している。

上記書状も「 其方無用と被存候ハゝ遣ましく候」と書いてはいるものの、忠利の反対はないことを見越してのことであることは自明のことである。
立道の奥方がなくなってからわずか十日後のことであるが・・・・よほどお暇と見える。

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三渕好重(元和三年九月十五日・没)には今一人の娘がある。母恵光院(細川藤孝女・栗)も、寛永二年二月(カ)亡くなった。
同年二月八日書状(790)
  恵光院むすめの事しんるい共ニ可然と存ものを書上候へと被申付由尤候 恵光院かきを
  かれ候文進之候 如此被申置候ニ付て申たる儀候事 

妹・恵光院の思いを入れての三齋の寛永七年三月廿一日書状(800)が有る。
  恵光院(好重室・藤孝女 栗)娘之事申置之通かたり候處 右馬助(三渕重政・好重嫡子)・
  頼母(有吉立道)夫婦ニ被申聞 谷内蔵助(衛長)所へ被有付由珎重候

そしてその慶事については寛永七年四月十七日書状(807)でわずかに触れられている。
  藤十郎(三渕重政弟・宗由)妹 谷蔵人(衛長)へ被申合由 親子共可為大慶事  


 
細川・三渕(朽木)・有吉・藪・谷家 略系図

      +---三渕藤英----朽木昭貞----------●
    |                          :
    +---細川幽齋----忠興            :                                        
    |                                        有吉平吉(立道・英貴)
    |                          :
    +---三渕伊賀守好重 ------+---------●妹
                              |
                        +--------●姉
                       |       :
                       |   藪 小吉(市正)        
                       |
                       +--------●末妹
                              :
                       谷 衛長           元和八年忠興の意により小倉に下り忠利に仕う。知行千石・番頭
                                       寛永八年五百石加増。寛文四年致仕、同閏五月没         
                                       参考:丹波山家藩・谷家の跡目騒動

 

 

               +--大隈       +--右衛門==丹左衛門---兵左衛門---丹左衛門---源太---隼之允 (九十郎家)
               |           |
  藪伊賀守----内匠--+--図書--------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允 
(一家)
               |           |
               +--三左衛門    +--熊之允(御暇)
               | (紀州藪家)   |
               |           +--丹左衛門(兄・左衛門養子)
               |
               |           +--源太左衛門(男子なく断絶)
               |           |
               +--市正--------+--惣左衛門----弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎  
(市太郎家)
                            |                        (槙庵)  | (槐堂)
                            |                              |
                            |                              +--茂次郎  
(小吉郎家)
                            +--権左衛門(男子なく断絶)               (孤山)

                          

                                 
                      

                               

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上田秀人の「奥祐筆シリーズ」

2012-05-26 10:30:13 | 書籍・読書


  

                                     密封 (講談社文庫)
 
       講談社

 大日本近世史料・細川家史料を見ると、その量の膨大なことにびっくりするし、その内容の緻密さ、また重要案件が余すところなく記されている。
近世初頭の歴史研究の上で必要不可欠な一級史料である。
これらの書状がすべて自筆で書かれたものでない事は、その内容からうかがい知ることが出来るが、祐筆によりかかれたものが殆どであろう。
忠興は息忠利に対して、「隠密なる事は自筆にて」と諭している。家中の重要事項をつぶさに承知する事になる祐筆は、単なる書記という職務に留まらず、
政治の裏舞台のみならず藩主の私的な部分、内証事を含め極秘事項を扱う特殊業務でもある。信頼をベースに君側にあるということであろう。

 ここに紹介する本はシリーズで数冊が出ているものらしい。悪友からの推薦もあってちょっと読んでみようかと思っている。
日ごろは裏舞台にある人が、事件に巻き込まれることもあるであろう。小説の世界ではあるが教えられるものも多いかもしれない。 

 

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書状を読む(六) 忠興の眼病・二

2012-05-26 08:54:59 | 歴史

 八月二日の書状(168)では、去月廿六日の忠利からの書状は光壽院危篤の報であり、併せて土井大炊から帰国を勧められていることをうけ、是に対し
 苦労をして廿九日に吉田に着いた事を記し「死に目二も逢申間敷との儀候哉」と辛い心情を吐露すると共に、「我等心中御推量候而可被下候 取乱申候
 間一書ニ申入候」と曽又左・谷羽州・内記(忠利)・玄蕃・木右衛門宛(連名)に書状を発している。
 じつは七月二十六日に光壽院は逝去しており、この書状を発する時期はすでに五六日ほど経過しているのである。

