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風船のゲームを作ったので、今回は風船や気球の歴史について

2017-01-26 07:33:05 | 歴史
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  iPhone用ゲームアプリ(iOS6.0以上)
 
(担当S)
 
■知ってるようで知らない風船の歴史について。
 

 寒くなってきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?ブログ担当の担当Sです。

 担当Sは寒いのが大嫌いなので既に風邪気味です。担当Sは大阪育ちですが出身は東京で、両親とも東北の人間ですから、本来は寒いのには強いはずなんですけど、きっと自分の先祖はきっと南国に住んでいたと信じて疑わない位に寒いのが苦手です。
 ああ、夏の日の西日が恋しい…
 と、どうでもいい話は置いておいて、今回の話題は風船の歴史についてです。風船と言うと普通、ゴム風船を連想しますが、ゴム風船のみについての話だと歴史が浅い上に話がとても薄くなってしまうので、気球も風船の一種類として話を進めていきます。
 さて風船と一言に言っても中に詰めるガスの種類によって、性質は大きく異なります。よく販促活動の一環として街で配られている風船は宙を舞いますが、あれは空気よりも軽いガスが風船に詰められているからですね。
 担当Sは子供の頃、駄菓子屋で売っているゴム風船を膨らましては「どうして浮かへんねやろ?」と疑問に思ったものですが、風船の中に空気(担当Sの息)を幾ら詰めても比重の関係で宙に浮かんだりはしません。
 風船を宙に浮かすには風船の中に空気よりも軽いガスを詰めればいいのですが、ぶっちゃけそのガスはなんであっても構いません。
 熱した空気は普通の空気よりも軽いので、それを風船の中に詰める事ができれば宙に浮かす事が出来ます。
 熱気球はそういう原理で空に浮かんでいます。
 学校で熱気球を発明したのはフランスのモンゴルフィエ兄弟で1783年と習ったと思いますが、それは人間や動物を乗せた熱気球の事であって、無人の熱気球なら太古から存在します。
 無人の熱気球が歴史に登場するのは3世紀頃で、三国志で有名な諸葛孔明が発明した「天灯」が史上初の熱気球とされています。
 写真がその「天灯」です。熱気球と言っても、そんなに大きなものではなく、サイズも街頭で配られているようなヘリウムガスを詰めた風船と大差ありません。
 夜中なのに「天灯」が明るく輝いているのは、「天灯」の下で油を染みこませた紙を燃やしているせいで、構造的にも原理的にも人が乗るような熱気球と全く一緒です。
 先に「天灯」の発明者を諸葛孔明だと書きましたけども、本当のところは誰が発明者なのかはハッキリしてません。
 諸葛孔明が古代中国を代表する戦術家・戦略家だったので、だんだんと話に色々と尾ひれがついて、孔明が発明したんだという説が現在に伝わっているだけのような気がします。
 ですけど少なくても3世紀の頃のアジアに「天灯」のような熱気球が存在していたと言うのは確かなようです。この「天灯」は中国以外にもアジア全般に広く普及しており、タイのチェンマイで開かれるコムローイ祭では沢山の「天灯」を空に放つ光景を目にすることができます。
 さて時は進んで18世紀。当時、世界でもっとも科学が進んでいたヨーロッパで水を化学的に分離させる方法が発見されました。水を化学的に分離させるとどうなるかと言うと、水素と酸素に分かれるんですね。
 水素は自然界ではもっとも軽い元素なので、これを気球に詰めれば宙に浮きます。当時のヨーロッパの人達はいち早くこの事実に気がついて、さっそく人が乗れる水素ガス気球が発明されます。
 世界初の水素ガス気球はフランスのジャック・シャルルが発明しました。1783年の事になります。同年に初の有人飛行に成功しますが、当時の技術では行き先は風まかせ運まかせで、とてもじゃないですが実用的な乗り物とは言えませんでした。
