青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

人作り、家庭作り、国作りのために

2008年02月13日 | 人生設計
人は、人として生きている。人として生きるということは、人らしく生きるということである。この人らしく生きるということは、人作りをするということである。
人は又、一人では生きることは無い。自ずと家族や集団で生きる。集団で生きるということは社会や国家を形成していくことであり、社会や国家作りであると共に平和作りであり、且つ全体的にして幸せ作りであると言えるものである。
その源は、言わずとして人作りにある。人作り、人作らずして、家庭も家族も社会も国家も、より良きものは作りえないこととなるだろう。
人作りというと、一般には教育と養育が挙げられる。しかしこの教育や養育は、幼少年期に対してというような限定的なものといえ、その後の青成年期における人作り体制は、となると、主にマスメディアの影響をもろに受けている。そしてこの影響を自分で制御したり抑制する自立心が根付かないままに大人にならされるという人作り社会が、今日の状態になっているといえる。
さらに自立心となろうとするもの自体が、何かのものとか他のものに頼るとか寄り掛かろうとするもの、依存するものになっており、自分で自分を立てようとする気構えが希薄になっている。
即ち、自分で自分という人作りを出来なくなっている。
今日、何故自分で自分の人作りをできなくなっているのか、それを一言で言うなら、人は自然の中で生きるという、自然性を忘れたからだといえるだろう。
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青い鳥の歌詞  十二、静やかな秋の夜

2008年02月11日 | 作詞


静やかな秋の夜         
2007/10/29

静やかな静やかな 秋の夜
流れ行く時の 静けさに
はるかなる思い 漂いて
思いは出ずる 悲しみに
涙するは ただ一人
静けさの中に 夜は更ける


静やかな静やかな 秋の夜
ページをめくる ささやきに
文に思いが つづられて
久しぶりの 懐かしさに
頬笑むるは ただ一人
静けさの中に 夜は更ける


静やかな静やかな 秋の夜
一人見詰める 我が身に
幾重連なる 重なり見て
溢れくるる 豊かさに
嬉しきは ただ一人
静けさの中に 夜は更ける


静やかに更ける 秋の夜に
夢に誘われる 夜の闇に
明るい明日を 信じてこそ
希望も燃える 喜びに
楽しきかは ただ一人
静けさの中に 夜は更ける


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国旗起立、国歌斉唱強制訴訟

2008年02月10日 | 短歌に政治や社会
国旗掲揚起立、国歌斉唱強制訴訟の判決が出された。強制は、違憲という判決であった。
判決文は、こういう訴訟自体が嘆かわしくて読む気にはなれなかったが、何故こんな訴訟など起こすのか私には納得がいかない。
私達は家庭を思い家庭を大事にし、家族を思い家族を大事にし、社会を思い社会を大事にし、国を思い国を大事にしていきたいものである。それゆえに国旗掲揚起立、国歌斉唱がある。
それを拒絶するという行為となると、家庭も家族も社会も国家をも思うこともなく大事にするなというに等しい。
こうみてくるとこの判決のほうが、憲法の精神に逆らった違憲判決ということになる。
さらに今日国際化が進み、障害者も外国に出かけている。この時に地震災害などに襲われた場合、聴覚障害者は国旗によって同胞の居場所を知り、視覚障害者は国歌斉唱を聞いて同胞の居場所を知ることができる。
それはもう、強制云々ではない。そう言っているのは、障害者の身にもならず、思いやりもかけず、蔑視しているもので、ここでも法の下の平等の精神に逆らう判決で、違憲判決というより他はない。
ちなみに本文は強制を容認するものではなく、国旗掲揚起立、国歌斉唱を通じて団結、自立心を培わせるべきであるという、意味である。
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青い鳥の歌詞  十一、 ここに来てごらん

2008年02月06日 | 作詞


ここに来てごらん          
2007/11/3




立ち止まって どうしようかなと
思いつめて 迷いつめて
暗い道のり 歩いていても
おぼろげな 闇の中に
ここに来て 見てごらん
希望の星が 輝いているから




息つめて どうしようかなと
気持ち張って しびれ切らして
辛い思い かみ締めても
いつも来ている 丘の上に
ここに来て 見てごらん
やさしい詩が 聞こえてくるから




いじめられて どうしようかなと
悔しくって 情けなくって
一人ひそかに 耐えていても
人を助ける 勇気持ち
ここに来て 見てごらん
君を待ってる 皆がいるから




そこに架かる 夢の橋は
人と人とを つなぐ橋
互いに助け合い つなぐ時
大きく結ばれる 夢の橋
ここに来て 見てごらん
虹の橋が 横たわるから


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人の生き方に

2008年02月04日 | 人生設計
また食の安全を脅かす事態が、発生した。消費の、それも食生活のことだけに偽装食品以上の危惧を覚えるのも、当然のことである。
しかしここで思わなければならないことは、単なる消費生活に終わらすべきではない、ということである。それは人の生き方にも、大いに関係し、関係しあっているとみなさなければならない。
消費生活も食生活も、人の生きる上での生活の仕方である。元々は、それは自給自足であった。自分で、自分を養っていたのである。
それが貨幣流通の発達により経済社会が発展してゆくにつれ、自給自足によるよりも購買に重点を置くようになってしまっている。
この結果、高学歴ながら実生活力のない人達が増えているし、物もコストやリスク意識から遠地からワザワザ限りある資源、石油を燃料にして排気ガスを撒き散らしてまでして運搬して貯蔵するということになる。
本来の自給自足であったなら、地産地消を地で行く消費でよく、加工食品よりも家庭料理や手料理のほうがごく安全なことだと思える。
しかし経済社会となってしまった今、コスト意識に負われ、リスクを恐れる企業論理によって政治も社会も格差社会となり生活確保に忙しいから、それどころでないのかもしれない。
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続:憲法九条

