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外にある、非情な鏡を見よ、君よ。

2009-09-27 00:42:54 | 声明文
日増しに時間の流れが加速している。

このままではまずい、
まずい、まずいと、
漠然とした焦燥に煽られる。

ラジカセから流れる、
「圭子の夢は夜ひらく」を途中でよして、

負けまい、負けまいと、
この焦燥め叩きのめしてくれるわと、
曲を書く、詞を書く。

糞意地で。

ぼさっとしてたら死んでいたなんて、
死んでも死にきれない。



私はここ数年、
内側に入りすぎていたのかもしれない。

外の刺激、
即ち人との関わりを極力避けてきた。

人との関わりが面倒に感じたり、
人と人が作り出すあの間合い
(偽善と偽善の牽制)を、
鬱陶しく感じでいたのも事実なのだが、
真相は単純に傷つくのが
恐ろしかったんだと思う。

外には己がまだ知らない
面白い刺激にあふれている。
(もの事の考え方や好き嫌いの趣向、
感性やら感覚など、
外から学べることは多い。)

反面、たくさんの痛みを伴う
刺激にあふれているともいえる。

数ヶ月ほど前、
自らの愚かさ故に自業自得、
グッサリいった。

久々に外に心を開放し、
自らの愚かさ、駄目さを思い知った。
私はまだ駄目だったのだ。

衝撃の事実というか、
割りと自らを大人と自認していた私に、
外を通して突きつけられたのは
内からは見えない恐ろしいまでの
「現実」だったのだ。

と、布団の上で無残に嗚咽しながらも、
この痛みに必要性を感じたというか、
苦しいがこれが「経験」かと、
これが自らを「知る」ということかと。

ヨソの人というのは、
自身の内側からは決して見えない、
そんな「非情な鏡」を持っているように思える。

内在する自らの
「駄目・弱い」を知り、
「良い・強い」に
変えていかなければ
成長などない。

でなければ、
創作の成長などない。



と、今さら気づく。




そうだ、外か。



外だ。


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自主企画、終了。

2009-09-22 00:57:02 | お知らせ
20日、自主企画終了。

ご来場有り難うございました。

人々の反応は当然にして
個々様々で、凄く面白い。

その反応・感想次第で、
表現の軸や内容を
いちいち変えるなどとという
阿呆なことはもちろんしない。

だけど、この頑固偏屈な私から
何かしらを感じ取ってくれたり、
興味を持ってくれたり、
勇気を持って直接感想をくれる人が
居たりするのは素直に嬉しい。

(直接感想を述べたり、
対話するということは
勇気がなきゃできないことだと思う。)

ありがとう。

で、興味が沸いたという人は
過去の記述「意思」を
読んでみたら良いかもしれません。

この人間が普段考えていることなんかが
割と詳しく書いてあります。
(死神という名前の由来とかも)

私はもっともっと
深い次元のことをやりたい。

腹の中の負の部分を、
徹底的にぶちまけてやりたい。

死ぬまで突き詰めていきます。
冗談抜きです。



閑話休題。


私が好きな
マリア観音というバンドの
「髑髏」という曲に、

「全てを晒せば 全てが隠れる」

という名文句がある。

もう私の勝手な解釈、
誤解も承知なんだが、

最も見せたくない部分のみを、
その部分「だけ」を抽出し晒す。
それができるか君。

と聞く度に
問われている気がしてしまう。

これも一つの「正直」の概念か、
目から鱗落ちる。


次回公演

10月11日(日)
新宿ウルガ

詳細未定

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メール復旧のおしらせ(21日追記あり 当日券差額返金について)

2009-09-19 01:28:59 | お知らせ
メールが一時不通となっていました。

先程、復旧致しましたので、
お知らせいたします。

予約メールが送れなかった、
そんなん方々がいたようなので、

明日の公演は、
予約無しの方でも、

「死神を見に来た」で、
前売り扱いに致します。

ご来場お待ちしております。


追記

と、案内をしたにも関わらず、
もう踏んだり蹴ったり、
一部の死神指名の入場者が何の因果か、
「当日券扱い」
になっていたことが判明しました。

(恐らく、「死神」を見にきたではなく、
「企画全体」を見にきたと述べた人々、
可能性高いです。

そんな不運に見舞われた5名くらいの方々、
折角いらしたのにごめんなさいね。)

