石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

知性と酩酊の町・弘前訪問記

2012-05-17 12:22:40 | 旅行
 太宰治と寺山修二の世界を訪ねようと、向かった先が「みちのく」の夏。束の間の夏、雪国の空は群青色で吸い込まれそうな深さをたたえ、木々はしたたる緑、ねぶた祭りの熱気を未だに残す「弘前」という町に、私ははまってしまった。

 遠くに岩木山を望むこの町の、乾いた空気の心地よさは何だろう。炎暑の道端から弘前城の城郭にはいり、木々がつくる深々とした影のなかを歩くと、心は悠久のむかしに遊ぶ。

 津軽藩主の「お殿様」が偉かったのだろうか。みちのくの風土が作る衣食住の生活文化を、のびのびと民の試行錯誤にまかせたのであろう。だからこそ今に伝わる「じょっぱり」を初めとする銘酒の数々、山菜や海の幸を使った食材、その加工品の豊かさは驚くばかりだ。

 同時に、この藩に代々伝わる教育と知性への情熱も、城の周辺の武家屋敷跡を散策しただけで偲ばれる。長野県といい青森県といい、雪国の人々は文字と言葉と想像力で、自分の存在や位置を確かめようとしたのだろう。

 町を歩けばシックな喫茶店が多く、ブテイックがおしゃれで、地に足がついた暮らしぶりがしのばれる。紀伊国屋という大書店もある。眼鏡屋も多い。旧制弘前高校があり、葛西善蔵、太宰治、寺山修二、長部日出男・・・といった作家たちがこの風土から生まれた。


 「弘前劇団」もある。じょんがら節もある、きっと、表現をすることが好きな風土ではないか。

 津軽の人は「しゃべり、語り、踊り、表現することが大好きで、ラテン的だ」と言ったのは「津軽劇場」の代表・長谷川さんだ。街中で言葉を交わしても人々はフレンドリーで、ためらいなく、そして全体に急いでいない。旅行者の印象がどこまであてになるのか知らないが、私は弘前のもつ「ゆったり感」が好きだ。それは、まだ取り壊されない戦前の建物に感じる。

 赤レンガの古いビルに紛れ込んで、昼下がりのビアホールの椅子に座る。なんだか自分が、昭和初期の無政府主義者になった気分。特高警察の追っ手を逃れて仲間からのレポを待つような心境だ。この街は、全体に演劇的な空間である。

 方言の海の中で、詩と文学が好きで、厳しい風土に「言葉」で耐え、「諧謔」で立ち向かうところは「スラブ的」とも言える。たとえばお城に近い一番町、津軽塗りの店「田中屋」に立ち寄れば、津軽書房の出版物がズラリと並んでいる。

 漆器の店に、郷土が誇る出版物を並べるセンスがいい。店内にはギャラリーがあって陶器展をやっていた。「珈琲・北奥舎」という喫茶ルームの壁一杯に書物が並ぶ。この街に澄む美術評論家・村上善男氏の蔵書の一部だと言う。

 地方の風土に腰を据えての、表現の持続に敬意を表したい。村上氏の著書『赤い兎・岡本太郎頌』(創風社)を手にとってみた。そういえば岡本太郎も、沖縄と津軽に日本のルーツを発見し、この地に特別な思いを寄せた芸術家だった。

 土手町 この繁華街には「なつかしさ」が漂う。「壱番館」「ぶるまん」など、こだわりの喫茶店には、私が育った杉並区阿佐ヶ谷の雰囲気があり、CDショップ、洋服屋さんの元気には吉祥寺の商店街、しゃれたレストランやすし屋が並んでいる風情は、都電が走っていた頃の「青山通り」である。この街には、東京には既に跡形もない「戦後」がある。
 

ここにあるコミュニテイーFM「アップルウエーブ」を訪ねる。私もまた湘南ビーチFMでDJをしているから、まるで「道場破り」の心境だ。若い女性達で元気がいい放送局だ。聞けば中継車を三台もって津軽全域の情報を生き生きと伝えている。

 私は「午後ワイド、ゴーゴー・ナビゲーション」に出演して、旅の感想を述べ、自作の詩を朗読した。「荒野のガンマン」や「シェーン」のように、こうして地方のコミュニティーFMを回る「さすらいのパーソナリテイー」もいいではないか。

 「高砂」で津軽そばをすすり、シテイー弘前ホテルのスカイラウンジで日暮れの岩木山に見とれる。母とも父とも、叔母さんとも呼びたいような、いい姿の山だ。この裾野でこそ、人は存分の生き方をゆるされてきた、そう思いたいような品格ある容姿である。深々と吸うこの空気も、あの山肌を滑り落ちてきたにちがいない。

 夜はじょんがら節である。ライブハウス「山唄」は超満員。地酒の「ジョッパリ」をすすりながら聴く津軽三味線と民謡の数々、さっきまで酒や料理を「お運び」していた女性達、若者達が、ステージにあがって演奏している。ここに芸能の原点を見る思いがする。芸は神に奉げられるものだった。いつから「知名度」が最重要になり、タレントが跋扈する「芸能界」が出来上がってしまったのだろうか。

