ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

流浪の関白と足利義昭

2017-04-23 19:27:25 | 日記
 前々回の「本能寺事変の黒幕と目された男」に続き、近衛前久(このえさきひさ)について考えます。近衛家というのはこの前も書きましたように、五摂家筆頭というたいそうなお家柄なのですが、それが何故秀吉などの詮議を受けなければならなかったかといえば、その根底にはお公家さん全般、疑われる要素が多分にあったからなんです。疑われたのは前久だけではなかったんですね。前久の荷物を預かっていた吉田兼見(よしだかねみ)もその一人でした。

 何故お公家さんたちが疑われたのか。ご存じのように信長が朝廷の上に立とうとしていたからなんです。そう思われても仕方ない理由として暦製作権への介入、そして三職推任問題があります。朝廷が定めた暦に異論を唱えたり、「太政大臣か関白か将軍か」あるいは「いかようの官にも」任官させるべきという朝廷からの申し入れに対して、はっきり拒んだわけではありませんが返答をしていなかったこと。これはもう朝廷を軽んじているとしか思われません。

 というわけで、公卿衆が信長暗殺を企てたのではないかと思われてしまったのですが、真相は専門家にお任せしましょう。

 「洛中洛外図屏風」より公方様

 さて、前久です。前久は十九歳という若さで氏長者(うじのちょうじゃ)となり、関白に就任しています。この一事をもってしてもどれほどのお家柄かは想像に難くありませんけれど、何しろ下剋上の時代、戦国時代でしたから、朝廷の権威も足利将軍家の権威も失墜していました。将軍といえども都落ちする時代でしたから、前久の従兄弟にあたる13代将軍義輝(よしてる)も、近江へ難を避けることが多かったようです。

 朝廷も将軍家も無力で、朝官最高の地位に就いた前久も政治的には全く無力であることに気づくと、彼は有力な武家との交流を図ります。もともと将軍家と近衛家の密接な関係(婚姻による)があって、近衛家の関係者が将軍の命を帯び、大名間の講和・斡旋等のために諸国へ派遣されることも多かったようです。そんな関係で、対武田問題のために上洛してきた越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)と親しくなり、時の関白であるにも拘らず、越後へ下向しています。

 現任関白の東国下向は史上はじめてのことでした。こうして彼はこの時代の有力者と精力的に接触し、直接的な関わりを持っていきます。信長・秀吉・家康はもとより、島津義久・顕如光佐等、時代を動かした人たちと深く関係していくのです。その中で特筆すべきは、義輝の弟であり、15代将軍となった足利義昭。血縁であったにも拘わらず、彼が信長とともに上洛してくると、前久は京都を出奔します。理由は「武命に違(たが)う」ということでした。

 武家の命に違背した理由は明らかではありませんが、おそらく義輝が暗殺されたあと、奈良の一乗院を脱出した義昭に対して、思うがままに任官させられなかったことが原因であろうといわれています。義昭にしてみれば、前久の働きかけによって容易に将軍宣下を受けられると考えていたのでしょう。しかし当時の京都は三好三人衆の勢力下にあって、彼等は義栄(よしひで)を将軍に推戴していましたので、前久は迂闊に動くことができませんでした。

 そのような経緯から義昭は前久を恨んでいたようです。ために前久は京を追われ、7年間に及ぶ流浪生活をすることになったのです。

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