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【やっぱり…】歴史を動かし損ねた決断ミス 5選【アカンかったか…(遠い目】[前編]

2017-01-26 07:43:57 | 歴史

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(担当S)

 
 歴史にif(イフ)は禁物だと言われていますが、近代史には「これは明らかに決断ミスでは…」と言いたくなる様な事例が数限りなくあります。
 そんな決断ミスの中には「あの時こうしておけば、こんなトホホな事にならずに済んだのに…」と、どうしても考えてしまいたくなるようなモノがいっぱいあります。
 そこで今回は、近代史の中で歴史を動かし損ねたと思われる決断ミス5選を、担当Sの独断と偏見で選んで紹介してゆきたいと思います。
 
 
(1)第一次世界大戦での英仏からの陸軍派遣要請の拒絶(日本)
 戦前の日本は暗黒の時代だと考えられがちですが、大正デモクラシーなどの言葉が示す通り、平和で文化的な雰囲気が溢れていた時期もありました(※余談ですが、担当Sが現在住んでいる大阪が東洋一の大都市になったのも、この時期です)。
 大正時代がどうして自由な雰囲気に包まれていたかと言うと、第一次世界大戦によって発生した戦争景気と、当時、世界最大の植民帝国だった超大国・イギリスと同盟を結んでいたお陰で、欧米列強が日本に戦争を仕掛けてくる心配が和らいで、国防の問題をある程度は後回しに出来たからです。
 この大正デモクラシーが持つ空気は軍部にまで及び、大正時代の軍人は昭和時代の軍人とは違って、軍服のファッションなどにも、かなり気を使っていました。
 そんな平和で文化的な空気に包まれていた日本でしたが、青天霹靂とも言える要請がイギリスとフランスから齎されます。
 当時、ヨーロッパ各地で戦闘に明け暮れていたイギリスとフランスの両軍は、精強なドイツ軍相手にかなりの苦戦を強いられており、これを打破する為にイギリス・フランスの両政府は日英同盟を根拠に、日本に対して陸軍の派遣を打診してきたのです。
 しかし、戦争景気に沸いていたとは言え、未だ発展途上の貧乏国だった日本は、膨大な軍事費の捻出が予想されるヨーロッパへの陸軍の派遣を渋り、イギリス・フランス両政府に対して丁寧なお断りの返事をしました。
 一説では、日本政府がこの時に陸軍の派遣を渋った陰には、1905年に起きた日比谷焼打事件のトラウマが、未だ政府首脳陣の頭の中に根強く残っていた為だと言われています。
 多大な犠牲者が出る事が予想される割には、殆ど何の利益も得られないと思われるヨーロッパへの陸軍の派遣は、再び日比谷焼打事件の様な国民の怒りを買う恐れがありました。
 しかし、この時に下した派遣拒否のツケは、決して安くはありませんでした。
 日本が陸軍を派遣してくれなかった事に対して深く失望したイギリスは、第一次世界大戦が終結した3年後の1921年に、それまで19年間続いてきた日本との同盟の解消を決め、続く1923年に正式に日英同盟が失効します。
 この日英同盟の失効により、それまでは超大国・イギリスの威を借りる事が出来た国防を、日本一国で全て行うしかなくなり、これが昭和初期の過剰な軍国主義体制へと繋がって行きます。
 