 八月四日将軍秀忠は一色左兵衛尉範勝を使として豊前に差下し忠興に対し御書を賜っている。(綿考輯録)

   光壽院死去之儀愁傷之段察入候 委細相含使者口上候 恐々謹言
      八月四日                   秀忠 御判
              豊前宰相殿

 又江戸屋敷には上使土井大炊頭が訪れ弔問した。 将軍秀忠は七日の間御目見を止め、囲碁・将棋などさえ慎んだとされる。

 家臣道家傳三郎により光壽院の逝去の報がもたらされての返報が八月十八日書状(169)である。(抜粋)

   光壽院殿之儀心中可有推量候 乍去我々在世之内ニ御遠行ぬしの御ためニハ御果報と存候
                         (中略)
一 御顔かゝせ給候此方にてはや申付候事
一 我々事葬禮過五十日明次第京都迄上り 目之養性仕候てから其地へ可下候 とても百ケ
   日之内ハ 御前江罷出候事不成候間右之分ニ存候事
一 我々目之儀かくのことく能候つる間舟ニのり候共起り候間敷と存候處ニ 今度之気遣 又
   鹽風事之外毒ニて目少おこり候 先書ニ如申候 左之能方之目大法印療治之内より ひとみ
   の玉上下へ長ク両わきへほそく成 事之外かすみ出候處大坂之慶圓療治ニにて十之物九ツな
   をり丸ク成申候 其位ほと見え出候處ニ今度之上下ニ又上下へ長ク成申候 前之程ニは無
   之候へ共又かすミ出申候 只今無養性ニ候はなおりかね可申之由申候條気遣可有推量候
   如此ニ候間當國にて養性可仕きり上度候へ共 事を左右ニよせ在國仕度様ニ申なし候てハと
   存候間 法夏過次第上り吉田にて養性可仕と存候 只今之醫師申候ハきりやきの療治不
   仕度は悪く罷成候由申候間吉田ニ逗留之中ニ見合きりやきを可仕と存候 此ケ條能々大炊
   殿へ其方物語之様ニ可被申候 目之次第此紙面不違様ニ可被申候事
                         (以下略) 

 八月廿八日書状(173)においては(抜粋)

一 我々事一昨廿六日にて法事申付 廿七日可出船と存候處ニ不寄存儀出来ニ付一両日
   相延候 いかさま頓而出船候事
一 右ニ如申候我々目いまた十分ニ無之候間京にて養性仕それより可致参上覺悟ニ候 同は
   當地にて目のきりやき仕罷上度候へ共 さ候ヘハ國を出候事遅様ニ候條 先いそき可令上洛
   と存候 此由大炊殿江参會之刻物語之様ニ可被申候事

 十月二十三日書状(175)

一 先書ニ如申候當月上旬上洛申候 目之事別ニ発不申候間来廿七日當地(京都)を立可下より存候
    處ニ 此比又目かすミ出申候間前かと自豊前如申遣候きり焼きを不仕候てハおこり可申
    より存ニ付大坂江眞嶋(慶圓)よびニ遣候 目を見せ候てくるしかりましきと申候ハゝ来ル廿
   七日當地を可出候 又療治不仕候は悪候ハんと申候ハゝつくろひ候てから可出候 前かと
   切々如申候當地にてきりやき仕候てから其地へ可参と存候つれ共上洛之時分又當地へ
   著候ても目能候つる間急可下より存候處ニ右之分候間眞嶋ニ見せ候ての事ニ可仕と存候
   今日眞嶋上り著可申より存候事 

 十月廿七日書状(176)
  
  永良先へ下候間申候 先書ニ如申候 目少かすミ出候間 大坂目醫師よび寄せきりやきを
  もさせ可申より存 ミせ申候處ニ きややきニハ及間敷候 其上きり申候は跡三十日程養性
  仕候ハて下候は結句療治不仕ニはおとり可申之由申候間きりやきハ不仕候 今度かすミ
  候分は五日十日之内ニ前のことくなるへき由申候間其養性只今仕候 近々可罷下候 大
  炊殿へも別ニ用所も無之候間書状を以も不申候 右此地にての養性之次第 大炊殿江物語
  可被仕候 猶永良可申候 恐々謹言

