聖霊降臨後第4主日
「今週の祈り:力なる神さま。生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行うことができません。あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてで、あなたに仕えることができるように、み力で支えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」
(礼拝堂の花を撮り忘れました。写真は、この日の午後、中央区の札幌礼拝堂で行われた講演会で語っている石居基夫校長【ルーテル神学校】です)
〇聖霊降臨後第4主日説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)マタイ9:9-13
「あなたも罪人」
北海道に来て3カ月が経ちました。それはすなわち、それまで学生だった私が、いわゆる社会人になって3カ月経ったということでもあります。生活も随分変わりました。特に、保険や税金など目には見えない未来への保証に対する支払いが増えたことを感じるのです。なぜこんなにも払わなければならないのか、と嘆きの声が恵み野教会の牧師館から今日も響いています。
ましてや、聖書の時代における徴税人は暴利を貪り、自らの肥やしとする人が多くいました。そのため当時の人々は徴税人というだけで嫌っていたのですが、当時の人々の怒りが社会人になってからより分かるようになった気がします。
さて、今日の聖書箇所に出てくる徴税人マタイもそのようにして周囲の人々からの怒りを向けられ、嫌われていたのでしょう。マタイ自身も徴税人として自分の利益のためだけに暴利を貪る罪人であったことも考えられます。そんなマタイをイエス様は見つけ、自分のところへ招き、共に食卓を囲むという深いつながりへと導いて下さったのです。罪に生き、周りの人からは嫌われ、孤独に生きていたマタイにとって、イエス様がかけて下さった言葉はとても温かいものに感じたでしょう。非常にドラマチックで感動的な話です。
しかし、私たちはこの物語をただの感動的な話にしてしまうことにいつも注意していなければなりません。いつの間にか、本当にいつの間にか私たちが今日の聖書箇所にでてくるファリサイ派の人々のように、誰かを非難する立場に陥ってしまうのです。私たち人間はそれぞれの価値観で生きていますから、自然と自分は正しいという判断を自分で下してしまうことがあります。そこから自然とファリサイ派のような生き方をしてしまっているのです。
そんなところにイエス様は預言者の言葉(ホセア書6:6)を言うのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」犠牲奉献ばかりに目が行き、それさえすれば自分は正しい者となることができると思ってしまうところに、主が求めているのは「憐れみ」であると語られるのです。ファリサイ派の人々には重く響いたでしょう。怒って反発していたかもしれません。自分が正しいと思っていた神への行いによって、自分の罪が養われていると指摘されたのですから。そして、私たちにも重く響くのではないでしょうか。自分が正しいと自然に思ってしまう私たちがいかに簡単に罪に流されて生きているのかを指摘されているのですから。
その罪に生きる私たちであることを自覚するところから、私たちは今日の聖書の箇所をもう一度読んでいきたいのです。罪にどっぷり浸かり、神とは切り離された生き方に流されていくところにイエス様は声をかけて下さるのです。「わたしに従いなさい」と。そして憐れんでくださり、主の食卓に招いて下さるほどに深いつながりへと導いて下さる。この喜びが私たちを救うのです。この喜びが、私たちを憐れむ者へと変えて下さるのです。この喜びを抱えて、罪に生きるのではなく、憐れむ者へと変えられていきましょう。
〇7月9日 午前11時 聖霊降臨後第5主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉・小林広枝姉
〇聖書朗読:秋田直枝姉
〇礼拝当番:堀川悦姉