太田市長とれたて日記

清水まさよしが太田の元気をお届けします

「新田義貞」を読みませんか

2007年08月15日 | Weblog

茅ヶ崎に住む植木静山さんという方から本をいただいた。
「我が旗を、鎌倉に立てよ・新田義貞の生涯」長編である。お盆休みにじっくり読んでみたいと思う。ありがとうございました。
この春には「鎌倉への道」だったと思うが、地元の歴史研究家たちが鎌倉にのぼる新田義貞の足跡をたどった本を出版したばかり。面々、訪れてくれたが、「成し終える(本を書き終える)」ということの満足感が感じられた。「あんな老後がいいな」そう思った。

 

歴史研究家というのは史実にもとづいて書こうとする。新田義貞についてもいろいろな書き方がされてきた。そして、義貞が育った新田という所をそれぞれの思い入れで表現してくれている。
「新田は、日本中でどこよりも美しく平和な里だ」
「房子の館は・・。金山の山頂に築こう。そこからは、日本一広い坂東の平野が一望できる。・・こんな風景は新田庄でしか見られない雄大な風景だ」とある。
義貞が愛する女性、勾当内侍へこういい残して戦場へ向かった。帰れなかったのである。
越前の5つの城を攻めにでた。たったの50騎で藤島城に向かう。弟の脇屋義助が攻める小城。苦戦しているという情報に気づかったとっさの行為だった。
その途中細川孝基の300余の弓隊に出会った。38歳の義貞は「眼前で真っ赤な火花が散り、やがて暗転した」のだ。没した。
その福井市と生品神社の氏子たちが交流をもっている。また、脇屋義助が戦死した今治市とは姉妹都市になっている。

 

植木さんは湘南、茅ヶ崎の方である。私たちが思ってもいない書き方で紹介してくれている。
私への手紙に「太田市の職員全員に読ませて、義貞のふるさとに誇りを持たせてください」ともあった。この本は朝日新聞社から出版されている。

 

茅ヶ崎に住んでいたことがある。40年も前のことである。海岸沿いであった。
今はどうなっているのか。出かけるチャンスもないのでなつかしい思いだけだが・・、田舎っぽかった団地も変わっているはずだ。松林のなかのきれいな空気がそこにはあった。
オレンジとグリーンの湘南電車で川崎まで通った。今のように週休2日であるならば、海も小高い丘も楽しめたであろうが、仕事は忙しく通勤には遠い場所であった。

 

朝早く出て、夜は最終電車であることもちょくちょくあった。よく働いた時期だった。
駅では常に全速力で走った。海外旅行で買った自慢のデュポンのライターを階段のどこかで落としてしまった。上着を手に持ち走る、きっとそのとき落としたのだ。
あのころの湘南電車は1時間に2本くらいだった。夜中になると1本になった。帰りはドアの側に立ち、真っ先に飛び出すようにした。走った。タクシーが一度切れると長いこと待たされた。1時間くらい待たされることもしょっちゅうだった。

 

ゴルフは茅ヶ崎でおぼえた。
義父が小さな工場を経営していて、取引先との接待を分けて担当した。義父はお酒、私はゴルフと分けた。あまり下手もどうかと思って、レッスンプロに教わった。30歳のころだった。

 

茅ヶ崎の植木さんが新田義貞を書く。なにか、ご縁を感じた。
その後、横浜に住んだが、茅ヶ崎の通勤バトルは今でも頭に残っている。深夜、自分の前でタクシーが切れて1時間近くもタクシーを待ったこと。
「もう一歩早く出られれば・・」そんな後悔しか印象のない茅ヶ崎ではあった。
小さな茅ヶ崎駅だった。

 

それはそれとして、植木さんの「新田義貞」を読んでください。

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歴史研究家 きれいな空 朝日新聞社
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