 十一月八日書状(178)によると、忠興の江戸行に供する家臣が豊前から九日に到着するので、十一日に出立するとのべ
 目が悪いので「いつものことく道をありき候事ハ成間敷」到着は遅れるだろうとしている。
 その十一日忠興は近江の草津という処で忠利に暇が与えられたことの連絡を受ける。そして自分が江戸に到着するまで江戸に留まっているように
 指示している。その理由は「其地に質物無之候間・・・」つまり人質が居なくなるからだとしている。忠興の大変細やかな心配りが見て取れる。
 十一月廿四日無事江戸に到着した忠興は、廿七日には将軍に御目見、晦日には茶入れ開きの御茶の席に招かれている。(十二月三日書状・181)
 これ以降書状に目に関することは出てこない。元和四年も暮れようとするこの時期、完治したのであろうか。
 閏三月二日書状に始まった忠興の眼病との経緯は、生母光壽院の死去などを含めまことに壮絶であったことが伺える。
 忠利が家督する元和六年閏十二月まで、約三年のことである。 

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 追記 5:27 am10:23

 このブログを御覧いただいて、S様がブログ「徒然なか話」で取り上げていただいていた。
  目薬のはなし 〜 向台寺目薬 〜 というものだが、西方寺は我家の菩提寺でもありチョッと驚いてしまった。
 それにしてもメグスリノキというものがあるとは始めて知った。いつか御住職にお尋ねしてみたいと思っている。 

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忠興姪=木下右衛門大夫延俊の息女の縁談

2012-05-25 15:23:47 | 歴史

 木下右衛門大夫延俊の息女の縁談話が元和六年正月十日書状(199)にある。忠興妹・加賀の娘(於岩)のことである。

(1) 木右衛門殿息女縁邊之事 曽又左へ具ニ申遣候 其内阿部備中殿子息へ之事調申度候 右衛門殿も
    其方へ可然様ニ申候へと被申候事

 元和六年三月十九日書状(205)には状況が変わった記事がある。

(2) 右衛門殿息女縁邊之事 松平大膳殿一段可然候 又左相談候て可被調候 右衛門殿書状遣候
    又右衛門殿より我々への返事も進之候 又左ニも可被見せ候 年いくつニなられ候哉是も承
    度候事 

(1)が不成立であったから改めて(2)の話が登場してくる。その後の経過は二三の書状に散見される。
 そして「祝言(元和八年)七月廿日ニ相調候由珎重候事」とみえる、八月十六日付書状(343)がある。 

(1)の阿部備中守子息とは相模小田原城主・阿部忠次息政澄のこととされる。
 実はこの人物は、加藤清正の息女・古屋姫を正室として迎えた人である。
 畏友・福田正秀氏の著「加藤清正妻子の研究」によると、其の結婚は「元和八年からすぐの頃」「将軍家の計らい」によるとされている。
 つまりは(1)の話は早い段階で終わっていることになる。

(2)の話はどうやら成立している。松平大膳とは遠江濱松城主松平忠頼息忠重である。
                http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%87%8D

 歴史は面白い巡り会わせを見せてくれる。松平忠重夫妻の嫡男忠倶は正室に松平定行の養女を迎えたが実は阿部重次の娘である。
 阿部重次とは阿部正澄の弟であり、正澄がなくなった後阿部宗家を継ぎ老中をも勤めた人物である。


       加藤清正--------古屋                      
                    : 
 
  +----細川忠興  +--阿部正澄
     |                        |
  +------- 加賀  +--阿部重次--------●
          :                   :
                    :-----------於岩       :
          :          :        :
              木下延俊        :--------忠倶
                                   松平忠重                        参考: もしかしたら

                         
書状から垣間見られるちょっとした情報を追いかけると、誠に不思議な人間関係に出くわして思わずガッツポーズをしてしまう。

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5:12am10:50 追記
寛永五年八月十九日書状(670)に次のような記事があった。

