児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

演奏会で必要なもの

2007年06月28日 | 徒然
今日はあえて雑雑とした話題。

その1。クラシックの演奏会を企画するのに必要なものは何か、と言うことを講座などで良く話をするのだが、これがないと絶対に成立しない3要素は何?
お金・・ではないですよ。
まあ、こういうことは当然理解されているのだけれど、何故かそれが上手くいかないことがあるのですよねえ。

その2。ところで、TANで田村緑さんに小学校に行って頂いたのですけれど、彼女とそのときに話した話。アウトリーチの小道具で、これがあるとアウトリーチがもっと上手くいくのだけれど、と思っているのですが。
1,本物のクルミ割り人形。今彼女の七つ道具に木製のクルミ割り人形の小さいのがあるのですが、これを本物にしたいと思っているみたいです。そういえば池袋にそういう人形をおいてある喫茶店がある、と言う話を思いだし、行こう行こうということになっています。
2,これは私の趣味なのですが、トルコ行進曲をやるときに、トルコの兵隊が攻めてきて、その軍楽隊のリズムがハプスブルグ家の人たちは本当に恐かったらしいのです。それはじゃらじゃらと音の出るものがくっついている杖の様なもの(槍かも知れぬ)で、これを地面にたたきつけながら歩いたのではないかと思う。このモデルがあると、子どもたちにリアル感を与えられるかもしれない。日本のお祭りでも神輿の前を女性が持って歩いてる丈がある。あんな感じかなあ。

その3,2日前にいわきでサロンコンサートがあり、地元のフルーティストとギタリストが演奏をしました。フル-トは峰岸さんのお弟子さん。ギタリストは平の中心地にある平サロンのご主人でもある。蔵を改造したサロンは表道からは金魚鉢状態なのだが、なかなか良い雰囲気でした。これは馴染みのお客様と言う風情でもあって、人によっては入って行きにくいかも知れないが、でも、ああいう雰囲気は芸術の分野では必要だろうと思われた。なかなか雰囲気作りの上手い演奏でした。
そのときに、フルート+ギター版のトルコ行進曲付きソナタの全曲をやったのだが、あれはなかなか良いかもしれない。聴き手は、あのメロディはなかなか出てこないし、演奏する方も思いの外過酷な編曲だったようで大変そうだったが、面白いと思った。

最後に答え
演奏者、場所、客
そんなに難しくないので正解だらけだと思いますが・・・。
演奏者と会場は、決めるときに落とせない。客は最後に集めるものですが、一人もいないと演奏すらできません。
この基本はアウトリーチでも変わりません。いくら良いアイデアでも、人が来てくれる仕組みがないとあとで地獄を見るのは企画者です。そのあたりの勘の善し悪しというのは随分あります。気をつけないと・・。
私も30数年仕事をしましたが、この問題で困ったのは何回かあります。まあ、破産もせず何とかクビが繋がっているのは幸運としか言いようがない。


学生からの質問

2007年06月21日 | 徒然
昭和音大では、授業で「どんなことでも質問しなさい」と豪語?して質問票を配っているのだが、今年はみんな熱心に質問が出てくる。今年の質問はなかなか手強い。
バンクバンドとユネスコやマネージャーとの関係はどうなっているか?という質問が来てちょっとあわてる。ミスチルの桜井さんがやっているバンドは、地球環境を守るというミッションをもとに、ミュージシャンがお金を出して環境問題に取り組んでいるNPOなどの活動に融資をする中間法人を立ち上げている。バンドはそのためのお金集めを兼ねた活動で、CDを出したりコンサートをやったりしているのだが・・。

昭和音大の生徒から、アウトリーチの時期というのはあるのか?と聞かれたときに春は少ない秋以降が多い・・といったのだが、ここしばらく妙にアウトリーチが続く。まあ、6月はピークの一つ。学校がこういう事業をやれる時期ですから。
今日もトリトンで午前午後と田村緑さんのアウトリーチがあった。
夜はレオンハルトの本番。

