竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

東条松平家

2017年10月17日 | 十八松平家
平成29年10月17日(火)
お早うございます。
毎日雨が降り続きます。寒暖の差が激しい今日この頃体調を崩さないようにご自愛ください。

今日は、東条松平家(とうじょうまつだいらけ)を紹介いたします。
<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日

東条松平家(とうじょうまつだいらけ)は、清和源氏新田氏流松平氏の庶流。始祖は松平宗家5代目・松平長親の三男・義春。三河国の東条城を居城とし東条松平家と呼ばれた。青野松平家とも。十四松平・十八松平の1つに数えられる。


初代・松平義春は松平清康・広忠時代の松平氏の困難な時期も宗家を支持した。義春の孫・松平家忠は天正9年(1581年)に病没したが嗣子なく、徳川家康はその四男・福松丸(後の松平忠吉)を養子として跡を継がせた。

忠吉は武蔵国忍城10万石に封ぜられ、のち尾張国清洲城52万石を領して徳川宗家の支柱として重きをなしたが、慶長12年(1607年)3月5日に嗣子無く夭折する。家康はその名跡の存続させず、甲斐国甲府藩主の九男・五郎太(後の徳川義直)を清洲に移して尾張徳川家を創設した為、慶長12年(1607年)閏4月26日、東条松平家は断絶した。しかし、その領地と家臣団の大半が尾張藩に引継がれた。


▲ 東条城の本丸虎口と城門。説明板によれば、創建当初の鎌倉時代に近い状態に再現されたという。


▲ 城址西側の藤波畷古戦場跡から見た東条城跡。永禄四年(1561)、城主吉良義昭は眼前で繰り広げられた負け戦を見て、徳川家康に降伏した。


築城年代は不明。一説によると、承久3年(1221年)に、足利義氏が築き、三男吉良義継を入れる。以後、義継を祖とする前期東条吉良氏と吉良尊義を祖とする後期東条吉良氏の居城となった。

城主の吉良氏は、戦国時代の義昭の時に永禄4年・同6年(1563年)と松平氏の攻撃に相次いで敗れて退城、以後は東条松平家の居城となる。天正9年(1581年)城主松平家忠(甚太郎)が無嗣で病没し、家康の四男・松平忠吉が家忠養子となるが東条城には入らず、翌天正10年(1582年)には忠吉が駿河国沼津城主となり東条城は廃城となった。
コメント
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