漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

終わりの街の終わり

2017年09月29日 | 読書録
「終わりの街の終わり」 ケヴィン・ブロックマイヤー著 金子ゆき子訳
ランダムハウス講談社刊

を読む。

 ネビュラ賞短編部門ノミネート作品を長編化したものとのこと。

 人は死んだ後に、これまでとはあまり変わらない死後の世界での生活があるというのが、作品の大前提となっている。その世界では、現実の世界と同じような街がきちんと存在し、ちゃんと機能している。煉獄界のようなものだろうか、その死後の街で、死んだ人は、その人のことを知っている人が誰一人現実世界にいなくなったときに消滅するということになっている。従って、たくさんの人々に知られている人、寿命の長い人が知り合いにいる人などは、その世界で長く生き続けることになる。そして、現実の世界で、死別してしまった家族などが、ふたたびその場所で幸せに暮らしていたりするわけである。ところが、その街の住民がある時期を境にして、急速に減少し始める。それはつまり、現実の世界から彼ら死者を記憶している人物が急激に減少し始めたということを意味しているわけである。
 場面が変わって、現実の世界。主人公はローラという女性。コカ・コーラ社によるあるプロジェクトのために、南極にいるのだが、外界との連絡が突然つかなくなって、何が起こっているのか、わからないでいる。いったい、何が起きているのだろうか。先に調査のために出かけた同僚とも連絡がつかなくなってしまった彼女は、単身、基地を出て北へと向かう……。

 というのが、。おおまかなストーリー。
 言うまでもなく、破滅ものである。極地にいる人物ただ一人だけが生き残る、という物語といえば、M.P.シールの「The Purple Cloud」(「紫の雲」のタイトルで翻訳していて、一応ひととおり訳了しているのですが、最後までアップしていません……)とも共通しているが(あっちは北極だけれども)、「紫の雲」とは違って、その後主人公による破滅した世界の廃墟観光とはならないし、世界の再生も示唆されない。死後の世界サイドはともかく、現実の世界サイドは、ひたすら暗く、シビアな、世界の終わりの物語である。この作品の中で、世界を破滅に導くものは、核ではなくてウィルスである。細菌兵器として開発された、空気感染する致死率100%のウィルスが、どこかのテロリストの手でばらまかれ、極地を除く世界中にあっという間に広がってしまう。作中で、その拡散に使われたのがコカ・コーラであることは示唆されるのだが、誰が何の目的で、というあたりは、詳らかにならない。誰一人生き残ることの出来ない状況がある以上、もはやそんなことを知ったところで何の意味ももたない、ということなのだろうか。あまりにも成すすべなく物語が終わってゆくので、読みながら、「え、これで終わりなの?」と、僅かに動揺した。
 読者を選びそうな作品ではある。個人的には、長編の醍醐味がないので、もしかしたら短編のままでよかったんじゃないかなという気もしたが、短編バージョンは読んでいないので、わからない。
 読みながら思ったのは、この小説はある意味で究極の「セカイ系」とも言えるのだろう、ということだった。死後の世界とはいえ、ひとりの女性の命に、世界の存在そのものが委ねられているのだから。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kazuou)
2017-09-30 07:57:46
「記憶によって存在する死者の街」という設定がなんとも魅力的で、大好きな作品です。
世界が破滅する…というタイプの作品でも主人公側が抵抗したりするものですが、この作品の場合、一方的な破滅へと向かうのが潔い感じですね。
kazuouさんへ (shigeyuki)
2017-09-30 08:24:47
魅力的といえば魅力的な設定なのかもしれませんが、いろいろ考えると、破綻しそうな設定でもありますね。。。現実世界の人が記憶している人がすべて存在する世界というのなら、普通に考えて、人口がとてつもなく多くなりそうですし。それに、どこに転生(?)するのかという、そのルールも、気になったり。まあ、あまり考えない方がいいのでしょうね。最後のひとりが死んだとき、「終わりの街」が、まるで意識が収縮してゆくように、小さくなって消えてゆくというイメージこそが大事なのでしょう。
記憶で死者が存在させられる、といえば、シュペルヴィエルの「沖の小娘」がどうしても思い浮かびますが、まあ、あっちのほうがすっきりとしているのは間違いないでしょうね。

コメントを投稿