 
(2)ウィルソン政権の国際連盟非加盟(アメリカ)
 第一次世界大戦末期の1918年に、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領(※上の写真の人物)は「世界平和機構の設立」を訴え、このアイデアが後に国際連盟(※現在の国際連合の基となった国際機関)として実現する事となります。
 しかし、国際連盟の提唱者とも言えるアメリカは、モンロー主義を唱えるアメリカ国内の有力政治家達の反発によって国際連盟の加盟が阻まれてしまい、イギリス・フランス・日本等の世界の主要国が次々と国際連盟に加盟していく中で、アメリカは最後まで非加盟のままでした。
 第一次大戦によって、それまで世界を支配していた大国であるイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリアは大きく国力を後退させており、敗戦国であるドイツとオーストリアに至っては帝政の崩壊に付け加え、国家そのものが解体されてしまいました。
 ロシアも戦争中に起きたロシア革命によって、それまでの帝政が崩壊し共産主義国家のソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)へと変わってしまい、以前のような世界に覇を唱えられる力を失っていました(※旧ソ連が超大国として君臨するのは、第二次世界大戦が終結してから)。
 この時点で世界を動かせる力を持っていた大国は、アメリカ一国だけになっていたのですが、そのアメリカが国際連盟に加盟しなかった為に、国際連盟はその設立当初から機能不全に陥っていました。
 世界平和の実現を期待された国際連盟でしたが、結局、世界に平和をもたらす理想は夢物語に終わってしまい、後の1939年に引き起こされる事となる新たな世界大戦(第二次世界大戦)に対しても、有効な抑止力とはなり得ませんでした。
 
 
(3)チェンバレン政権のナチス・ドイツに対する不干渉
 第一次世界大戦でイギリスは戦勝国になりましたが、それにも関わらず戦争によって人的・経済的に大打撃を被ったことにより、19世紀初頭から100年近く続いてきた世界一の超大国の座から、今にも滑り落ちようとしていました。
 それでも、未だ世界に対する強い影響力は揺らいでおらず、超大国であるイギリスと面と向かって争うおうとする国は存在しませんでした。
 それは後にイギリスと死闘を繰り広げる事となるナチス・ドイツにしても同様で、ヒトラーはイギリスとの対立を避けて共闘する道を模索していた程です。
 そんな状況の中で、1937年5月にイギリスでチェンバレン政権が発足します。
 首相であるネヴィル・チェンバレン(※上の写真の左側の人物)は、ナチス・ドイツのヒトラーよりもスターリン率いるソ連の方が、イギリスにとっては遥かに脅威であるとの考えを持っていたので、ドイツに対しては宥和政策を取る事にしました(※チェンバレン政権発足前の1935年に結ばれた英独海軍協定により、イギリスはドイツに対して以前から融和的だった)。
 しかし、ヒチラー率いるナチス・ドイツは、チェンバレン政権が発足する前年の1936年1月に、中立地帯として設定されていたラインラント地方に無断で軍隊を駐留させるなど、膨張主義の片鱗を既に垣間見せていました。
 その後もヒトラーによる膨張主義的な行動は止まらず、1938年4月にはオーストリア併合、そして同年9月にはチェコスロバキアのスデーテン地方をドイツに編入します。
 このスデーテン地方の編入に対しては、流石のチェンバレン首相も難色を示しますが、ヒトラーが「これが最後の領土要求である」と宣言したので、取り敢えずはその言葉を信じて黙認する事にしました。
 しかし翌1939年1月にドイツはチェコスロバキアを解体し、更に同年9月1日にはポーランドに対して軍事侵攻を開始した為に、ドイツとの融和を探っていたチェンバレン首相も、この明らかな侵略行為に対して、もはや黙って見過ごす事が出来なくなりました。
 ポーランド侵攻の2日後の9月3日にイギリスはドイツに対して宣戦を布告。ここに第二次世界大戦の火蓋が切って落とされる事となります。
 第二次世界大戦の初期にドイツ軍はイギリスやフランスの連合軍を圧倒した事から、大戦前から既に非常に強かったのだと思われがちですが、実はチェンバレンが首相になった1937年頃には軍備がまだ十分には整っておらず、もしイギリスが軍事的に威嚇したら、なんの抵抗も出来ないまま屈服せざる得ませんでした。
 ですがチェンバレン政権がドイツとの融和を探っていた2年余りの短い期間に、ヒトラーは急速な軍拡を進め、気がついた頃にはイギリスとフランスが束になっても敵わない程の軍備を整えていたのです。
 この致命的とも言える失策により、チェンバレンは後世の歴史家から「ドイツに軍備を整える時間的猶予を与え、更にヒトラーが近隣諸国に侵攻する隙を与えた」と非難される事になります。
 
 
 
 
 
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