 その後も水素ガス気球にエンジンなどをつけるなどして改良が進んでいきますが、気球と言う乗り物が本格的な実用性を備えるには1900年まで待たなければなりませんでした。
 1900年にツェッペリン伯爵によって開発された飛行船LZ1(写真を参照のこと)こそが空の旅に革命を起こした飛行船で、20世紀前半に空の旅を席巻した旅客用巨大飛行船の原型となるものでした。
 あの有名なヒンデンブルグ号の爆発事故が起きるまでは、空の国際長距離線の主役はツェッペリン飛行船だったと言っても過言ではないでしょう。
 飛行船LZ1の何が画期的だったかというと、それまでのグンニャリした気球の構造を捨てて金属で骨組み作り、金属製の強固な船体の内部にガス嚢と呼ばれている部分を設けて、そこに水素ガスを詰めたて空を飛んだ事です。
 こうする事によって、従来の気球や飛行船にない操縦性をLZ1は手に入れる事が出来ました。こうして飛行船は真に旅客を運べる手段として進化したわけです。
 ジャンボジェットや、それよりも大きいエアバスのA380が、世界中の空を飛び回っている現代の感覚では、飛行船などは古色蒼然とした乗り物にしか見えませんが、当時としてはオーパーツと呼んでもいいほど画期的な、空を移動する手段でした。
 このツェッペリン飛行船と当時の飛行機を比較すると、当時の飛行機は非常に原始的でした。当時の飛行機はなんとか空を飛べる程度の乗り物であって、墜落して命を落とす危険性も非常に高かったのです。
 そんな原始的な乗り物だった飛行機ですが、時代が進むにつれ少しづつ改良されていきます。それでも戦前の飛行機では、本格的な旅客輸送などは夢のまた夢でした。
 戦前のアメリカで作られた旅客機にDC-3というものがあります。近代的な旅客機の先駆けであり、名旅客機と言われているDC-3ですが、この名旅客機でも一度のフライトで運べる人数は、無理矢理詰め込んで34人(内パイロット2名)が限界で、飛行距離に至ってはとてもじゃないですが国際便に使えるような代物ではありませんでした。
 DC-3が現れた頃に長距離を飛ぶ旅客機はあるにはありましたが、そう言う長距離を飛ぶ飛行機は一部の例外を除き、殆どの場合、飛行艇と呼ばれる飛行機が使われていました。飛行艇とは海に着水する事ができる飛行機で、半分飛行機・半分船みたいな構造をしています。
 どうしてこんな特殊な構造の飛行機を、長距離の路線で使っていたのかというと、当時の技術で大西洋や太平洋を横断しようとすれば、必ずどこかで燃料を補給しなければなりませんでした。しかも一回だけでなく複数回、燃料の補給が必要でした。
 ですが、その燃料を補給する場所と言うのが、例外なく海に浮かぶ孤島で、当時は現代のように航空網なんかは発達してませんから、そんな海の孤島には当然ながら空港なんかもありませんでした。
 しかし飛行艇は半分船みたいな構造をしていますから、そのまま何の工夫をせずとも海に降りられます。燃料の補給を行う孤島に空港がなくても、飛行艇を使えば大きな問題にはなりませんでした。
 話が少し脱線しますが、日本でも戦後しばらくの間は、空港などのインフラが整備されるまで、飛行艇が全国各地で活躍していたようです。
 大阪なんかでも、八尾空港から和歌山の白浜へ向かって、飛行艇が定期便として飛んでいたと言う話を聞いたことがあります。当時はそれなりに、飛行艇のような特殊な飛行機にも需要があったようです。
 話を元に戻しますが、当時使われていた飛行艇は、一回の燃料補給で飛べる距離が限られていました。大西洋や太平洋を渡る際には、燃料を補給しつつ孤島と孤島の間を飛び石で飛んでいきます。離陸したら降りて燃料補給、そして離陸したまた降りて燃料補給…を何回も繰り返すわけです。そんな事をしてたら当然、目的地までの移動には時間がかかります。
 旅客用の飛行艇として最も有名だと言われているのがマーチンM130と言う飛行艇なのですが、このマーチンM130がアメリカからフィリピンまでの定期路線を飛ぶ際に、4泊5日もかけて飛んだと言う記録が残ってます。当時の空の旅は、現代よりもはるかに大変だったみたいです。