大学でのプログラム体験

2007年06月13日 | アウトリーチ
今年も昭和音楽大学でアートマネジメントの時間を週に一時間だけやっているのだが(それも前期だけ)、月曜の昼食のあとという一番眠い時間を受け持っているので、皆さんよく寝られるようで、子守歌としては最適なのかも知れぬ。
まあ、1回は驚かさないと行けないと思い、今年は大森智子さんに手伝ってよとお願いした。大森さんは昭和の先生もやっているので・・。大森さん曰く「学生をびっくりさせるくらいでないと面白くない・・」
ということで中川賢一さんの参加と相成った。
お二人の授業は6月4日、アートマの2年、3年生を相手に80分の授業時間全部を使って行ったが、まあアウトリーチネタのキラーコンテンツのオンパレード。ムゼッタのワルツで男どもをあしらう、ピアノの低弦の振動を触って体験する、叩く、ピンポン球は弦の上で踊る、中川さんは一柳さんのピアノ音楽第6でほえる、絵を描いてもらってそれに合わせて即興演奏をする、ことばを書いてもらって歌と即興をする。絵本の語りとピアノのコラボレーションをする。ほとんどサンプル状態で80分盛りだくさんの講義でした。
翌週に「どんなだった」と聞いたら、ただ「楽しかった」で片づけられてしまったけれど、刺激になったことは間違いないだろうと思う。とはいえ、アウトリーチはこんなものばかりだと思われるのもちょっと不安・・。

さて、あさってから長崎。地元の演奏家たちの初めてのアウトリーチである。今年は反応が良さそうで楽しみ。

ことばの力

2007年06月11日 | 徒然
昨日は福島市内の民家園にある明治時代の芝居小屋「広瀬座」で行われた「FOR 座 REST」というイベントを見に行く。最初にBBBBのステージ。彼らのステージは基本的には変わらぬパワーとテンションで力強いがステージの持って行き方は随分大人になったというか、無駄な力が抜けて良い感じになってきているように思った。そのことは演奏にも現れていて、聴いたあとの感じ(聴後感とでもいうか。料理を味わったあとに舌に残る感覚というか)もそのメッセージ爽やか。
最後に谷川俊太郎さんと賢作さんによる詩の朗読と演奏。詩人の方の朗読は比較的味がある、というタイプが多いのだけれど、谷川俊太郎さんのは自然体ではあるけれども、聴き手ののやりとりを前提としている本格的なパフォーマンスだと思った。素敵だ。特に立川市立幸小学校校歌にはうなってしまった。ああいう校歌があったらきっと人生が変わるのではないかと思わせてくれる魅力は、林光の曲も良いけれどやはりことばの力だ。同行したみんなもそう思ったようだ。

関わり始めた会館は多くの施設があるので、今までのような専門ホールのようにはコンセプトをまとめるのが難しい。パフォーミングアーツといっても、ジャンルによって思考の仕方やルール、成功イメージなどがまちまちなのは当然だし、そのこと自体が社会的には価値のあることだと思っているが、関わる市民やスタッフがバラバラになる危険を孕んでいる。
カザルスホールでは、途中から様々な問題は内包していたとはいえ、最後まで場所に対するみんなの愛情は(それぞれが別の方向を向いていても)強いものがあったし、それ故にそれぞれが良いことをやろうという目標を持っていて、それが社会からも認めてもらっていたという気がする。
新しいホールではそれを継続的に(人が変わっても)持てるようにするにはどうしたらようか、と考えるようになった。同じ企画を続けるという意味ではない。しかし、企画や運営の質感は属人的になりがちである。そこに一本の精神の背骨を作ることに「ことばの力」を借り、会館のありよう(心の持ち方というか)を残しておくことは大事だと重ねて思った。やはり。


