津城寛文の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

「語り合う人間Homo colloquens」の提案に至った語り合い

2017年06月08日 | 日記
秋山学・津城寛文 

津城:このところ,翻訳の不可能性・不可欠性について,あれこれ考えているうち,ふと,コミュニケーション一般も同じであることを思い出しました.人間はもともと対話的な存在だから,たとえ完璧なコミュニケーションは不可能でも,何からのコミュニケーションは不可欠だという,どこかで聞いたような表現が頭に浮かびました.そこで,「対話する存在としての人間」という人間観を,誰か提案していないだろうか,と探してみました.しかしhomo, dialogueその他をキーワードに検索しても,まったくヒットしません.
 生物種としてのヒトを表す「知恵ある人homo sapiens」というタームを出発点に,「遊ぶ人homo ludens」,「語る人 homo loquens」など,さまざまな人間観が提案されています.宗教学では,エリアーデが好んで引用したhomo religiosusなる人間観が有名で,これは,調べてみると,動物学者で信仰者のAlister Hardyが提案したようです.しかし,「対話dialogueをする人」という提案は,なかなか見つかりません.
 もしないのであれば,ラテン語から造語しなければなりませんが,どのようになりますでしょうか? 古典語の知識がなく,専門家にぜひお教えいただければ幸いです.

秋山:「対話dialogueをする人間」について,「対話」という意味の英単語dialog(ue)は,元来ギリシア語の名詞διάλογος(発音dialogos) がそのまま音写されてラテン語に入り,まずdialogusという表記のラテン語名詞になり,これが(フランス語を経由すると-ueの語尾形をとり)英語に入ったものです.これを動詞にしようと考えた場合,ギリシア語にまで遡るとδιαλέγεσθαι(発音dialegesthai;不定詞形にしてあります)という語形の動詞「対話する」があるのですが,こちらはあいにくラテン語に入ることはなかったようなので,dialog(ue)という語彙をそのまま動詞化しようとするとうまくゆきません.
 ちなみに homo sapiens とかhomo ludensとかいった場合の-ensという語尾は,動詞の「現在分詞」という形なので(形容詞の一種),まず動詞形を考えて,さらに現在分詞の形にしてやることを考えねばなりません.このプロセスが途中で頓挫するというわけです.
 したがって,ギリシア語名詞のδιάλογοςを,(音写ではなく)意味的にラテン語に訳した語彙があるかどうかを探ることが次善の策ということになりそうです.手許にあるギリシア語―ラテン語辞書をみますと,διάλογοςに対してはラテン語colloquiumが挙げてありました.「討論会」「セミナー」などという意味になる「コロキアム」の原語です.この語彙は,ラテン語ではcon-(共に) loquī(語る)という構造を持つ動詞colloquī(不定詞形にしてあります)から派生した名詞ですので,さしあたりこの動詞なら現在分詞形を作ることができます.先生も挙げていらっしゃるloquensというかたちがloquīの現在分詞形ですので,前綴とあわせてcolloquensという現在分詞形を編み出し,結局homo colloquensという句になるのではないか,というのが一応のお答えです.「語らいをともにするヒト」⇒「ヒト:語り合う存在」くらいの意味になりそうで,さしあたりこの程度で我慢せねばならない,というのが落しどころのようです.

津城:詳細かつ簡明なご教示,まことにありがとうございます.古典語の生き字引のお側近くにいさせていただくことが,どれほどありがたいか,知の拠点にいることのメリットが骨身に染みます.ためしに,homo colloquensで検索してみても,まったくヒットしませんでした.あってもおかしくない,ありそうな言葉なのに,誰も使っていないのが不思議です.
その後調べていると,WikipediaのNames for the human speciesに,homo~という提案が,50以上あげられているのを見て,半分も知らなかったので,驚きました.
 ただ,ここにも,homo colloquens「語り合う人」「語らいをともにする人」はありませんので,間違いなく,新提案です.二人の日本人,「秋山―津城」の「語り合い」「語らい」「対話」から出た提案として,「世界初・日本発」という修飾を付けて,発信いたしましょう.意義があれば――あると確信します――辞書に載るようになると思います.

秋山: あまりうまい造語ではないかもしれませんが,これ以上にはなりえなさそうなので,もし適当だとお思いであれば,いかようなりともお使いください.因みに,綴り字上homo conloquensと綴っても全く同じです.ただしコロキアムとの関連性が示唆されて,homo colloquensのほうが良いかと思います.homo loquensではなくhomo colloquens であることの意味を強調していただければよいのではないかと考えます.homo loquens だと,ただひとりで駄弁を弄しているだけの印象があるので,先生の発案になる,語り合うヒト,というのは共同体性があってとてもいいと思います.
 ちなみに,homo colloquens をギリシア語に訳すとἄνθρωπος διαλεγόμενος(発音anthrōpos dialegomenos;anthrōposは「人間」)となります.クセノフォンの『ソクラテスの思い出』(1,6,11)ではソクラテスとアンティフォンが対談をする場面に,また新約聖書『使徒行伝』(19,8)ではパウロがエフェソスで人々と議論を交わす一節に,それぞれδιαλεγόμενοςという語形(もしくはその変化形)が用いられています.津城先生が案出された定義は,人類の歴史を顧みても十分に妥当性を持つものだと考えられるでしょう.

(秋山先生のご許可を得て、質疑を対話に構成しました。)

*******
意見広告:
「語り合う人間」
という人間観を、
日本オリジナル
として提案

Announcement:
'Homo colloquens'
as a view of humanity,
presented originally
and initially from Japan

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