青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

学問性 (中)

2009年07月27日 | 人生設計

yahooの掲示板「生きる意味」に、こんな記事を投稿した。

「言葉」について、色んな意見が出されている。
この「言葉」には、限界がある。

何故かというと、たとえば目が見えない人に、コップがどういうものか説明すると、しよう。
「水など入れるもの、容器、ガラスとかプラスチック製、大概丸い形」というような説明になる。
それを目が見えない人は、どのようなものなのか、想像する。イメージする。

それと同じように、「自然の摂理」というようなことは、このことが判らない、いわば目が見えないような人に説明しようとすると、直接的な説明方が無いため、まだるっこい説明しかできないので、なかなか理解してもらえない。
それは受け手である人が、その人の持つ生き方とか人生観が、この「自然の摂理」から遠く離れていることにあるといえる。


すなわち、道に暗いといわなければならなくなる。

それゆえに、受け手の人が、話しかける人の言葉を理解できる地点まで、這い上がる必要がある。
そういう努力もなしに、人が述べることが「おかしい」というのは、難癖になる。

この記事への意見。



 





ここは議論の場であって、双方が共に出し手であり受け手でもありますよ。
自分が出し手で相手が受け手というのは独善的解釈であり、
しかも、受け手が自分の書き込みを理解できないというのは独我的世界観の表出に過ぎないと思いますが……







この記事への応対文。

もちろん、議論です。

何故なら、こういうことからです。

私には、今年小学一年になった孫がいますが、算数の足し算を指を使ってやっている。
これは、問題と指との議論です。
これが哲学的な問題になりますと、解答を得るためには感覚的なものは役には立ちません。先の目が悪い人のたとえでいえば、コップを手に持たせて「これがコップだ」というような直接的には見せられず、どうしても間接的な言い回しな言い方をしてしか言いようがありません。

これを別な例えでいいますと、我々は仕事をして稼ぎを上げる、給料を貰います。すなわち「仕事をする」という地点まで、這い上がらないことには、稼ぎを得られないことになります。
このことから判ると思いますが、仕事を与えるということは「独善的」なものとはいえません。
ですから、「自然の摂理」として「出してと受けて」が存在する以上、どんなに出し手が親切に出し手をしても、受け手が我侭いっていたのでは理解ができないのです。。

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