桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「多座弥志理都比古神社」境外摂社5社

2017-07-17 22:37:35 | 歴史
「多座弥志理都比古神社」摂社

 摂社の小杜神社、媛皇子神社、皇子神命神社、屋就神命(やつぎしんめい)神社、子部神社はいずれも式内社に列します。
 
小杜神社
多神社と道を挟んで南に広がる社叢の真ん中あたりにぽつんと佇むのが大安万呂を祀る小杜神社です。


式内社の小杜神命神社に批定され、祭神は当然太安万呂、『古事記』全三巻を撰録した太安万侶(おおのやすまろ)を祀る。
父は壬申の乱で功績の有った多品冶(おおのほむじ)其の祖はこちらも当然弥志理都比古命(神八井耳命)となります。
1979年、奈良盆地の東部、田原の里の通称「トンボ山」の茶畑の斜面で発見されました。
火葬されており、墳墓は木櫃の周囲を木炭で覆ったもの。
木櫃の底の部分からは「太安萬侶墓誌(重文)」が発見され安万呂の遺骨と確認。


2013年、茶畑で見つかった安万呂の遺骨の分骨を受けて社叢の南側に立派な記念碑が建てられました。
多氏はその性を意富、飯富、於保、太、多、と改まって居ます。
 
媛皇子命神社
端正な環濠の後をきれいに残す多の集落の西北の端多集落の北西の端、多神社の東300mほどの所に少し小さめの一般的な村社位の大きさで綺麗に整備されて佇んでいます。 


ここも多坐弥志理都比古神社の境外摂社の一つ、式内社。
 
多坐弥志理都比古神社祭神である神八井耳命の娘(媛皇子)を祀っていると考えられていますが、
多神社注進状に、姫皇子神社天媛日火霊神尊と有り、「姫皇子神社天媛日火霊神者天疎向津少女命...」から祭神を天照大神の若魂だとして居ます。
 
                       
 
 
皇子神命神社(みこがみ命神社、すめみこの命神社)
「若宮」「三の宮」「スメミコノミコト神社」
 多神宮注進状
「彦皇子神社 皇孫日火霊神尊(スメミコヒコ神)
  姫皇子神社 天媛日火孁神尊(アマツヒメヒメ神)」
 
別の書には、
「皇孫日火神尊は瓊瓊杵尊(ニニギ)。高宮郷座天津瓊瓊杵神社同体異名也。神名帳河内国讃良郡津桙神社一座小
  天媛日火孁尊は天疎向津少女命(アマサカルムカツヒメ) 天照大日孁尊之分身、故姫皇子、天照日孁大神之若魂 故天疎と云う 高宮郷座天照大神和魂神社同体異名也。と
 
姫皇子命神社とは少し離れますが、小杜神社の南西、筋向いの森の中にひっそりと社だけが佇んで居るのが皇子神命神社。
 


四皇子神の一つで若宮とも称され927年に設置された記録が残って居ます。
 
「延喜式神名帳」に「大社皇子神」とあり多坐弥志理都比古神社(多神社)の皇子神との意味で、同神社の摂社とみられますが、その車窓からかなり大きな構えで有ったのではないかと推測されます。
 
多神宮注進状(1149・平安末期)には、彦皇子神社 皇孫日火霊神尊(スメミコヒコ神)「皇孫日火神尊は瓊瓊杵尊(ニニギ)。高宮郷座天津瓊瓊杵神社同体異名也...」と有りますが、単に弥志理都比古命の子供と考えた方が良良いでしょう。
 
ただ、飛鳥川下流域の同じ田原本町松本に「三宮神社」が有り、川上より流れ着いた伝承が残ることから、この地から流された事が有ったんのかもしれません。
 
屋就神命(やつぎしんめい)神社
又四摂社の内、屋就神命神社は、もとは八剣社とも称し、日月神とも呼ばれた神社で、多神社から西へ200m程行ったところ、今は橿原市に属して居ます。
 

鎮座地が屋就という点から『延喜式』巻九の十市郡十九座の中の屋就神命神社(巳上四神大社皇子神)に充てられてきました。
 

「五郡神社記」は忌部氏の祖神天太玉命を祀ると記しているが、「多神宮注進状草案」の裏書には天明豊玉之命は玉祖郷坐豊玉神社と同体異名であるとし、小社・屋就両神社は中臣忌部神の御魂ではなく、天照大日霊女神の皇子としています。
「五郡神社記」には「日月神」とみえ、天明豊玉命を祀り、多神社別院とある。
 
 
子部神社
多神社の東2km、少し南に振った所に橿原市飯高(ヒダカ)町の集落が有ります。
此処も環濠集落の面影を残すしっとりとした街並みを見せます。
 
集落の中程、祐禅山「瑞花院」吉楽寺に隣接して建つのが子部神社です。


子部神社はもう一つあって、もとは二つ並んでいたといわれますが、今は更に西50mほどの集落の端、入り組んだ所に蝶嬴神社(小子部スガル神社)が建っています。
 
式内社 大和国十市郡 子部神社二坐と有るのが、どうやら一座ずつ分かれたと思われますが、だとすると特異例ですね。
 
小子部蝶嬴神社の方は、蝶嬴神社、小子部神社、雷神とも言い、また、軒の宮とも呼ばれ、子部神社の別宮と考えられているので、特異例に匹敵する可能性は高いですね。
 


 祭神の小子部命については
、新撰姓氏禄(815)に 「左京皇別  小子部宿禰  多朝臣同祖  神八井耳命之後也 」
 
 日本書紀』には
 大泊瀬幼武天皇(雄略)の御世、諸国に遣わされ、蚕児を取り斂(オサ)むべきを、誤りて小児を聚(アツ)めて貢(タテマ)る。
       天皇大いに哂(ワラ)ひて、姓を小子部連と賜ふ」
、雄略天皇が蝶嬴に命じて国内の蚕を集めさせたが間違えて嬰児を集め、天皇に献上した。
『そこで天皇は、嬰児を蝶嬴に託して、養わせ、小子部連の姓を賜ったと有ります。
 
また、舒明天皇十一年、百済大寺の建立に小子部神社の木を伐って九重塔を建てたが、祭神の怒りによって、堂舎が焼失したと言われている。
 
更に、雄略天皇六年、天皇は少子部連スガル(蜾蠃)に、三輪山の神が見たいので、捕って来いと命じたところ、少子部連スガルは三輪山に登り大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒していなかったため、大蛇は雷のごとき音をたて、目を輝かせてたという。
此処から雷神と言うようになったとか。
 
延喜式大社、四時祭には、案上官幣に預る。
貞観元年(859)に従五位上を叙される。
延喜式神名帳に、『大和国十市郡 子部神社二座 並大 月次新嘗』とある式内社で、今は多(オオ)神社(式内・多坐彌志理都比古神社)の境外摂社となっている。
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