桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「鍵」 「鍵の蛇巻」 奈良県田原本町

2017-09-11 20:09:21 | 地域
strong>「鍵」

「唐古.鍵遺跡」の名前でもわかる様に遺跡を含む集落の一つ。

遺跡の一部は今も集落の下にあって、新たな建築などは発掘調査の後に成ってしまいます。

また、「鍵」は無形文化財の「鍵、今里の蛇巻き」でも有名です。

西は寺川、東は法貴寺を挟んで大和川が流れる田園地帯ですが、中街道が通り、中世の船着き場「今里浜」が近く、「今里」や「西代」同様に集落の中を古代幅43mの下ッ道が通り古代から交通の要所です。
ここも寺川から国道24号線を挟んで法貴寺まで東西にのび、北は今里、南は小坂に隣接する今も交通の利便性の良い所です。

唐古・鍵遺跡の面積は約42万㎡とされ、遺跡内の住居跡の約7割は鍵地区に属し、唐子鍵遺跡の楼閣はこの地域に属し、寺川近くには「田原本北中学校」、国道の東に「田原本北小学校、北幼稚園」が有る学園地帯でも有ります。

氏神の八坂神社は、本殿前にある左側の石燈籠に寛永6年(1666)、右側の石燈籠は延宝5年1679)の造立。

また境内には薬師堂があり、平安時代後期の地蔵菩薩立像と江戸時代の普賢菩薩坐像が安置されています。

野神信仰として有名な国指定無形文化財の蛇巻きはこの国道近くの「八坂神社」を発し、村中を練り歩いて最後に北中学校前の「はったはん」と言われる地に頭を下にして納められる一見の価値のある祭りです。

この一帯は、唐子と並んで平安時代「紫式部」の夫「藤原宣孝」の荘園で有ったと伝えられます。

元和元年(1615)は郡山藩領、延宝7年(1679)幕府領、延宝8年(1680)甲斐甲府藩領、宝永元年(1704)から再び幕府領で明治時代を迎えます。

地域内のお寺は浄土真宗本願寺派万行寺ですが詳細は不明。


「鍵の蛇巻」

6月の第1日曜に行われる鍵、今里の蛇巻き。

同日に隣り合った両地域で、登り龍と下り龍に分かれて製作、祭事を行います。

「鍵」地域の蛇巻は下り龍ですが、鍵の「八坂神社」で、朝の9時頃から午後2時まで掛けて準備が進められお祓い等神事が行われます。

まず、境内に集まった集落の男性が、200k以上も有る藁の大束5つを束ねた蛇の頭に、おおよそ15mの藁縄に藁を絡めた尾を付け、全長18m程の蛇を作ります。

一方、子供たちが集まって、ミニュチュアの農具を作りお供えをします。

お払いが終わった後、大蛇は2時頃から若者を中心に神社から担ぎ出され村中を練り歩きます。

来15―17歳の男子が担ぎますが、少子化等の影響もあって、近年は14歳からが頭を担ぎます。

頭を担いで前へ進むだけではかなり危険なので、13歳以下の子供が尾を逆に引っ張ってコントロール、これがまた引っ張り過ぎたりゆるめ過ぎ足りで中々うまくいきません。

重量と後ろの引っ張りに耐えかねて10-20mも進むと 掛け声と共に「ドッスーン」と大蛇を下ろし一休みです。

一行は村中の氏子の家々を練り歩き、豊作と1年の安泰を祈願しますが中々進みません。

2時間ほどかけて、田原本北中学校の前に有る「はったはん」と呼ばれる三角地まで運びこみます。

頭を西の大木の下の据えた後、尾を、その大木の上部の枝を通し、東側に有るもう1本の大木に絡め、下り龍を完成。
再び神事を執り行って鍵地区の蛇巻きが終わります。


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