2008年02月03日 | 短歌に政治や社会

憲法、および憲法九条において自衛隊の合憲、違憲論議はなされているが、えてしいてなされていないように思われるのが「武器、兵器、弾薬の製造販売」等の合憲違憲論議である。

ちなみに、サイト上には次のような記事が出ていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> あなたは「憲法9条」について書かれたblogを紹介しただけで
>「憲法9条」についての意見が全部書かれてないから見えないし(-.-;

> ちなみに僕は
> 「憲法9条は素晴らしいが、相手が攻めてきたらどうするの?」って所ですな

こう言われると「憲法九条」についての私の意見、そして「相手が攻めてきたらどうするか」についても述べなければならないようですね。しかしこのことにお答えするには一般論とは異なったことで応えることになりますので、躊躇しています。
でもいいでしょう、貴方方がどう受け止めるかは、貴方方次第ですからね。
私の思いでは、「憲法九条」も「相手が攻めてきたらどうするか」ということも、そういうことは普通の思いでは解決できないだろうと思っています。ではどうすれば解決できるかというと、「宗教的」による解決です。そのことをこれからお話しするわけですが、その前に私は仏教については少々知っていますが、キリスト教イスラム教については余り知りませんのであしからず。

アメリカやイギリス、フランスなどはキリスト教を国教としているようですね。このキリスト教の聖書には、キリスト教をよく知らない人にでもよく知られている言葉に「汝の敵を愛せよ」というのと、「汝右の頬を打たれたなら、左の頬もうたれよ」というのがありますね。
こ言葉の意味は言うまでもなくお分かりになられることと思いますが、「相手に何かされても仕返しとか報復をすべきではない」ということでしょう。
ところがこういう聖書にあるキリスト教を信仰している人々が、ニューヨーク中枢同時テロ攻撃などを受けたからといって、その仕返しや報復としてイラク攻撃を始めましたね。それがいまだに続いています。言ってみれば「信念と行為」とが矛盾しているわけです。
我国においても武士の美徳として「仇討ち」がありました。打たれやられたから、仕返しし報復する。それはまた打たれたからやられたからとなり、血脈が絶たれるまで打ち続けられることとなりました。
こういう悲惨さは現在でもあります。中国、韓国、北朝鮮などが問題にしている歴史問題や慰安婦問題など。そして我国から見れば原爆投下や拉致問題に空襲への憤り。
私達は「やられたらやり返す」というよりは、「やられる前にやり返すべき用意をしておく」べきなのでしょうか。

ここで皆さんに一つ設問をします。
今日原油高騰等で、生活が苦しくなっていますね。ことに寒冷地の一人暮らしの高齢者は、できるだけストーブを点けずにしのいでいるといわれています。この人達は、生活防衛のために、「実力行使」に出るべきなのでしょうか?
自衛や防衛が許されるなら、こういう行為も許されることになるとも思いますが、しかしこれは犯罪に直結してしまいますね。
しかし国家の国防とか自衛、防衛は犯罪に直結していないという、こういう論理になっています。
そんな中、寒さにじっと耐える一人暮らしの老人たちに、何の差し伸べる手もないのが国策なんですね。

最後にイスラム教の教義、コーランの教えとかは「アラーの道のために戦え」と言うことなのだそうです。しかし私から見ると、この本意が理解されていないようです。
と言うのは、「戦う」相手を他人にしてしまっている。そのことによって、相手を自分思い通りにしようとし、都合よくいかない場合は攻撃する、そう受け止められています。
だが本来は「戦う」相手は「自分自身」を意味していると思います。「アラーの僕」としてあるべき自分を確立させる、そのための戦いという意味だと思います。

いうなれば、宗教、信仰の取り違えをしていると言えるでしょうね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上のことについて思えば、現在の自衛隊のありようは「地域再生部隊、森林再生部隊、海洋再生部隊」というような、武器兵器弾薬を持たない全くの平和部隊であるべきだろう。

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幸せ談義

2008年02月01日 | 人生設計
生あるものの思い、それは願いであり望みであり志であり求めるものであり、まとめていえば「幸せになりたい」ということになるだろう。
殊に人は、この「幸せ」を求めて止まない。
目で見る物によって幸せにつなげ、耳に聞く音によって幸せにつなげ、匂いに、味に、皮膚の感触の肌触りに感じることによっても幸せにつなげ、幸せを求めようとする。
そしてそれらの思いからも幸せにつながらないか、四六時中といってよいほど思いをはせている。
この「幸せになりたい」という思いは、一種の緊張である。気持ちが張り詰め、身構えている状態にあることになる。
こうした状態は、人が「幸せ」の受け手であるからだろう。
幸せは、一人で与えられるものではない。我々が求めなければならず、探していかなければならないものである。そして一つ得て手に入れても、更なる「幸せ」を求めようとする欲が出てきてしまう。そうすると、限りなく緊張も続いてゆく。
しかしこのように限りなく「幸せ」を求めたとて、それを自分の中の何処にしまっておくことができるのだろうか。
ものには限度というものがある。この器にはこれだけの分量しか入れられないのと同じように、「幸せ」にも限度というものがある。
だけでなく器自体の善し悪しにもより、自分が「幸せ」になるにふさわしい人間かどうか見直さなければならない。
そうした上で、本当に「幸せ」になれると言えるだろう。
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