以前、不満を漏らしてしまった日のことだ。
時期的に仕事がかなり忙しく、体調も優れなかった。お祈りなど基本的な信仰もおろそかになりがちだった。なかなか朝が辛くて、つい、不満を漏らしてしまった。
「しんどすぎ、嫌になるわ…」。
しかし、先生の説教を聴く人ならば、不平不満がいけないことは常識。
(いつも神様は最善をつくして私達を導いてくださっているのに、不満を漏らすのはいけない。たとえ一時的に喜ばしくないことが起こっても、人間を鍛えるためであり、損を受けたまま終わらせない神様だから。)
不満を漏らした後にすぐに神様に謝罪した。そして神様の気持ちを尋ねた。
「すみません。不満を漏らしてしまいました。こんな私に腹が立ちますか?」
祈っても音声で答えが帰ってくることはない。しかし、答えを悟れるような状況に置かれるのだ。
朝に不満を漏らした、その日…
<昼>迷惑街頭演説?
家の目の前で、市議会議員候補者が演説を始めたのだ。当然、拡声器を使って。集中力が必要な仕事をしているので、一瞬腹が立った。いつまで演説を続けるつもりなのか。これから頻繁に繰るのではあるまいかと、悪い想像を働かせてしまったが、10分程度で切り上げて、市会議員候補は去っていった。自分が恥ずかしくなった。こんな些細なことで腹が立つなんて…
<夜>ゲロ
家の入り口の目の前に、酔っ払いが吐いていったようだった。入り口のまん前に排水溝があり、そこをめがけてはいていったらしい。
これには腹が立った。「よりによって人様の家の目の前に吐くとは!他に吐くところはなかったのか?」と憤った。で、他に吐くところがないか見てみたが、どうも見当たらない。急にこみ上げてきて、急いで吐くところを探した結果、家の目の前の排水溝を見つけ、急いで吐いたものだと推測した。
「まあ、しゃーないわな。吐きたくて吐いたわけでもあるまい」。
それにゲロも雨ですぐに流れてしまった。
その日の終わりに考えた。「今日は変なことがたて続いたな。偶然とは思えない。神様はなぜ、あんな変なことを起こされたのだろう?」。
思い出した。朝、私は不満を漏らしてしまった。すぐに謝った。神様はこんな私をどう思うだろうか、たずねたことを思い出した。
その答えが、二つの事件だった。
街頭演説、うるさいとは思ったが、すぐにやめたから、怒りもすぐにおさまった。神様にとって私の不満は耳障りだったとは思うが、すぐにやめたからそんなに気になさらなかったのかもしれない。
ゲロに対して、私は、「仕方がない」と怒る気持ちが失せてしまった。神様も私に対して「仕方がない」と怒りを静めて下さったのではないだろうか。
私はまだまだ、精神面でも未熟さが残る人間だ。それでも大目に見てくださる神様だ。だからこそ、もっと頑張って、自分を磨こうと言う気持ちになる。そして、くだらないことでイライラしたり、そんな自分を直していこうという気持ちには偽りはない。
追記、体験信仰
信仰を持って最初の頃は、祈りも、ためしにやってみる感じだった。神様なんて、うそ臭いと思っていた反面、本当にいたらどうしようという気持ちもあった。
祈りが叶ったり、今回のように祈ったとおり、行ったとおりの出来事が起こっても偶然と考えた。そういうことがたまたまあってもおかしくは無いと思った。
しかし、どうだろう。例えばコインを投げて数回連続で表が出たくらいではたまたまだと思うに違いない。それが5回、10回と続けば、偶然と考えないのが普通ではないだろうか?何か仕掛けがあると考えるのが普通ではないだろうか?お祈りも同じだ。数回祈りが叶ったくらいでは信じられない人が大半ではないだろうか?しかし、それが10回20回と積み重なるから、何か神様がいるのではないかと考えるほうが自然ではないだろうか?偶然と考えるほうがおかしいのではないだろうか?
