大谷心基

キリストを、平和を、愛を、希望を、日々のあんなコトやこんなヒトとの出会いの中で探していく・・・

「絆」が叫ばれた年のクリスマス

2011年12月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「『絆』が叫ばれた年のクリスマス」

恒例の、清水寺にて発表される今年の漢字に選ばれたのは「絆」である。

3月11日の東日本大震災を経験した私たちは、「絆」を再発見したのだ。
つまり、切る事のゆるされない、切る事のできない関係性の大事さを決定的に知るに至った。
私たちは地震、津波、原発事故という大苦難を体験、追体験する中で、
一人では生きていけないこと、他者と助け合わねば明日の命が見えてこないことを知った。
それは死者および死と向かいあう状況の中で知らされた。
つまり「絆」を取り戻す豊かな動きは、
死と死者と向かい合う中での悲痛を中心とする複雑な心と体の動きの只中でのみ起こされているのだ。

クリスマス。
それは「神我らと共にいます」という神の「絆」の宣言を祝う時。
神が絶対に私たちとの関係を切らないと宣言された日。

それはキリストを通して起こされた。

キリスト。
それは十字架で殺された方。
最も虐げられ最も見捨てられた方。
神は、キリストの死と死者としてのキリストと出会う中で私たちとの「絆」を取り戻された。
私たちもキリストの死を目の当たりにして神との「絆」を知らされた。

「絆」とは命であること、生きることと対峙する出来事の只中でこそ確認される。
だから共に生きるときには、私たちは必ず命と生を脅かす苦しみ、悲しみ、痛み、さみしさを経験する。
すると私たちはそれらを避けるために共に生きることを停止し、一人になろうとするかも知れない。
また、互いの利益が確保される限りにおいて共に生きるという線を定めるかもしれない。
しかしそれらは「絆」においてはゆるされていない。
それらは自分の安全地帯があることが前提となる。
しかし大苦難という安全地帯が消える中では、端的に互いの苦痛、悲哀を担いあうしかない。
そこでどんな緊張、摩擦があっても、担い合うしかない。
そうしなければ命と生とが確保されない。
そしてこの十字架としか言いようのない場面にて、「絆」が再発見され、成立する。
この事実は、神との「絆」が十字架によることにより証明される。 

また「絆」が叫ばれると同時に、「日本」というフレーズも叫ばれた。
つまり「絆」にて十字架を背負ってもなお私たちがつながるために、
「日本」という共通項が強調されたのだ。
しかしその中で同じ災害にて苦しむ在日外国人は、存在を無視され差別もされた。
同時に日本国籍を持つ者たちにも、
国家主義を歴史的罪責の吟味なしに受け入れる社会の雰囲気が起こり、
ゆえに政府の言動をそのまま信じる雰囲気も起こされた。
そしてこのことがとりわけ放射能問題では人々にさらなる傷を負わせている。

「絆」の心臓は「日本」などの国家ではない。
キリストの十字架であり、我々の背負い合う互いの十字架である。
端的に共に十字架を背負う「絆」こそ、
神が私たちに贈るクリスマスプレゼントなのである。
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キーワード
生きること クリスマスプレゼント 在日外国人 今年の漢字 東日本大震災
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