一 乍次而申候 阿部備中殿(正次)殿子息(正澄)當月上旬(四日)病死之由候事

加藤清正女古屋姫が嫁いだ阿部正澄の死去の記事である。その結婚生活がわずか六年ほどであることが判る。 

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書状を読む(五) 忠興の眼病・一

2012-05-25 08:50:54 | 歴史

 随分以前だが熊本大学医学部の眼科教授から、細川忠興の眼病に興味を持たれていろんな史料を読んでいる旨のメールを頂戴したことがある。
忠興に限らず眼病にかかった人のことについては数多く記録に見える。重賢公夫人由婦姫は光を失われたとも言う。
考えてみると私の子供の頃も「目やに」をつけた子が沢山見受けられたし、ホウ酸を水で溶かしてガーゼに浸して目を洗うということをやっていた。 
眼病に限らず、虫による諸病、結核、疱瘡などの疾病が、現代に至りようやく治療が容易に行われるようになったことを思うと、これらの病による恐怖の程は如何ばかりであったろうかと推察される。

 元和四年忠興はほとんど視力を失うほどの眼病を煩い、随分苛立ちを見せている。同年閏三月二日の内記(忠利)宛書状(153)を眺めてみよう。
 

       (尚々書略)
   目相煩ニ付而土居(井)大炊殿・本上野殿迄様子申入候条令申候 両人への案河北ニ渡候間
   可有披見候
一 二月七日八日時分より目を煩出候事
一 同廿日時分より両眼共ニひしと見へ不申候事
一 安晴・利齋をはしめ爰元之目醫師數人ニ養性させ候へ共一切驗無之ニ付 従大坂眞嶋と申
   目醫師呼下 同廿八日より初三月十九日迄つくろはせ候ヘハ左之目ハ明申候て今ハ二間三
   間先ノ人をハ見知申程ニ成候事
一 右之目ハうハひ候て少も見え不申候 かけ薬にて養性申候は少ハ見え候ハんよし申候へ共
   一切驗無之候間初三月十九日ニ舟を上せ板伊州を頼京都にて上手之目醫師一人御下候        京都所司代・板倉勝重
   へと申遣候 定而可下候其醫師ニ逢候て重而様子可申事
一 只今ハ右之目ハすてニ仕 左之今能かたニをこりさめ御入候間 此かたのつゝき候様ニと養
   性半候事
一 此比當地を罷立其地(江戸)へ可致参上覺悟候處ニ目煩故遅参迷惑此事候 是ニ付國にて養
   性申候ヘハずいなるやうニ候間京へ上り養性仕度候 第一公儀又ハ京にて大勢之醫者ニ
   も見せ申度候條一日も早上度候へ共舟ニゆられ輿ニ乗候儀中/\念もなき事候間無其
   儀候 舟・輿ニ乗程ニ候は無由断上り吉田にて養性可申覺悟候事
一 初三月廿日時分迄ハ寝間を餘所へ出候事一切不成候而 京之醫師をも寝間迄呼申躰候つる
   あたまも右之かた半分はれ つらハ両方共ニはれ うつき申事中/\難盡筆紙候つる 此
   比うつきひしとやミ つらのハれあたまのハれも十之物七ツ八ツなをり申ニ付去月廿四日
   ニ表之居間まて出申候事
一 于今身をあらくあつかひ聲高ニ候ヘハ其儘目へ血さしこミ申躰候條ありき申事も于今自
   由ニ無之 如此候故舟輿ニ乗候儀念も無之候 此段土居大炊殿・上野殿・喜介殿・藤泉州其
   外我々無等閑衆ヘハ能々可被語候事
一 目之煩ニ付臥りてまて居申付 積差出申 万病圓呑申度候へ共 若目ニたゝり候てハと各申
   ニ付無其儀候 乍去いつものことく餘つよくハをこり不申候事
一 母にて候人ヘハはや目本復にて頓而下候由申入候間可被得其意候事

             (その他略)
        潤(閏)三月二日                     越 忠興 印

               内記殿
                  進之候

 閏三月廿四日書状には、将軍秀忠の見舞いの使者が小倉に到着「忝儀難盡筆紙候」と忠利に書き送っている。
 四月朔日書状には、将軍秀忠に対しての禮使を派遣したこと、又土井大炊の紹介で尾州真(馬)嶋大法院が遣わされることを喜び
 期待している様が伺える。
 ところが六月二日の書状(162)に於いては、又々症状が悪化していることが伺える。(抜粋)

一 尾州目薬師(馬嶋大法院)療治ニ而結句能方之目かすミ出候間法院はや上申候 大坂之目薬師又よび下
   はや下申候 此療治前かとよりやハらかに覺申候間能方之目今少かため候て吉田迄上養性
   可申覺悟ニ候 此由大炊殿をはじめ各へ此由可被申候事 