体験したから、神様を信じている。先生を信じている。
体験がない信仰は、迷信、妄信。そんなもの長くはもつまい。
時期的に仕事がかなり忙しく、体調も優れなかった。お祈りなど基本的な信仰もおろそかになりがちだった。なかなか朝が辛くて、つい、不満を漏らしてしまった。
「しんどすぎ、嫌になるわ…」。
しかし、先生の説教を聴く人ならば、不平不満がいけないことは常識。
(いつも神様は最善をつくして私達を導いてくださっているのに、不満を漏らすのはいけない。たとえ一時的に喜ばしくないことが起こっても、人間を鍛えるためであり、損を受けたまま終わらせない神様だから。)
不満を漏らした後にすぐに神様に謝罪した。そして神様の気持ちを尋ねた。
「すみません。不満を漏らしてしまいました。こんな私に腹が立ちますか?」
祈っても音声で答えが帰ってくることはない。しかし、答えを悟れるような状況に置かれるのだ。
朝に不満を漏らした、その日…
<昼>迷惑街頭演説?
家の目の前で、市議会議員候補者が演説を始めたのだ。当然、拡声器を使って。集中力が必要な仕事をしているので、一瞬腹が立った。いつまで演説を続けるつもりなのか。これから頻繁に繰るのではあるまいかと、悪い想像を働かせてしまったが、10分程度で切り上げて、市会議員候補は去っていった。自分が恥ずかしくなった。こんな些細なことで腹が立つなんて…
<夜>ゲロ
家の入り口の目の前に、酔っ払いが吐いていったようだった。入り口のまん前に排水溝があり、そこをめがけてはいていったらしい。
これには腹が立った。「よりによって人様の家の目の前に吐くとは!他に吐くところはなかったのか?」と憤った。で、他に吐くところがないか見てみたが、どうも見当たらない。急にこみ上げてきて、急いで吐くところを探した結果、家の目の前の排水溝を見つけ、急いで吐いたものだと推測した。
「まあ、しゃーないわな。吐きたくて吐いたわけでもあるまい」。
それにゲロも雨ですぐに流れてしまった。
その日の終わりに考えた。「今日は変なことがたて続いたな。偶然とは思えない。神様はなぜ、あんな変なことを起こされたのだろう?」。
思い出した。朝、私は不満を漏らしてしまった。すぐに謝った。神様はこんな私をどう思うだろうか、たずねたことを思い出した。
その答えが、二つの事件だった。
街頭演説、うるさいとは思ったが、すぐにやめたから、怒りもすぐにおさまった。神様にとって私の不満は耳障りだったとは思うが、すぐにやめたからそんなに気になさらなかったのかもしれない。
ゲロに対して、私は、「仕方がない」と怒る気持ちが失せてしまった。神様も私に対して「仕方がない」と怒りを静めて下さったのではないだろうか。
私はまだまだ、精神面でも未熟さが残る人間だ。それでも大目に見てくださる神様だ。だからこそ、もっと頑張って、自分を磨こうと言う気持ちになる。そして、くだらないことでイライラしたり、そんな自分を直していこうという気持ちには偽りはない。
追記、体験信仰
信仰を持って最初の頃は、祈りも、ためしにやってみる感じだった。神様なんて、うそ臭いと思っていた反面、本当にいたらどうしようという気持ちもあった。
祈りが叶ったり、今回のように祈ったとおり、行ったとおりの出来事が起こっても偶然と考えた。そういうことがたまたまあってもおかしくは無いと思った。
しかし、どうだろう。例えばコインを投げて数回連続で表が出たくらいではたまたまだと思うに違いない。それが5回、10回と続けば、偶然と考えないのが普通ではないだろうか?何か仕掛けがあると考えるのが普通ではないだろうか?お祈りも同じだ。数回祈りが叶ったくらいでは信じられない人が大半ではないだろうか?しかし、それが10回20回と積み重なるから、何か神様がいるのではないかと考えるほうが自然ではないだろうか?偶然と考えるほうがおかしいのではないだろうか?
体験したから、神様を信じている。先生を信じている。
体験がない信仰は、迷信、妄信。そんなもの長くはもつまい。