 いい町は居酒屋がいい。町のあちこちのブロックに、思わず入りたくなる居酒屋が軒を並べる。まるでニューオルリーンズの街でジャズに酔い、バーボンで迎え酒するように、じょんがら節のあとは津軽の地酒がいい。

 掬酒、白神、豊盃、じょっぱり・・・。つまみの豊かさは、言うに及ばず。海と山の旬がならび、料理や保存法のバラエテイーがまた嬉しい。私の大好きなホヤが、刺身でも、生姜味噌でも、燻製でも食える幸せ。白神山地の冷気を感じながら、夜がふけて漕ぐ白川夜船。

 夜が明けて、街をさすらえば弘前の夏は去り行く。明るい太陽の下で、この町の歴史的西洋館を眺めることの楽しさ。外人宣教師還、弘前昇天教会、青森銀行記念館・・・。明治維新の頃、この地の人々には新しきものを受け入れる素地と度量があったのだ。


 
明治政府は、なぜ、ここ弘前を県庁所在地にせず、青森市にしたのだろう。津軽藩の底力と行政能力、そしてこの街の「民度」の高さはアンシャンレジーム(旧制度復活)につながる、と恐れたからだという説には説得力がある。

 ここは戦災にあわず、江戸、明治、大正、昭和という時間の「古層」をハッキリとたどれる稀有な町だ。そこで感じるのは、昔の為政者は、地方の独自性やローカルなものの価値を知っていて、大切にしたということだ。地方の殖産興業を図りながら、三百年にわたって列島を統治した徳川の政治センスに、改めて驚く。

 藤田記念庭園の西洋館サンルームでコーヒーを飲む。豪壮な居間に暖炉があり、その周りに造りつけのソファーがある。弘前出身の日本商工会議所初代会頭・藤田謙一は、大正期、この地方の振興と近代化のためにどんな語らいをしていたのだろう。

 弘前とは、歴史とモダンが、知性と酩酊が、街の迷路と大自然とが、見事な拮抗をしながら骨太に出来上がっている土地である。雪に桜に、季節のページを繰るごとに、私はこの街を訪ねたい。


2001年9月某日
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湘南ビーチSM

2012-04-11 10:45:16 | 
この罪深い身体を
あなたの縄で縛ってください

ロープは腰越漁協から借りて
縛られて歩く七里ヶ浜
髪も島田の由比ヶ浜
うち捨てられて材木座

耳元で囁くあなたの
蔑みの言葉が
私の恥じらいのDNAを狙撃する

ああ、夜のヨットハーバー
マストに縛られて放置されて
もやいの縄を解かれて
漂い始めた相模湾

夜通し聞いた官能の海鳴り
朝は東から来ると知りながら
闇へ闇へと流される
あなたと私の海上の道

湘南ビーチSM
星も目をそむける
あなたの冷酷
ピンと張ったロープは
手抜きを知らないあなたの愛情

湘南ビーチSM
縛れば縛るほど私の感覚を解放する
あなただけの不思議なワザに
私はこのまま溺れ死にたい


®Shinpei-Ishii 1999/9/4


湘南ビーチFMでDJをやっていた1999年に、SM嬢の立花マリさんがゲストで出演された際に贈った詩です。
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するなら、見せよ死刑執行

2012-03-30 11:28:24 | MEN'S CLUB「石井信平の言語道断」
 年末・年始だけホッとする一群のひとびとがいる。死刑囚たちだ。
晴れ着も、オトソもないが、彼らはとにかく、三ヶ日、鉄格子から小さな空を見上げ、陽射しの優しさ、鳥の鳴き声にもふるえるような感動を覚えながら、この三日間だけは「御迎え」が来ないことを、何度も心に確かめることだろう。

死刑執行は、重大な国家行事である。にもかかわらず、この「行事」は徹底的な秘密のうちに、事前の予告も、事後の報告もなく行われている。この国事こそ、国民だれもが知り、理解し、希望するものは、これを見ることができていいのではないか?
死刑について、いくつか素朴な疑問がある。

1、 まず、執行が報道機関の「推測」に終始して、決して国家の正式発表がないのはなぜだろう? 法務大臣がハンコを押して始まる「国務」行為も、言ってみれば「殺人」という重大事、なぜ国民にわかるかたちで知らされないのか? このダンマリは、公務員のサボタージュではないか? 死刑制度存続の重要な根拠に、「犯罪の抑止」がある。ならば、執行の事実を広く知らしめ、「我が国にはこのような制度があり、割の合わない犯罪はやめよう!」というキャンペーンの機会になぜしないのだろう?

2、 誰が、いつ、どのような順番で執行されるのかを、わかりやすく説明して欲しい。今のままでは、あまりに思いつき、恣意的で、法のもとの不平等がまかり通っている。

3、 執行に際して、判決を下した裁判官、ハンコを押した法務大臣はなぜ立ち会わないのか? キッチリと見て確認することこそ、職務の全うである。さらに、死刑制度存続の、もう一つの根拠に「被害者遺族の心情を思えば・・・」というのがある。 処刑台の踏み板を開くボタンを、それで気が済むのなら、遺族代表に押してもらってはどうか?