 さて話をツェッペリン飛行船に戻しますが、ツェッペリン飛行船はそんな時代にあって、大西洋や太平洋を横断するのに、燃料補給の為に地面に降りたりする必要もなく、しかも当時の飛行機と比べると格段に安全に目的地まで直行できる、唯一の手段でした。そう言う事もあって国際航路では、空の旅客輸送の主役として君臨していたのです。
 もう一つ、当時の飛行機にはなかった利点として、飛行船は沢山の人数を乗せることが出来ました。
 かの有名なヒンデンブルグ号は、乗員乗客合わせて最大で133人を乗せる事が可能でした。
 今の基準で見れば、中型旅客機の乗客数程度ですけども、当時としては画期的で、たとえば先に紹介したDC-3が最大34人、国際航路を飛んでいた大型飛行艇のマーチンM130でも、乗員乗客合わせて47人しか乗せられませんでした。それらに比べると正にオーパーツとも言えるような定員を、ヒンデンブルグ号は一度のフライトで運ぶことができました。
 当然のことながら、当時の旅客機が、ツェッペリン飛行船のライバルになるとかはありえず、ツェッペリン飛行船にとっての最大のライバルは当時、最盛期を迎えていた大西洋航路の旅客船でした。
 最大定員で飛行船は旅客船に負けるものの、所要時間は旅客船の一週間前後に対して僅か2~3日と比較にならないほど早く、十分に競争が成立する条件が揃っていました。
 こうして黄金期を迎えた飛行船による大西洋航路の旅客輸送ですが、ヒンデンブルグ号の爆発事故によってあっけなく幕を閉じます。
 ヒンデンブルグ号の爆発事故以後、大西洋航路から巨大飛行船による旅客輸送は姿を消しました。
 よく飛行船による旅客輸送は、このヒンデンブルグ号の爆発事件が決定的な要因となって幕を閉じたと言われますが、担当Sはそれは半分正解で半分間違いだと思います。
 ヒンデンブルグ号が爆発事故を起こした1937年は既に世界情勢がキナ臭くなっており、世界大戦の影もちらほら見えている頃でした。二年後の1939年には、第二次世界大戦が勃発するきっかけとなったドイツによるポーランド侵攻が起きてますから、世界情勢がかなり不安定な時期でした。
 もし仮に、ドイツのツェッペリンが2年か3年くらいの時間を費やし飛行船の信用回復に全力を傾け、その努力が実ったとしても、信用を回復した頃には世界大戦が既に始まっており、大型の旅客用飛行船が以前のように優雅に飛び回れるような状況ではなくなっていたと思います。
 ちなみに、この大戦中に飛行機の性能は劇的に向上し、戦後に出現したプロペラ旅客機のDC-4やロッキードコンステレーションは戦前のツェッペリン飛行船と性能面で遜色がなくなっていました。経済性においてはツェッペリン飛行船と比較するのが馬鹿馬鹿しいと感じられれるほどに優れており、飛行船が出る幕は既になくなっていました。
 これらの戦後に現れた旅客機が、ツェッペリン飛行船と比べて唯一劣っていたのは一回のフライトで運べる定員の数ですが、DC-4もロッキードコンステレーションもツェッペリン飛行船より遥かに速度が速かったため、その速い足を生かし同じ航路を何回か往復して沢山の旅客を運べばよかったので、殆ど問題になりませんでした。
 これで風船にまつわる歴史についての話は終わりです。古代の熱気球「天灯」から近代のツェッペリン飛行船まで話が及びましたがいかがだったでしょうか?
 ゴム風船の歴史に全く触れなかったので一応すこしだけ触れておきますが、現代的なゴム風船の原型は1847年にJ・G・イングラム社によって開発されたらしいです(余り興味がないので適当)。
 それではまた次回、会いましょう。
 


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 [gooブログ]風船のゲームを作ったので、今回は風船や気球の歴史について
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