 その後状況も一進一退であるが、六月廿六日の書状(163)では良くなる験(しるし)を感じている。

一 我々目大坂真嶋慶圓療治にてかくのことく得験候間近日罷上吉田にて養性可仕と存候(以下略)

 そんな中「母にて候人ヘハはや目本復」と取り繕うほど気遣いしていた、母麝香(光壽院)が重篤となる。七月一日の書状(164)

一 (略)光壽院殿御煩之様子具被申越候 御老躰ニ候間気遣千萬ニ候 され
   共與安法印よりの書中其方よりの書中ニ今之分ニ候はくるしかるましきやうニ被申越候
   先以安堵候 我々目も先書ニ如申候大方得験気申候 然共道なとはやくありき候事ハ念も
   なく候ハぬ躰ニ候へ共重而之注進を待もし大事と被申越候はむりニも可下候 吉左右
   待申計候 其方より之注進由断有ましきと存候へ共餘気遣ニ候て先承かけニはや道進之候
                     (以下略)

 七月十日書状(165)抜粋

一 我等目先書ニ如申候 得少験候 其上光壽院殿御煩ニ候間来ル十三日當地を罷出候 (略)
一 我々事目も少験ニハ候得共 未散々ニ煩候 其上近年不覺程ニ積差出候間道をはやくあ
  りき候事成間敷候條光壽院殿御煩之様子替儀候は路次迄も切々可被申越候 為其早打下
  申候 此者(使者)ハ其方ニ置 其方之達者成者此状参著次第夜晝之無堺早々可被越候

 七月廿五日の書状(167)においては、十三日に出船したけれども向かい風になり十六日ようやく中国路に取り付たがその後の旅路も難渋していること をるる述べている。そして母親の臨終に間に合わずとも訃報あるまではなんとか下向するとしている。そして葬儀のことについて細かく指示している。
 目は再び悪化している

一 我々目  (中略)                   右之目は捨ニ仕左之方之ひとみ大法印 
  療治にて上下へほそ長ク罷成事之外かすミ申候を 大坂慶圓療治にて十之物九程迄丸ク成
  其位ほと見え出候處ニ光壽院殿之儀ニ気遣又は今日迄十三日舟ニゆられ申心候哉 無
  残所仕合悪無是非儀と存候

 と散々である。                   (つづく)

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しんほち・・

2012-05-24 23:19:52 | 徒然

いろいろぐぐっていたら、「出来たてのほやほやのひよこの菩薩は、新発智(しんぼっち)と言います。」とある。
忠興は六丸(光尚)の幼い姿に、まさに生まれたての菩薩様を感じたのであろう。
だとすると、なかなか洒落のきいたお人柄といえる。
かってはこの言葉も当たり前に遣われていたのかもしれない。子規の俳句に次のような句があるそうだ。     

                  新発智の青き頭を初時雨 

ああ良い句だなーと参ってしまった。

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しんほち

2012-05-24 08:39:23 | 徒然

 皆様は「しんほち」という言葉を御存知だろうか。

細川忠興の孫・光尚(幼名六丸)が生まれたのは、元和五年九月十九日のことである。
忠興が息・忠利に対して孫の事に触れて書状を出すのは、大日本史料・細川家史料によると、元和六年三月十九日(205)のものが一番古いようだ。

             中津しんほち此比少蟲気之由候間針立遣候 相當之由申越候 但煩程之事にてハ無之候
             養性のためニ候 

ここにしんほちという言葉が登場し頭注において「忠利長子六丸、光尚」とある。さてこのしんほちとは一体何なのだろうか。
同年八月十日書状(216)にも同様のものがある。

             志んほち切々煩申候 已庵薬相當申候 莬角其方歸城之時分もミ付候て無養性は 大事と
             存候事 

元和八年正月廿一日書状(2−329)は、忠利と六丸が将軍秀忠夫妻に謁見したことに対する忠興の書状である。

             其方 新發智無■儀著 公方様・御臺様御禮被申上 珎重候事    (■ 已の下に大)

ここでは しんほち に 新發智 という漢字が当てられている。この漢字とて辞書では確認できない。あだ名・愛称みたいなものなのだろうか・・・・
その後光尚の事に触れる書状自体が見受けられなくなる。

