ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

信長と前久(さきひさ)

2017-05-08 18:19:46 | 日記
 いい陽気になりましたね。芭蕉ならずとも旅に出たくなる季節です。しかし戦国時代、戦(いくさ)のための旅は大変でした。ほとんどが野営ですし、いつ夜襲があるかわかりませんから眠ることもままなりません。おまけにろくな食事もとれず、重い甲冑を身につけていたわけですから、考えただけでぞっとしますね。それを思えば、ゴールデンウイークの渋滞など、ものの数ではないかもしれません。

 さて、前回に続き前久です。前久は義昭との確執により京を追われ、まずは石山本願寺に身を寄せます。その後河内の若江、丹波氷上郡と居を移し、流浪の日々を過ごしますが、義昭が信長によって京を追われると、信長の尽力もあってようやく戻ってきます。なんと、出奔してから7年の歳月が流れていました。

 信長が前久の帰洛に手を貸したのは、前久の利用価値に早くから目をつけていたからなんです。帰洛後、前久は信長のメッセンジャーとして奔走し、朝廷についての知識を信長に提供しました。将軍家との縁も深かった前久ですから武芸の嗜みもありましたし、何といっても趣味の鷹狩りと馬で気が合ったようです。二人は馬・鷹・甘柿・大根や鷹狩りの獲物などを贈答しあう仲になりました。

 鷹狩りと馬を通して、前久は信長との親交を深めていきます。驚くことに前久は鷹狩りの権威でもあったんですね。「龍山公鷹百首」というのがあって、これは前久が鷹司を詠みこんだ和歌を編んだものですが、鷹の種類や鷹狩りの装束・作法・道具の注記が多く、歌集というより秘伝書の趣があります。また島津義久兄弟に自ら選んだ馬や馬具を贈っていることから、馬に関しても相当の見識があったと思われます。

 

 また信長の方も、フロイスの『日本史』に「著名な茶の湯の器・良馬・刀剣・鷹狩り・相撲」を好んだとあるように、鷹や馬には目がなかったようです。前久は信長から何度か馬を贈られていますが、前久が島津にねだって手に入れた大鷹を信長に所望され、手放すことも多くありました。また天正9年に行われた「馬揃え」では、公卿衆として前久も参加しています。馬に乗れるお公家さんの少なかった時代ですから、武家に負けまいとする意気込みが感じられますね。

 親交を深めた前久は信長に所領をねだったりもしています。7年間の流浪生活で失った土地領有権を回復してもらったり、1国ないし2国を宛行う旨の約束を取り付けてもいたようです。信長の前久優遇はそれだけではありません。京に二条屋敷を造った折、その隣に前久の邸を提供しているのです。信長の二条屋敷はその後誠仁(さねひと)親王に提供されて二条御所と呼ばれますが、本能寺事変の時に信忠がここに立て籠もったことにより、前久が疑われる原因となりました。

 公家社会の最高権門にありながら武家を目指した公家近衛前久は、晩年になってそれを後悔するような手紙を島津義久に送っています。「いらざる馬・鷹・自余の武芸をあいあいに習い候て…」、公家として成すべきことが他にあったのではないかと。(参考・谷口研語著『流浪の戦国貴族近衛前久』)

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)   関連ブログ(本能寺事変の黒幕と目された男流浪の関白と足利義昭
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 流浪の関白と足利義昭 | トップ | 秀吉・家康と前久 »
最近の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。