津城寛文の徒然草 Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

しつこい菩薩

2017年04月24日 | 日記
 前回は、しつこく絡んでくる人には、腹をたてず、「はやく立派な人、幸せな人になってください」「私などに絡まず、ご自分の幸せで、手一杯になってください」と、しつこく祈ることで対応しましょう、ご自身が幸せになれば、他人を逆恨みしたり、他人に絡むようなことはしませんから、という意味の皮肉を書きました。

 今回は、それを受けて、7割くらいはまじめな話をします。

 菩薩は、仏の前段階とされ、諸仏の前世譚の中で、さまざまな菩薩が説かれています。

 いちばん有名な菩薩は、「観音様」と親しまれる観世音菩薩でしょう。文殊菩薩や賢菩薩も「文殊の知恵」ということわざになるほど知られていますが、危険物取扱注意施設の名称に採用(利用)されるなど、一部ではやや評判が悪いようです。

 これらほど有名ではありませんが、お釈迦様と阿弥陀様の前世も、それぞれ常不軽菩薩、法蔵菩薩とされ、関心のある人には、よく知られています。

 法蔵菩薩は、「すべての衆生が救われない限り、私は仏の地位を受けない」という誓願を立てられ、その菩薩が阿弥陀仏になられたのですから、理屈としては、すべての衆生がすでに救われている、ということになります。この弥陀の誓願と、成仏の経緯を聞いて、自分はすでに救われているのだ、と気付くのが、阿弥陀信仰の眼目です。

 「われわれはこんなに苦しんでいるではないか」というクレームは尤もですが、阿弥陀様に「南無阿弥陀仏」と唱え続けていると、唱える人の手柄ではなく、阿弥陀様の他力で、「救われている」とわからせていただけ、死してのちは極楽に導いていただける、と説かれているようです。

 この話を聞いて、おせっかいなことだ、と思う人もありますが、しつこいと思われることはありません。ただ、「南無阿弥陀仏」とずっと唱えている人のほうが、「しつこい」と思われることあります。1つのエピソードは、たとえばつぎのようなものです。

 ある人が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」とずっと唱えていると、側にいたお坊さんが、「〇〇さん、〇〇さん・・・」と呼びかけました。「何ですか?」と聞かれたお坊さんは、黙って答えません。しばらくすると、また念仏が始まり、お坊さんも、また名前を呼びかけ、「何ですか?」と聞かれますが、答えません。このやりとりが何度か続いてあと、ある人が「さっきから何ですか、うるさいなあ」と怒ると、お坊さんは、「阿弥陀様も、さぞうるさかろうなあ」と言われたとのこと。

 さて、「しつこい菩薩」といわれるのは、お釈迦様の前世の1つ、常不軽菩薩です。

 常不軽菩薩は、会う人ごとに、誰彼の区別なく、わざわざ「貴方は必ず仏になる人ですから、かりそめにも軽んじません」と言って礼拝し、「俺が仏になるなどと、でたらめを言うな」とののしられ、石を投げられ、棒で打たれても、「貴方は必ず仏になる人ですから、何をされても、礼拝します」と言って、礼拝をやめなかった、と描かれています。

 衆生はすべて如来になる種を蔵している(如来蔵)、あるいはさらに、すでに悟りを得ている(本覚)といった思想は、表現は異なっていても、あちこちにありますが、常不軽菩薩のキャラクターは、それをすべての人に宣言して回るという「おせっかい」なところ、さらには止められてもやめないという「しつこい」ところにあります。

 子供が朝になってなかなか起きてこないとき、親は何度も何度も起こしにいって、罵詈雑言を吐かれても、起きるまで起こしにいきますね。「目覚ましをかけて、ちゃんと自分で起きなさい」「勝手に遅刻して、痛い目に会いなさい」という言葉が、喉まで出かかっていても、それを言うと子供が不機嫌になるので、親は言いたいことと飲み込みます。

 ちょうどそのように、衆生が困ったことにならないように、自分が仏になる(仏である)と気づいていない衆生を目覚めさせようと思って、「自分で勝手に悟りなさい」と言いたくなるの飲み込んで、「仏であることに気づきなさい」と、しつこく起こして回ったのだと思います。

 なんという親心、老婆心の、ありがたい「しつこさ」でしょうか。このような「しつこさ」を、見習いたいものです。あるいは、あまり見習いたくない気もしますが・・・

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