この しんほち( 新發智) が皆目わからずぐぐって見たら、ブログ http://zagzag.blog72.fc2.com/blog-entry-873.html に、「しんぼち」(「しんぼっち」などとも)は出家して間もない人の意味で「新発意」とも書く】とある。どうやらこれに間違いなさそうだが、六丸殿は得度したということだろうか
どなたか御存知であればご教示を切に願うものである。

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書状を読む(四)

2012-05-23 20:02:53 | 史料

 元和五年正月五日書状(折紙)


     尚々其方使者ハ方々江参之由候間はやき便宜ニ此状遣候 已上
  為年頭之祝儀被差越使者 太刀一腰・馬一疋代銀壹枚到来幾久と珎重ニ候 次ニうら付肩
  衣三ツ・堺之たまり二桶祝著ニ候
一 小笠原右近殿江いつそや御約束申候中津之殿主儀 右近殿次第ニ可被渡候 幸舟所ニ御入
  候間殿主うけ取奉行御乗せ候て舟御下候へと被申遣 請取奉行下次第ニ念入色め可被渡
  候 立御用満足申之由可被申越候 恐々謹言
                   越
        正月五日     (ローマ字印)

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 元和元年大坂の陣において小笠原秀政・忠脩父子は戦死している。右近こと二男忠眞は傷を負ったが見事な鑓働きをしている。
其の故をもって信濃松本八万石を相続した。兄忠脩の未亡人である亀姫を家康の命により正室とした(元和二年)。
そして元和三年七月廿八日には播磨の明石十万石に転封となった。

忠眞は忠利室・千代姫の兄である。父と兄を失った忠眞に対し心のこもった援助をしている。
元和一国一城令にもかかわらず、支城中津城も城割を免れている。この中津城の天守を明石に差し上げるというわけである。
さて、この話が実行されたのかどうか私は承知していない。どなたか御存知であればご教示頂きたい。 

 

小笠原忠眞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9C%9F

明石城    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%9F%8E

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書状を読む(三)

2012-05-23 08:22:05 | 歴史

 元和元年五月十四日付、内記(忠利)宛忠興の書状である。(書状下部の空白部分は折紙であることによる)

        小笠原殿父子打死候
        大學殿大てからにて
        やりきす数ケ所おハれ
        候へとも少も無別儀候
     十二日之書状今日
        ふしミの内竹田邊之寺ニ
     十四日於吉田令披
        御入候間御目見之後
     御入候間見候其方事まつ
        被参候て可見廻候 已上
     すくニ伏見へ被参

     公方様御目見仕

     それより此地へ

     可被越候

     大御所様へ御目

     見ハ上州まて我々

     様子申遣可申候可

     被得其意候 恐々

     謹言

      五月十四日  越
              忠 花押

       内記殿
          御返事 
                                                 (大日本近世史料・細川家史料一 九七 p123) 

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 忠利室千代姫(保壽院)の父親・秀政と兄・忠脩が戦死したことを知らせる書状である。大學とは忠脩の次弟、後の豊前小倉藩主となる忠眞であり、傷を負ったものの(命に)別儀なく大手柄を挙げたというものである。お寺で養生しているのであろう、これを見舞うように指示している。この時期忠利は小倉から全軍を率い出陣するが、忠興からの報告により戦いの終わったことを知り軍を撤する。忠興のこの書状の通り、自らは上京して家康に謁して賀を述べている。
当時忠利30歳、千代姫19歳、結婚して六年後のことであり、千代姫にとっては深い悲しみの年である。 

小笠原秀政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E7%A7%80%E6%94%BF

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熊本市665メートルの夜景等

2012-05-22 18:53:06 | 熊本

 スカイツリーがいよいよオープンしたようだ。(祝・祝・祝・・・)

その高さが634m、熊本市のシンボル金峰山が標高665mだからほぼ同じ高さだということに成る。
夜景は見たことがないが、頂上から眺める景色はなかなかである。其の景色を紹介しているサイトはないかとぐぐって見たら・・あった。

      http://view.adam.ne.jp/setoy/pic/kyusyu/kinpo.html

      http://yakei.jp/db/summary.cgi?row1=kinbozan

高いところからの景色、特に夜景はどこでも綺麗なものですね〜 (残念ながら四方全部は見えませんけど・・・)

ちなみにそれぞれのサイトのアドレスにあるように、金峰山は「きんぽうざん」「きんぼうざん」とどちらが正式な呼び方なのか、熊本人もよく判りません。
日本を「にほん」「にっぽん」と呼ぶが如しでしょう。 