4、 死刑確定者にメディアがインタビュー出来ないのはなぜか? 死刑囚にこそ「表現の自由」を許し、まず、被害者にわび、犯罪事実と心情の克明な記録を国民への「遺産」として残すこと。さらに私なら、彼らに「生きるとは」「セックスとは」「時間とは」「教育とは」「食欲とは」「国家とは」について今思うことを聞きたい。こうして出来る「いのち文庫」で生じた印税は、被害者救済基金に当てる。

死刑執行、するなら公開せよ。最高裁判所の正面玄関でこれを行い、全国にテレビ中継せよ。執行の前にはおごそかに「君が代」を歌う。国民全員が遵法精神を誓い合う重大セレモニーがこれから始まる。今、健康で、もっと生きたいと思っている者が、いかに反省、懺悔、悔い改めようと国家はこれを許さず、殺す。ならばこそ、その毅然たる行為、見えるようにしてほしい。見せられないものは、やめたほうがいい。


MEN'S CLUB寄稿 「石井信平の言語道断」より
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永井荷風作 「勲章」

2012-01-27 18:30:50 | 描かれたエルダー (日経新聞)
 老いて、人はどこか「入り浸る」場所をもつべきだ。茶室に風雅を探り、愛人宅に足繁く通うなど、この世の見納めの場所を、おのおの確保したいものだ。

 晩年の永井荷風にとって、ストリップ小屋の楽屋がそれだった。「勲章」(岩波書店「荷風全集」所収)は、半裸の女たちが、ごろごろ横たわる乱雑な場所で、時を過ごす老人の心境を描いている。

 そこは「花屋の土間に、むしり捨てた花びら」が掃かれもせずに散らばっているような場所だった。安香水と油と人肌が混じった重い匂いがたちこめ、彼はそこで「緩かな淡い哀愁の情味」にひたることができた。ああ、こういうところではないか、男が長い人生の果てに、ほうけた顔でいつまでも「入り浸って」いたい場所は・・・。

 荷風はそこで、岡持ちをもって出入りする、赤ら顔の爺さんに出会う。丼飯を楽屋に運ぶ男は、日露戦争での手柄話が自慢だ。踊り子たちは「じゃ、その勲章を見せておくれ」とせがむ。爺さんが腹掛けの中から大事そうに取り出したのは勲八等瑞宝章。舞台衣装の軍服を着せて「私」が爺さんの写真を撮ることになった。踊り子が服に縫い付けた勲章は、左右逆の位置だった。爺さんもボケてそれに気付かない。

 「私」は仕上がった写真を引き伸ばし焼き付ける時、仕方なくフィルムの裏表を逆にして楽屋に持っていった。しかし爺さんは、あれ以来ピタリと来なくなった。折角写した写真なので、身寄りでもあれば届けたい。そう思いつつ、「私」は相変わらず楽屋に入り浸る。風紀を乱す行為に及ぶには、もう「体力がない男」と見なされることの気楽さよ。

 木戸銭を払わずに、裏口から出入りする人生には、正統な老いとは別な達観がある。世間の常識からずれて、左右を逆にして生きて、なお、そこが居心地いいならば、誰に遠慮することがあるだろう。

 永井荷風は「文化勲章」で人生の最後を飾った。そう世間に思われている。だが、その勲章をボロ畳の部屋に放置し、通い続けたのが、素肌のままの女たちがいる楽屋だった。(信)
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好奇心を失ったメディア、楽しみは総理との会食だけ? 「人質事件」発生時に小泉と会っていた記者たち

2012-01-18 13:35:43 | 月刊宝島「メディアに喝!」

 高い報酬、手厚い特権、生活の安定を保障されると、人はチャレンジしなくなる。マスコミ記者たちも所詮サラリーマンだから「保身」は当たり前。だが、いまメディアで進行している最大の深刻な事態は、記者たちが好奇心を喪失していることである。本当はどうなのか、真相は何か、それを知ろうとするジャーナリズムの「エンジン」が壊れてしまっている。

 好奇心の最初の発露は「質問する」ことであり、「調べる」ことである。今や会見やインタビューで記者たちがすっかりナメられているのは、その質問水準があまりに低すぎるからだ。権力筋の答弁がいい加減で済んでいるのは、別途「調べられてる」という恐怖が全くないからである。

 それでもマスコミという産業が成り立っているのはなぜだろう? 全国に四〇〇ある「記者クラブ」という情報源から、ニュース素材が「調達」できる。また「取材」を名目にした大小さまざまな特権が、職業上の「威光」を放つ。

 おいしい特権は、たとえば総理大臣とメシが食えることである。イラクで日本人三人が人質になった四月八日、小泉首相は夕方から赤坂プリンスホテルで新聞社の論説幹部と会食した。

