「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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「茶漬えんま」の悲哀(1)

2017年06月17日 | 信仰

 

「『茶漬えんま』の悲哀」(1

 


 桂 枝雀(かつら・しじゃく)という噺家(はなしか)をご存知だろうか。「東の(古今亭)志ん朝、西の(桂)枝雀」と並び称され、「上方(落語)の爆笑王」とも「浪速の爆笑王」「昭和の爆笑王」とも呼ばれた落語家である。正確には2代目枝雀のことだが、1939年に生れ、1999年に亡くなっている。今回は、その枝雀の一席をご紹介したい。枝雀のおはこ(十八番)は数々あるが(例えば「代書屋」などは、落語にあまり縁のないお方でも耳にしたことがあるのでは? ちなみに、読みは正しくは「でぇーしょや」と発音するのがこの道の通)、ご紹介するのは「茶漬えんま」という演目である。「枝雀寄席」での一席だが、型破りの枝雀にしても珍しく、古典物でなく新作の創作落語となっている。

 



 お噺は時間にして30分近くになる、そこそこのものである。したがって、文字に起すと結構な長さになる。今書付けているこのブログのようなツールには、少しばかり長すぎの感がしなくもない。ただ、それでも今回それをしようとしているのには、それなりの訳がある。それは、この演目には噺家・枝雀の人間模様が織込まれており、師匠の生の闘いと苦悩、求道が滲(にじみ)出ているからである。それは結局、悲哀の結末に至ったように思われる。なぜなら、枝雀師匠はそうこうして、遂には自(みずか)らその命を絶たれたからである。1999313日、自宅で首を吊(つ)り、搬送先の病院で翌月19日に亡くなられた。59歳の若さだった。けれども、ぼくはそこに、人生を真剣に生きようとした一人の人間の姿を見る思いにさせられている。そして、それは決して宗教的な問いとも無関係でない、信仰という事柄と無縁のものではないと考えている。事実、枝雀師匠の「茶漬えんま」では、仏教、キリスト教、イスラム教・・・といった諸宗教の有名キャラたちが主役を張ってやり取りする。それは言わずもがなに、宗教的なものになにがしかの救いを求めた師匠の苦悶を暗示していると言えよう。

 

 「茶漬えんま」は初め、桂枝雀自身の手で書下された。その後、落語作家の小佐田定雄(おさだ・さだお)氏に枝雀が改作を依頼し、最終的な演目にまとめられたものである。この経緯からしても、そこに枝雀自身の思索と思い入れが込められているのは疑いえない。実際、師匠は晩年、宗教的な(特に仏教関連の)書物を読込んでいたと言われる。たしかに、「茶漬えんま」一つを見ても、(キリスト教をも含めた)その知識の豊富さに気づかされる。桂枝雀という人間の、人生を生きた苦闘と求道の足跡なのだろう。

 

 師匠がいわゆる「鬱(うつ)」を患っていたというのはよく知られたところである。そのため、人並以上にプレッシャーを感じ、演じること、生きることに追詰められたのかもしれない。しかし、そうであってもなお、師匠はその作品を通し、またその高座や生き様を通して、多くの問いと課題を遺してくれた。「茶漬えんま」にはとりわけ、そうした色彩が色濃く出ているように思う。たしかに、そこにはキリスト教についての理解不足や揶揄(やゆ)と言えなくもないやり取りが散見される。けれども、ぼくはそんなところで了見の狭い人間にはなりたくない。ぼくらはむしろ、そこからいくつ問いかけを見つけられるか。いくつ課題を感じ取り、その答えをいくつ探り出すことができるか。そのことを大切にしたいと思う。その多少はきっと、人生という「生きる道すがら」に対するぼくらの感性の濃淡を証しているにちがいないからである。なぜにか?「茶漬えんま」には、真面目(まじめ)で本質的な葛藤が山程溢(あふ)れているから。人生について、幸せについて、人間について、宗教について、信仰について、偽善について、死後について、神について・・・。間違っても、おちゃらけだけのお笑いネタと侮ってはいけない。

 



 何はともあれ、さぁー一席、お付合い願いましょう。抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)間違いなし! 何しろ大笑いなんで。真面目なお話は、またその後で・・・。(→ (2)に続く)

 

 

 

©綿菅 道一、2017

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