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下松・磯部氏のこと

2012-05-22 12:56:33 | 徒然

 我が家の遠祖は磯部氏である。
磯部氏についてはなかなか史料が見えず、それでも最近ではウイキペディアに於いて紹介されるようになった。
          http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B0%8F
 我が家の遠祖は毛利氏に仕えていたが牢人し、下松三尾という処に牢居、江戸・京都へ上下される三齋公が休息の為に度々訪れられ、息子である我が家の初代兄弟が豊前へ召しだされた。二代目が母方の苗字をついで今の姓になったと先祖附にある。
ウイキペディアに安芸国磯部氏が紹介されているが、これに連なると考えられるのだが・・・・・・つながりは不明である。

 一方我が家には伊勢神宮に係る磯部の末という口伝がある。
安芸国磯部氏の出自をたどると上野国に至る。その一宮である貫前神社は「 創建は安閑天皇元年(531年3月15日、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。」(ウイキペディアより引用) 

 先祖附にある周防下松の出身であるという記述を頼りに、自分なりにいろいろ調べてきたのだが努力不足でまったく解明できていない。
そんな中今般周南市(下松市のお隣)にお住まいでクリニックを経営されるS様から、磯部氏に係る色々な史料をお送りいただいた。
残念ながら当家に直接つながる史料は得られなかったものの、大変貴重な史料をお送り頂き、ただただ感謝申し上げる。
下松の磯部氏は、江戸期を通じ製塩業をいとなみ膨大な富を得たようである。このことについては過去、私もいささかの勉強はしたが、「富」などとはまったく縁遠い私としては夢物語の世界である。S様からお送りいただいた史料によると、下松の磯部氏は日向の土持氏の家臣であり土持氏を室としている。
           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%8C%81%E6%B0%8F

 

これらの史料から何とか遠祖・磯部に近づきたいものと思いを新たにしている。 

 


 

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書状を読む(二)

2012-05-22 09:30:29 | 歴史

       元和元年五月七日書状案
  昨日六日ニ大坂飯守之下ニて大和口へ人數六七萬出候處ニ 藤堂手前にて合戦候而敵數多
  討捕候 伊井掃部手・本田美濃手にて合戦候而首數多上り候 大坂ニ而物頭果候衆 木村             井伊直孝・本多忠政
  長門・後藤又兵衛・鈴木田隼人にて候事                                          木村重成・後藤基次・薄田兼相
一 今日七日午之刻ニ大坂江少シ御寄被成候處ニ 茶磨山より岡山迄取續六七萬も可在之候 此方
  之人數を立 自是ひゝ物無理ニ合戦を懸候處ニ及一戦候 數刻相支申候 半分ハ此方へ半
  分ハ大坂江勝申候へ共此方之御人數之段數多ニ付御勝被成不残相果候 度々之せり合中
  /\推量之外ニ候 本田雲州も討死小笠原兵部殿も手を負候 是ニ而推量可在之候 我等             本多忠朝  小笠原秀政
  事先書ニ申入候様ニ鉄炮頭三人其外小性計にて大坂へ参相合戦候事
一 鑓つき候者 一番七介 二番縫殿・佐藤傳右衛門・藪三左衛門・佐方與左衛門・吉住半四郎・           清田石見
  續孫介 右之鑓寄候衆之者崩ニ成候處ニ七介・縫殿両人馬を入きらせ候事
一 又其後大崩ニ成候處ニ松井右近一人取テ返し候處ニ酒井左衛門も披見候 左衛門小性も
  右近と返シ中程迯又右近側へ返しつる筈を取候刻右近甲首取候事
一 七介儀鑓之鋒を突曲申候 傳右衛門も二本之鑓之鋒をつき曲申候
一 首貮ツ亀介 首貮ツ主水 首壹つ賀賀山半兵衛 首壹つ朽木與五郎 首貮つ主水内之者共取
  候事
一 大坂御城御天守今日申ノ刻ニ火かゝり不残御果候 一時之内ニ天下泰平ニ成候事
一 此状之内被見候而草臥さる飛脚ニ持せ豊前へ下し可被申候 取紛書状書兼申候 以上
        五月七日                         越中守忠興
              内記殿
  又申候我等小性共迄物ニ相候事申上候ヘハ大御所様御前へ被召出候 是にて仕合推量
  可在之候
                                                                                              (大日本近世史料・細川家史料一 九六 p121〜) 