クラシック音楽の行く末について

2007年06月09日 | 徒然
随分前だが、内田樹のブログに面白い話題が載っている。話題は堀江貴文の判決がスタートであるが、ある社会的な状況についてなるほどとおもうところのある問題である。

http://blog.tatsuru.com/2007/03/18_1147.php

この中で興味深いのは、メディアが「読者にできるだけ知的負担をかけない情報」だけを選択的に提供していることについての病理についてである。
享受者(読者)のリテラシーを下方修正することによって、読者を増やそうという考え方が結局は読者を増やすことはないだろということ。
しかし、同時に、過去に「読者に無意味な知的負荷をかけ続ける」ことで学生が少なくなってしまったフランス文学の研究者のことが同じ病理として書かれている。

これはクラシック音楽界とちょっと似ているかもしれない(聴くことは楽しいと思っている自分のことはとりあえず置いておいて・・)
クラシック音楽は難しくない、硬くない、高踏的でないということを語ることでクラシック音楽の人口を増やそうという思考がある。
しかし、もともと易しくない、やわらかくないクラシック音楽を「難しくないよ」と暗示を掛け「聴けばわかる簡単な音楽」と主張することに意味があるだろうか。そう言い立てることでクラシック好きな人口は増えているのだろうか?
一方、クラシック音楽は深い内容(この言い方も厭だが)を抱えていて(でも、ある意味賛成でもある)、それを理解しなくては本当に聴いたことにはならない。その聴き方は習って覚えるものではなく、自分で苦労して見つけるものだ、という理屈もある。そして、それがわかっている(または判っていると思っている)人同士だけで成立する会話を大事にする。確かに、同じ音楽から深い思索や人と違う感性を見出して、それに感応することは誰でも簡単にできることではないし、そのほうが聴き方としては、漫然と聞くよりも興味深いと言えるかもしれない。これも真っ当な意見である。
でも、それでもどちらもちょっと違和感がある。ことはクラシック音楽に限らないかもしれないが。

結局は聴き手と演じ手に対する愛情(尊敬する気持ちかな)がないと、どちらに行っても隘路である、ということなのかもしれない。愛情が在るから深く考えるし、愛情があるから聴くだけで楽しめる、とも言えるのではないか。


朝日新聞天声人語に、教育の話が出ていた。出来ない人、わからない人がいるから目標の標準値を下げていくことへの疑問である。これも同じことかも知れない。

演奏家の意識

2007年06月02日 | アウトリーチ
北九州に来ている。久しぶりのアウトリーチである。
「響ホールがやってきた」というタイトルで行っている事業の一環である。1日は小学校を2校、2日はコミュニティセンターでの演奏である。今回は高橋多佳子、礒絵里子、長谷部一郎の3人のトリオ。諸事情のためチェロの荒さんが急に来れなくなって急に長谷部さんにお願いした。今回とガラコンサートの来年2月の両方が空いている可能性はかなり小さいと思ったのだが調整を取って頂いた。感謝。
音楽活性化事業などで、他の演奏家がどうしているのか知りたいという声は多い。こういう機会はそれぞれの手の内のいっかんを見られるという意味で良い機会なのだろうと思う。何となくお互いが刺激を受けているような気配が感じられる。ちょっと張り合うようなところもあって、見ているほうでも案外面白いのだ。

今回は長谷部君がブリテンのチェロ組曲の一曲を演奏した。はじめにイメージをちょっと図にして示して、子どもたちのあたまを刺激してから演奏したのだが、生徒たちは????となりながらもそれなりに楽しんでいたようだ(少なくとも1分はもった感じがする)。今回が大成功かどうかは別として、こういうことはもっともっと手法を追求できる内容だと思う。
アウトリーチは聴き手任せではないので実験が出来る、というのは、ここのところずっと感じていることだ。それを強く感じたのは宮本妥子がマリンバフェイズ(元々はピアノフェイズ)というミニマルミュージックをやったからだが、子どもの感性は目標を提示することで自由に羽ばたき始めるのだ。