 アルジャジーラの報道により「日本人三人が人質になり、撮影されたビデオがある」と首相に第一報が入ったのは一八時四五分で会食の直前だった。宴は予定通り二時間続いた。何を食べたのか、誰が支払ったのだろう? 何よりも知りたいのは話の内容だが、新聞はそれを報じてくれない。

 この日のメンバーは、読売・橋本五郎、朝日・早野透、毎日・岩見隆夫、松田喬和の各氏。私は彼らを非難などしない。飲ませる、オペラに連れ出す、独身の首相に美女を抱かせる、何をしたっていいよ、それが首相の真意を聞き出す手段だとハラを決めたのならば。

 しかし、いまの新聞紙面の八割が記者クラブで「発表された情報」だという一例に象徴される、メデイア全体のどうしようもない「報道劣化」をこの編集幹部のオジサンたちはどう考えているのか、である。この状況で総理と乾杯できる太い神経の「論説」を是非読ませてほしい。

 かつて「大東亜戦争」に沢山の従軍記者たちが戦地に出向いた。現地の司令官と結構な会食もしただろう。食ったことはいい。高級将校用「慰安婦」のお裾分けにあずかったか、それもいい。しかし、「官」の広報機関に堕落したひどい報道が日本全土を覆ったこと、その責任だけは当時の記者一人一人が問われる。

 新聞記者のトップに昇りつめたような人が、当時こんなことを書いていた。「(米国は)戦争に負ける。負けたと正直に発表すると国内が動揺するから、ひた隠しに隠して、『勝った、勝った』と嘘八百を並べて放送する。直ぐその後から日本の東京放送超短波が米国市民に呼びかけて戦争の真相を知らせる。アメリカ市民は日本の大本営発表を信じ、米国政府のニュースに疑問を持つようになった。」(朝日新聞東京本社、企画局副参事・棟尾松治『大東亜戦日誌』119頁、六藝社、昭和17年刊行)。

 この本で大本営陸海軍報道部のトップと共著の栄に浴した「エリート記者」は、戦後この特権をどう総括したのだろうか?

 イラクでの人質事件をよそに、会食は続けられた。事件がどんなにこじれようと、「アルジャジーラ」の放送をチェックし、外務省と官邸の記者クラブで発表を待って記事を作り、アラブご専門のタカハシ先生かオーノ先生にコメントをお願いすれば報道なんて出来ちゃう。さて、今夜は誰とメシ食おうかなー。


2004/4/16執筆 #9
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音楽の使徒として黄金の鎖につながる

2011-11-30 16:29:58 | 人物
所沢市文化振興事業団発行「Info Mart」1995年3.1 Vol.2掲載


文化のバトラーを訪ねて(2)

カザルスホール総合プロデューサー 萩元晴彦氏


 サントリーホールを建てたのはウィスキーの会社だった。魂を吹き込んだのはプロデューサー萩原晴彦だった。

 サントリーホールを世界的なオーケストラ専用ホールへと離陸させた萩元は「劇場支配人」の地位に居続けるには、あまりにプロデューサーでありすぎたのかも知れない。新しい自分自身に出会うことを面白がる本能が彼を次なる仕事に導いた。

 カザルスホールを建てたのは、主婦の友という出版社だった。この建造物にもまた、魂と哲学が必要だった。萩元のところに総合プロデューサーになって欲しいという要請が来たことに、彼は人の意思を越えたものを感じた。

 「サントリーホールのオープニングシリーズで僕はやめようと思ってたわけじゃないんです。途中からカザルスホールの相談を受け、これはやるべき仕事だと思った。神の見えざる手に導かれ、としか言いようがないのです。」

 昭和22年、夏の甲子園大会で松本中学(旧制)の投手として活躍した萩元は、1977年から3年間、押しかけコーチとして毎週土曜日、東京から長野県松本市の母校野球部のグラウンドに出向いた。その時、主婦の友社『私の健康』の女性記者が松本まで萩元を取材に来た。彼女はたまたま社内の新ホール開発プロジェクトの一員だった。萩元と主婦の友社との出会いである。

 かつて萩元は、1970年に開催された大阪万博博覧会の電電館のプロデューサーを務めたことがある。それに先立つモントリーオール万国博覧会のパンフレットに萩元は興味深い文章を見つけた。それは、いいパビリオンのための二つの必須条件だった。



 一、何をやるかを決めてからパビリオンを建てなさい。

 二、そのことを深く愛している人間をプロデューサーにして、彼に任せなさい。そして狂い死にするくらい彼に仕事をさせなさい。




 萩元は言う。「一、について、残念ながら日本では、設計図ができてから、さて何をやるのかという企画委員会を召集しますね。僕もある地方都市の文化ホールの委員を頼まれたことがあり、その席で、まず建築をストップせよと主張して物議をかもしたことがあります。僕はこう思います。建築物のコンペの前に、まずソフトのコンペをやるべきです。そのプランをオープンにしてから建築のコンペをすべきだと思います。日本では順番が逆ですね。企画コンペそのものが建物のパブリシティになるはずなのです」

 磯崎新の手により設計されたカザルスホール。萩元の頭にひらめいたのは「室内楽」だった。その時、彼にひらめいたのは「ことば」ではなく「旋律」だったかも知れない。

 「日本にはもっと室内楽が必要だ、という小沢征爾さんの意見を常々聞いていましたから、自主公演を核にした室内楽専用ホールに、というコンセプトを僕はたてたのです」

 《多目的ホール》全盛の当時、室内楽専用ホールをうたうことは無謀ではなかったか?アーチストを次々よべるのか?採算は合うのか?時には演歌や落語もいいんじゃないか?