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大坂の陣の終わりをつげる一日の顛末である。忠興は三日に兵庫、五日に山崎に着き淀に於いて家康に対面している。
家康は忠興に対し側近に詰めるように下知している。以降書状案の通りであるが、著名な諸将が命を落としていく中、忠興配下の者は後世に名を残す
鑓働きをしている。秀頼・淀殿も命を落とし遂に豊臣家の命運もここに尽きたのである。 

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五月・史談会例会

2012-05-21 12:09:56 | 徒然

 昨日午前10時から史談会の例会。今回は八代史談会会長の蓑田勝彦先生をお迎えして、「幕末期の熊本藩 横井小楠とその時代」という演目でお話を伺った。膨大な一級史料を読み解かれた上での、出典のはっきりしたいわゆる推論抜きのお話であるから大変説得力がある。

 偶然のことだが私はここ一両日、横井小楠にかかわる書籍を数冊読んでいた。それは「酒失事件」や「士道忘却事件」、また「天道覚明論」などがどの様に取り扱われているのかを知りたいが為である。いずれもいささか逃げ腰で詳細には触れていない。偉大な思想家・横井小楠を語る上では、これらの事件について深く論評するのは憚られるのであろう。特に「天道覚明論」の取り扱いなどについては、九割以上の研究者達が小楠のものではないと切り捨てている。まったく根拠のないところであり、「第一人者の某氏がそういっている」などの話になると、もう本を伏せてしまいたくなる有様である。そんな中で一人、地元の堤克彦氏には「天道覚明論の成立に関する歴史的考察」という論考がある。このような優れた論考をベースに研究者は謙虚に「否」を論ずべきではないのか。

 このことについて質問をさせていただいたが、まったく一級資料に乏しい事柄についてはコメントのしようがないというお立場であった。
私はこれがまさしく研究者としての真の姿ではないかと感じ入った。推論で構築したいろいろな発言は、誠に説得力を欠いていていて読者に感銘を与えることがない。真の小楠を知るためにも、真実を真実として書く勇気が必要であろう。
私にとっては誠に有意義な時間であった。感謝 

 

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書状を読む(一)

2012-05-21 11:31:31 | 歴史


             此文肥前殿御母儀へ可被届候 已上

         為見廻牧五介被上候 祝著候 我々事豊前一國豊後にて拾壹萬石
         令拝領候 忝儀候 其方之儀も来春は可呼上候間可被得其意候
         猶五助可申候 恐々謹言
                                    越
          (慶長五年)十一月廿八日           忠(花押)

                  内記殿
                     御返報                               (大日本近世史料・細川家史料一 五 p6)

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 忠興から忠利へ宛てた書状である。忠利はこの年の八月廿一日、秀忠より一字を拝領して忠辰と名乗り内記と称した。のち忠利とす。
慶長五年という年は、細川家にとっても忠利にとってもまさに激動の年であった。忠利はこのとき十五歳であり正月には証人として江戸に赴いた。父・忠興と長兄・忠隆、次兄・興秋は行動をともにして関原戦などで戦場を経巡り、一方母ガラシャは七月十七日大坂玉造の屋敷で石田三成手勢に襲撃されて自害した。また祖父・幽齋は田邊城に在ったがこれも三成が派遣した一万二千の軍勢に対峙して籠城を余儀なくされこれらの軍勢を引き付け、関原勝利を導いた。一方豊後の領地においては大友勢の襲撃を受けたが、重臣・松井康之・有吉四郎右衛門以下がよく戦い勝利した。これらの戦功に対して細川家は豊前に領地を賜ることになった。

この書状で特筆すべき事は、「此文肥前殿御母儀へ可被届候」という一文である。
肥前殿御母とは前田利長の母つまり利家室・芳春院のことである。すなわち忠興の嫡男・忠隆の室・千世姫の生母である。この時期芳春院も前田家の証人として江戸に在った。忠隆にかわり早々に芳春院に、豊前入国の慶びを伝えるように申し送ったものである。ガラシャ夫人の生害に際しては、忠隆室がともに行動しなかったことをに対し、忠興が不快を示しこれが原因と成り忠隆廃嫡へとつながっていく。のち将軍家康は、前田家と細川家が遠戚関係にあることを警戒し、離縁をせまりこの後の一時期両家の交流も途絶えることとなる。まだこの時期はそのような気配が伺えない書状の内容である。 

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