津城寛文の徒然草 Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

天変地異の予感を心の片隅に

2017年06月16日 | 日記
 天災は忘れたころにやってくる、という知恵を、私たちは繰り返し思い知ります。数年前、千年に一度の大震災、大津波、そして原発事故が起こったとき、多くの日本人がこの知恵を思い出しました。

 天が落ちてくるのではないか、といった心配は、杞憂といわれて、愚かな心配性とされますが、天が落ちるような天変地異は、数千年、数万年の単位で考えれば、いつかどこかで、必ず起こります。

 火山列島、地震列島と言われる日本の地図を見ると、大噴火の跡が点在しています。私の親類縁者が多い南九州には、姶良カルデラ、鬼界カルデラ、阿蘇カルデラがあります。数千年、数万年前と同じ規模で噴火が起これば、幾つかの市町村、あるいは県が溶岩や火山灰に埋もれて、数万人、数十万人が消滅します。

 そのような歴史的な遺跡として、イタリアのベスビオス火山の大噴火で、町全体が埋もれたポンペイがあります。ほぼ一瞬に、日常生活が火砕流や火山灰に埋もれました。

 杞憂とは、起こらないことを心配するのではなく、なかなか起こりそうにないことを、今にも起こりそうに心配することです。間違いではありませんが、生活の効率としては、確率を考慮しない、非効率な心遣いです。終末論も、歴史始まって以来、常に唱えられてきましたが、部分的な破局は頻発しましたが、人類が全滅するにはいたっていません。つまり、終末論は、人類全体としては、「当たって」いません。人類全体としてだけではなく、個人的な終末論を考えると、いつ死ぬがわかりません。確実なのは、人はほぼ100歳くらいまでには死んでいる、ということです。

 私は心配性なほうで、どちらかといえば、杞憂をもって生活していますが、天変地異、個人としては事故や急病での死亡、といった終末を、つねに前提として生きるのは、個人としてもコストがかかりすぎます。そこで、明日、あるいは数時間後に、終末がくるかもしれない、ということを、ときどきは思い出しながら、あるいは常に心の片隅に置きながら、いつまでのこの世界が続く、と思って生きるのが、効率がいいのではないか、と思って、生きています。日常の中で、天変地異、大事故、大戦争など、終末のシミュレーションをすることもあります。終末の予感を心に置けば、日常の喜怒哀楽は、振幅が小さくなります。悲しみに打ちひしがれることはなくなり、楽しみに有頂天になることもなくなります。すべてはいつか終わるからです。

 天変地異や人災が起こったら、心の片隅にあった覚悟を前面に出して、予想していた終末に向き合いたいと思います。





 

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 高位の者は高い基準で裁かれる | トップ | 武器の無力化を研究すること »
最近の画像もっと見る

あわせて読む