 しかし、萩元には室内楽に特別な思いがあった。演奏の上では命令・服従の関係でなく、自立した音楽家によるアンサンブルの芸術であること。思えばプロデューサー萩元晴彦の歩みそのものがそれに重なる。

 TBSという巨大企業を離れ、テレビマンユニオンという組織を作った。株式会社にして創作集団の代表として、二律背反の組織運営に悪戦苦闘して来た。その萩元にとって室内楽は調和と創造の極み、天才たちのいとなみであった。よし、この場をアンサンブルの会堂にしよう。

 その時、ホールは器ではなく、人格となった。


 客席数511のカザルスホールが世界的な室内楽ホールの評判を得ながら、それを持続させる実務と収支の困難は想像に難くない。テレビマンユニオン主催公演など、「オーケストラがやって来た」のノウハウと、アーチスト・ネットワークがあって初めて乗り切れた部分もあっただろう。

 「スポンサーがつけばいい、と簡単に言いますけどね、アーチストの契約って、3年先の分を行わなくちゃいけないんです。そんな先のことでスポンサーなどつくわけがないんです」

 今から3年先にはカザルスホール開館10周年が待っている。そのための企画と交渉のことで萩元の頭脳は回転している。

 「ゾウリ取りをしながら天下取りを考えている若き秀吉の心境です」と笑う。

 プロデューサーは後継者の教育をどう考えているのだろう。

 「チェロ奏者のヨー・ヨー・マに会いに行く時、一緒に行ったアシスタントに、僕が事故にあって一人で彼と交渉することになったら、君は彼に何と言うか、と質問したことがあります。そういう教育をしてゆかなければいけないのかな、と最近考えることがあります。アートマネジメントの学校はありますが、現実の場面でどこまで役に立つものやら。実践的なセミナーが必要で、それから、1年ぐらい、いいホールに出向いて勉強することをしたらいいでしょうね」

 サラリーマンではなくインディペンデントなプロデューサーは、自分の考えをオーナーとスタッフの両方に、明快に説明できなければならない。哲学を持つこと、哲学なしに始めると問題が起こる。哲学があっても問題が起きることがあるのだから――。


 萩元晴彦はホールプロデューサーのモデルとして、イギリス、ウィグモア・ホールのウィリアム・ラインの名前をあげる。市の予算で運営される音楽ホールのマネジャーとして彼は、館内を案内する女性のマナーやポスターのデザインにも気を配る。そしてピアニスト内田光子によるモーツァルトのソナタ全曲演奏を「水曜日のミツコ」といった魅力的なタイトルで企画し実現させた。すべては音楽を愛するがゆえに。ラインもまた音楽の神に仕えるバトラー(執事)のこころを持って客をもてなす。

 新約聖書の冒頭は、キリストにいたる予言者たちの系図が語られている。萩元は天才音楽家たちの系図に自分がつながっていることにひそかな自負を持っている。

 カザルスホール開館公演によんだピアノのホルショフスキーの先生はレシェティツキー、その先生はチェルニー、その先生はベートーヴェン。萩元はこれを「黄金の鎖」と呼ぶ。ホルショフスキーに学んだ相澤吏江子はカザルスホールが世に送り出したピアニストだ。

 萩元晴彦は、この黄金の鎖の端を握る人として、音楽の使徒の系図に加わる。これは世俗の利得を越えた、プロデューサーへの恩寵である。

(敬称略)

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わが椅子はファーストクラス 

2011-11-29 00:03:00 | 人物
所沢市文化振興事業団発行「Info Mart」1995年 Vol.1掲載

文化のバトラーを訪ねて(1) 

カザルスホール総合プロデューサー 萩元晴彦氏


 カザルスホール総合プロデューサー、萩元晴彦は「プロデューサーになるには試験も免許もいりません。印刷屋に行って名刺を作ればなれますよ」と言って笑った。

 世にプロデューサーを名乗る人は多い。企画を立てる人も多い。しかし、企画を実現させ、アーチストと聴衆の両方を満足させるプロデューサーは少ない。萩元は数少ないプロデューサーの中でも先駆的な歩みをしてきた。

 TBS社員時代とテレビマンユニオン創設を通して数多くの話題作、問題作を放送番組として世に送り出した。その中には王将戦のドキュメントもあれば、日本初の3時間ドラマもあった。いずれも放送界の常識を破る試みだった。また「オーケストラがやってきた」という番組が音楽界に与えた影響もはかり知れないものがあった。