多く払ってしまったという方、
ご一報ください。

差額返金対応いたします。


三百円。



小生の一食分の経費に相当す。





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見せている、見られている、そんな自慰

2009-09-19 01:19:38 | 声明文
人を驚かせるのは、楽しい。
日常と違う時間は、楽しい。

「凄いけど、嫌い」

大衆からそう嫌われる存在でありたい。

どっかの阿呆みたいに、
自信過剰に大口を叩くことしかできず、
それ故に人々から嫌悪されていることを、
すなわち、
自らの独自性の強さのあまり。
と、勘違いするような馬鹿にはなりたくない。

誰の目にも明らかになるくらいの、
とんでもない独自性の表出こそが、
「凄いけど、嫌い」
という存在になるのだと思う。

(人は色々な考えや感性があるが、
例えば好き嫌いは別にして、
「病気マン」見た人の9割は、
とんでもない衝撃を受けているでしょう。
「誰の目にも明らか」の良い例だと思う。)

「凄いけど、嫌い」と言わしめたい。
あいた口が塞がらなくしてやりたい。

と、私は自意識が超過剰なので、
人に見られている意識が常にある。

(本番の緊張感なり、
興奮の類は、
「見せる、見られる」
その感覚からくるものだと思う。
練習と本番の大きな違いは、
他人の恐ろしいまでの
視線の有無にあると思う。)

視線を全身に感じている。

客席からいくつもの目に刺されている。

んで、その目にやられまいと、
負けじと刺し返す。

喰らえと。

武器は自らの表現のみ。

言葉で刺し、
音で刺し、
動きで刺す。

言葉でも、音でも、動きでも、
本気なら刺さる。
本当に。
そのくらい、鋭いものになりうるのだ。


不条理の数々、
私の中にある汚ったいないものの数々を、
負沢山の煮汁たっぷりに、
ぶちまける。


手前丸ごと葬るかのごとく。







外に向けて放出

中に向けて葬式






見せている、見られている、そんな自慰











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感覚について

2009-09-16 23:05:22 | 声明文
手前の感覚が絶対ということはなく、
ヨソの感覚が絶対ということもない。

手前を信用しながら、
手前を疑う。

なんだそりゃと思われるかもしれないが、
それが今しっくりくる考え方。

生きていくなかで、
大小さまざまな矛盾、嘘が付きまとう。
(なるべくくだらない矛盾、
嘘は潰すよう、ここ数年心がけているが、
まあ次々とウジのごとく沸く。
楽しい、嬉しいときはもちろん笑うのだが、
困ったときに「愛想笑い」で
ごまかす癖が残念ながら抜けない。)

考えや行動の中には、
どっかしら矛盾や、
嘘が孕んでいる。

自称、矛盾がない人、
嘘つかない人、
最近信用できない。

(余談だが、私には矛盾した感覚がたくさんある。
例えば「創りながらぶっ壊す」とか、
「聞きながら、聞かない」とか。)

私以外に、
私の感覚を持つものなぞいない。
手前には手前の、ヨソにはヨソの感覚がある。
だから誰の顔色伺うことなく、
手前で考えて、手前で動いてみる。

それは、
自らを信用していなければできない。

三島的な、
「何々したい」から「何々すべき」という、
思考への転換。

こういう考え方も、
自らを信用していなければできない。

常にそうありたい。

なんだけど、
私自身が、
絶対に正しいと思っていることも、
もしかするととんでもない、
悪や間違いを秘めているかもしれない。

そういう可能性だって大いにある。

まだ、気づいていないだけ。

そういう可能性だって大いにある。


だからつまり、
常にどこかで手前を厳しく監視し、
自らを疑うことも必要だと感じているのです。

これは譲れんという核たる部分でも、
そこであえて何度も何度も疑い、
自らの力で疑いを晴らして(更新して)いく。
それでより強固なものにしてゆく。

手前を信用しながら、
手前を疑う。

やはり、しっくりくる思考だ。

だがこれもまた、
もしかするととんでもない、
悪や間違いを秘めているかもしれない。





そういう可能性だって大いにある。

脅しでもなんでもない。







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