 その萩元に、サントリーホール出発の時、総合プロデューサーの話が来た。企業名を冠した音楽ホールも珍しいが、プロデューサーを迎えることも話題となった。

 「ぼくはその話が来た時、二つのことを考えました。一つは、何をするのか、何のためにこの仕事をするのか。自分で考えなくちゃならないな、と思いました。プロデューサーという仕事は日本ではあいまいで、概念規定がありませんからね。もう一つは、引き受けるに当たっては小沢征爾さんに相談しよう、ということでした」

 最初、小沢は賛成しなかった。このホールにどれだけフィロソフィーがあるのか疑わしく、何より、企業名を冠したところに宣伝意図が見えすいていたからである。ある日、小沢はサントリーホールの社長、佐治敬三に聞いた。

 「佐治さん、あなたが死んだら、サントリーホールはどうなるの?」

 この質問が、佐治にプロデューサーの必要を一層痛感させたと考えていいだろう。

 萩元は言う。

 「世界中のホールを知り尽くしている小沢さんにして初めてできる率直な質問です。小沢さんはこの質問を通してホールの哲学を問うたのです。ウィスキーが売れに売れていた当時でも、大音楽ホール建設は企業としては重大決意であり、佐治さんがいなければできないことでした」

 サントリーホール総合プロデューサーに正式就任した萩元は、1985年5月15日、佐治の前で次のようなプレゼンテーションを行った。



 「初めに音楽ありき。音楽こそがホールの主人(あるじ)である。そこに美しい音楽がみたされなければならない。クラシック音楽専用のホールとして理想的な音響空間を有し、再現と創造の場として機能する。自主公演を企画、制作し、オープニングシリーズは音楽でいえば主題の提示部であり、通年企画は展開部である。

 ホールは音楽家にとって楽器である。そこで練習し公演するオーケストラを持つことを将来の課題とする。私企業のホールとして一切の官僚的規制を設けない。質の高いサービスも聴衆にも献身するスタッフを揃える。ここは商品開発の場であり、商品は不朽のロングセラー『クラシック音楽』であり、新しい発想によるマーケティング展開によって音楽人口の拡大を図る。以上を実現するために、私たち全員が音楽という主人(あるじ)の僕
である」



 ホールはスタートした。「小沢征爾とベルリンフィル」「内田光子とイギリス室内オーケストラ」といった一級の企画がオープニングシリーズを飾り、サントリーホールを一流のホールとして世界に知らせた。それも前述のマニフェストが血となり肉としてスタッフ全員に分かち合われたからであろう。

 準備段階の頃を萩元はこんな風に回想し苦笑する。

 「初めは、プロデューサーといえども時間給で、出勤簿に線を引かされたものです」

 雇う方も、雇われる方も試行錯誤だった。

 「ぼくなんか、ずい分なまいきと思われたかも知れません。準備やアーチストとの交渉のための海外出張はぜんぶファーストクラスを主張しました。ホールを設計した建築家の先生がファーストクラスなら、プロデューサーも同格じゃなきゃおかしい、という考えです。あとから来る人のために使命感もありました。どうも日本では建築家の方がエライということになっていますね」

 これは企画や方向性より先に建物の設計が決まってしまう風潮への警告である。同時にファーストクラスの感動に観客を誘うプロデューサーの自負も込められている。

 建造物には惜しみなく金が使われ、アーチストにもそれなりに支払われる。けれどもその二つをつなぐ知恵や志に費用が考えられていない。総じて「ソフト」と呼ばれる部分へのプライオリティ(優先順位)の低さは日本をユニークな文化国家にしている。しかしそのことを嘆いても何もはじまらないだろう。プロデューサーに戦略がないことを暴露するだけだから。

 萩元は連絡を続けている『婦人公論』の「プロデューサーは何をするか」の中で、《説得すること》こそプロデューサーの重要な仕事だとあげている。

 「プロデューサーは命令しない。技術を練磨して説得する。説得力は企画に対する確信と情熱から生まれる。まず企画。最後は魅力ある人間になること」(同誌、'94年11月号) 

 プロデューサーは文化のバトラー(執事)である。彼は芸術の神につかえる。企画も説得力も日常の実務も、すべて芸術への愛に裏打ちされている。そこではプロとアマの差もない。

 「愛情を持たないプロより、知識経験に欠けても、音楽に愛情を持ったアマチュアが一生懸命に仕事をすること、それが大事なのです。例えば、松本ハーモニーホールの館長さんは市の農政部長だった人ですよ」

 ソバやジャガイモの収穫を思案する人が、音楽に心をくだくということは自然なことだ。そこには宮沢賢治が描いたユートピアのイメージがわいてくる。現実はもちろんユートピアに遠い。だからこそ、時代は夢と現実をつなぐプロデューサーを必要としていた。童話「シンデレラ」に登場するおばあさんは、カボチャを美しい馬車に変える魔術を持っていた。私は「プロデューサー」という言葉からこのおばあさんを連想する。

 変哲のない空間も、プロデューサーの夢や企画力によって、人が集い、楽しみ、感動する場所に変えてしまう。プロデューサーは現実をおとぎ話に変える術を持っていると言うべきだろう。

 サントリーホール総合プロデューサーの席が温まる間もなく、萩元のところに新しいホールの仕事が舞い込んだ。日本で初めての室内楽専用ホールとなった「カザルスホール」。シンデレラのおばあさんは「魔術」を使ったが、萩元は何を持って新しい仕事場に乗り込んだのか。その話は次回にゆずりたい。

(敬称略)
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貧乏・孤独乗り越えた老境

2011-11-28 22:58:32 | 描かれたエルダー (日経新聞)
小説 『一茶』
藤沢周平著 文春文庫


 年老いて、もし孤独と貧乏に襲われたらどうしよう。「散る花や 己におのれも 下り坂」は、老いの心境を見事に言い当てた小林一茶の俳句である。

 雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る

 教科書にも載る代表的名句で、彼は超俗と無垢な詩人と理解されてきた。しかし、藤沢周平作「一茶」(文春文庫)は、気ままな風雅に生きたと思われる彼の生涯が、実は、物乞いに等しい貧困と、世に認められない鬱屈にのたうつものだったことを描いている。

 継母にいじめぬかれて十五歳で信州を出奔、江戸での「奉公人暮らしから流寓(りゅうぐう)の暮らしへ」の一茶の転職は、二十代で「脱サラからフリーライターへ」と身を投げることだった。彼が潜り込んだ場所は、趣味人が集う句会の席だった。

 高名な俳人の弟子と偽って会をとり仕切り、駄賃や路銀をせびって、辛うじて生計をたてる日々を過ごすうち、五十歳を迎える。生涯ざっと二万句をひねりだした一茶だが、世間は俳諧を生計の道具にする彼を風雅の人に非ずと厳しかった。彼は江戸での暮らしを切り上げた。富も名声も妻子もない一茶は、ただ貧しい百姓だった弟の財産半分を自分のものにするために帰郷した。

 彼の「俗物ぶり」は、五十二歳で二十八歳の女と結婚してさらに深まる。それまで抑えた性欲は転じて「夜五交合」と、ある日の日記に記す。生れたのは俳句ではなく、四人の子どもたちだった。

 しかし、子らと戯れて過ごす悠々たる晩年は彼には無縁だった。江戸からは、つまらぬ俳人が自分より遥かに高い名声を得ている報せが届く。嫉妬と憎悪が、中風で歩くのも不自由な彼を切りさいなむ。そして、運命は彼の子供たち四人と妻を次々に病で奪い、再び彼を天涯の孤独が襲う。

 かくれ家や 歯のない口で 福は内

 彼は、六十歳を過ぎてさらに二人の妻を迎えて孤独を乗り越え、貧乏は俳句に昇華してやりすごした。枯れず、嘆かず、老醜さえ俳句にした彼を「攻めの老境」と呼びたい。

2002年10月某日 日本経済新聞「描かれたエルダー」掲載
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硬骨の宮内庁長官田島が残したミステリー自衛隊「派兵」を考えさせる天皇の「お詫び」

2011-11-28 22:28:43 | 本・書評
『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』
 加藤恭子著 文芸春秋 


 イラクに自衛隊「派兵」が決まった日に私は本書を読了した。一時は国民の大半が反対していたことを強行して、あとで誰かが「お詫び」する事態になるかも知れない。本書は、国の外に兵を送って始めた「大東亜戦争」について、昭和天皇が国民に謝罪しようとした、その草稿の背景を徹底取材したノンフィクションだ。

 敗戦直後の天皇周辺は修羅場だった。戦争責任についての内外からの厳しい目。勝者である占領軍の方針を測りかね、開始された極東軍事裁判で訴追される恐れもあった。加害と被害のすさまじい戦禍が日を追って伝えられ、詫びるか、退位するかの判断が天皇と側近たちの焦眉の急だった。大変なプレッシャーに耐えていたことが、本書を読むと手にとるようにわかる。

 昭和二十三年から二十八年まで、宮内庁(府)長官は田島道治だった。敗戦によって政府内人事は、実に風通しが良かった。田島は爵位もなく、役人でもない。戦前は「昭和銀行」という不良債権処理のためのブリッジ・バンクの頭取になり、さっさと退職金を得て、それを担保に「明協学寮」という学生寮を始めた硬骨の人である。戦後は日銀参与、大日本育英会会長、ソニーの会長まで務めた。懐深さと魅力に富んだ人物だった。

 著者は田島の生涯を一冊の本に書き終えて、膨大な資料を遺族に返すとき、偶然に一枚の紙を発見する。それが昨年夏、雑誌『文芸春秋』でも話題になった「謝罪詔勅草稿」である。田島の肉筆によるテキストは、およそ五百字。その一部を口語訳で紹介すると「……善隣との友好を失い、列強と戦い、遂に悲痛なる敗戦に終り……多くの人々の塗炭の苦しみは、まさに国家未曾有の災いというべきである。静かにこれらを考えるとき、心配の炎は身を灼くようである」。それに続く言葉「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」。

 この文案は側近や内閣でもエンエンと検討された模様だが、用語の一致点を見出せないまま、発表は先送りされた。宮中、政府内部の様子、対マッカーサーの緊張感ある駆け引きも描かれ、まるで占領期にタイムスリップしたような気分になる。けじめをつけたい、そうでなければ「今後のわが国に無責任時代が到来するのは必至」(村井侍従)という危機感が側近たちにはあった。驚くべき誠実さで「お詫び」の文章に取り組むディテールが田島の日記で検証される。

 文案の検討は実に昭和二十七年、講和条約発効の年まで持ち越される。その年五月の憲法施行五周年の式典こそ、お詫びのラストチャンスだ。田島の日記には毎日のように「午前中書斎にておことば整理 最後案作る」「おことばノ仕上ゲ」の文章が続く。読んでいて、本当にしびれが切れてくるような思いになる。昭和天皇は戦後「人間宣言」をし、競馬場に「天皇賞」の名前を貸す程さばけた人だった。しかし田島の草稿による「お詫び」の発表はついになかった。

 複数の昭和史研究者たちの、次の様な声が聞こえる。田島の草稿がいつ書かれたか不明であり、これを天皇が見たかどうかも分からない。文案の検討に天皇が加わった形跡は全くない。あくまで田島の「試案」ではないか?実にシビレルような話である。喜劇であり、悲劇であり、ミステリーだ。

 昭和天皇は「東京裁判」に訴追されず、証人にも呼ばれなかった。しかし「証言」は残すべきだったと私は思う。それを記録する義務が「くに」にはあった。あの戦争が政治、軍事、人事の、いかなるメカニズムで始まったのか、天皇の立場でなければ言えないことがあった。それこそが、未来の皇室と国民に果たすべき「ご公務」だったはずだ。資料はどこかに残っているのか?

 先の戦争にこんなに不明なことが多く、総括しないままイラクに派兵していいのか?それが本書の読後感だ。イスラムの虎の尾を踏んだら、今度は「お詫び」じゃすまない。


2004.2.27 「週刊朝日」掲載
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知的に綴られたお尻賛歌

2011-11-28 21:25:52 | 本・書評
「お尻のエスプリ」
J=R・エニッグ著 江下雅之・山本淑子訳
リブロス刊 2200円

 無類のお尻好きが書いた、あふれるようなお尻賛歌である。フランス語版『ローリングストーン』誌編集長だった著者は、人間がいかに尻を愛してきたか、実に楽しげに古今東西に資料収集し編集してくれた。

 日本では、俗なるものを極める人々を「おたく」と呼ぶ。しかし本書には、おたくのタコ壺的閉鎖感がない。尻という俗なるものを深く極め、他者に語ろうとする精神が熱く感じられる。

 私は女性の尻は大好きだが、尻の起源など考えたこともなかった。著者は冒頭でわれらが進化における重大な事実を見逃さない。即ち人類は直立によって尻の筋肉がいちじるしく発達し、「現存する霊長類193種類のなかで、人類だけが常時突き出た半球状の尻をもっている」。直立歩行は同時に大脳の発達を促した。「ヒトの尻は、いわば大脳の急激な進化による結果なのではないか」。

 この性急な仮説によって、「ケツ」とおとしめられてきたものが、ガゼン重大な文化的な問いかけに変貌し、読者を一気にめくるめくお尻ワールドに引き込むのである。

 お尻とは突き出た肉塊である。これがなぜ官能、陶酔、誘惑、優美、快楽、恍惚……へと人を誘うのか?

 このフシギを解くために、ギリシャ彫刻やルネサンス絵画、モンローやバルドーの尻が総動員され、はたまた「上品な丸み、優雅なうねり」の尻にまつわる詩や散文がふんだんに引用される。

 究極の愛情表現として女性の尻のソテーを食った日本人、佐川一政のことばも忘れずに記している。「……尻を切ればすぐに肉が露出すると思ったのだが、脂身ばかりだったのに驚いた。……尻は女体の中で一番そそられる部分だった」。

 私にとってあこがれてやまない西欧とは「金髪」ではない、尻だった。食ってしまうにはあまりにもったいなく、映画館の暗がりで見た女優たちの尻、進駐軍の将校夫人の尻、触れることの許されないわが青春の尻を思い出しながら本書を読んだ。

 たかが尻が、ここまで知的に面白く語れるのか。言葉をつくして語る値打ちがあるものだったのか、という新鮮な驚き。これは、知られざる尻の幾山河を踏破してやまないチャレンジの書である。尻の量感では永遠に勝てない日本人は、せめてこのまっしぐらに好きなものに向かう知的姿勢は模倣したいものだ。

 「動物学者デズモンド・モリスによれば、愛の普遍的な象徴であるハートは、尻、それも後ろから見た女の尻に由来する」というくだりに、尻の秘めた精神性に打たれる。

 かと思うとドルマンセはこう叫ぶ。「畜生!何というデブ、何というさわやかさ、何という炸裂、何という優雅さ!……」。男なら誰でも思い当たる尻に焦がれる切ない思いがちりばめられた本である。

「現代」1998年4月号掲載
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